第1話⑦
和樹たちは、ケンの枕元へと静かに歩を進めた。
「……これを掛けておくと、冷気が周囲の温度を下げてくれます。
氷を使わなくても、お身体の安定が保たれるんです。香りにも、少し意味があります」
そう説明しながら、和樹は新たに取り出した一枚の布を、母娘にそっと見せた。
サヤは、その布に静かに目を落とす。
白く透ける織り目には、淡い蒼の染みがにじんでいた。
「香り……ですか」
清らかで、どこか切なさを宿すような、かすかな花の香りが漂う。
「これは……氷香花の匂いかしら」
「その通りです、お母様」
和樹は微笑んでうなずいた。
「この布には、氷香花のエキスを染み込ませてあります。
この香りは、“夜を落ち着かせるもの”として、この世界では昔から使われてきたと聞いています。
静かな別れの夜にふさわしい――ヌールでは、そう考えています。
お父さんがこれを望まれていたかは……正直わかりません。
でも、少なくともこの香りには、故人の尊厳を静かに守る力があります」
そう言って和樹は、そっとその布をケンの胸元に掛けた。
布はふわりと降り、死者の眠りを柔らかく包み込む。
それを見つめながら、サヤがぽつりとつぶやいた。
「……なんだか、こうして少しずつ“送りのかたち”ができていくのが、不思議ですね。
律ではなく……こういうのも、“ちゃんとした別れ”に感じられます」
その言葉に、ネフェリはやわらかく微笑んだ。
「あなたがそう感じてくれたなら……この場の“送り”は、すでに始まっているのです」
静かな沈黙が、部屋をやさしく包む。
氷香花の香りが、まるで一足早く“今生の夜”に入ったかのように、静かに流れていた。清楚の儀を終えた和樹とネフェリは、翌日からの儀式に備えるため、一度ケンの家をあとにすることにした。
最初は警戒と不信のまなざしで彼らを迎えたリュカ夫人も、
今はどこか柔らかさを帯びた表情で、静かに二人を見送っていた。
その姿を目にしながら、和樹はふと心の中でつぶやく。
――少しは、役に立てたかもしれないな。そして次に、和樹とネフェリは街の管理区にある――律協会へと足を運んだ。
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