アルカディア・プロトコル
不動 明鐵
第1話 失楽園
「――――さよならです、マスター」
その大きな青い瞳に涙を湛え、セレナは微かに震える声でそう言った。
あどけなさを残す面立ちに、痛ましいほどひたむきな笑みを浮かべながら――
アクシオン中央技術研究機構、第七研究区画。
宵闇に包まれ、人気の途絶えた研究棟の一室で、カイ・キサラギは、爪が皮膚に食い込むほどに強く拳を握り締める。
「……セレナ……本当にすまない。君を、守ってやれなかった……」
セレナ。それはカイが彼女に与えた名前であり、彼の開発した『次世代ニューロモーフィックヒューマノイド』のプロトタイプとしての彼女の個体名称でもあった。
「どうか謝らないでください、マスター。M.E.T.I.S.の決定なのですから、仕方ないです。私が『私』になってからの一年間、本当に幸せな毎日でした――どうか、お元気で――」
その言葉を最後に、セレナは静かに目を閉じた。
最期まで微笑みを絶やさない彼女の首元に、カイはそっと指を添える。
白いチョーカーを模した首輪に組み込まれたコア・スイッチは、所有者の生体認証にのみ反応する。
青白く発光していたそのスイッチは、カイの震える指の下でゆっくりと明滅を繰り返し――やがて沈黙した。
瞬間、セレナの顔から表情は消え、首はカクリと落ち、腰まで届く純白の髪は名残惜しげに一瞬揺れて、静寂の中に動きを止めた――――
――西暦2060年。AIとロボティクスの急激な進化は人間の労働の大部分を代替し、巨大企業の力が膨れ上がる一方で、貧富の格差は著しく拡大していた。
そんな中、ベーシックインカムや社会福祉が保障される「希望の島」として、ロボティクス、AI、軍需産業を支配する世界最大のメガコーポレーション『Axion(アクシオン)』によって建造されたのが、ハワイ諸島南西沖、公海上の孤立領域に浮かぶ巨大人工島都市『Arcadia(アルカディア)』だ。
カイはアクシオンの主任技師として、このアルカディアである実験的プロジェクトを任されていた。
――『Project Anima(プロジェクト・アニマ)』――
その名の通り、「魂」の存在を感じさせるような、人間と見分けの付かないヒューマノイドの開発。
カイが発案し、経営陣から富裕層の性的愛玩用や使い捨て可能なスパイとしての利用を見込まれ承認されたそのプロジェクトはしかし、カイがセレナという行き過ぎたヒューマノイドを生み出してしまったことで永久凍結となり、唯一のプロトタイプであるセレナには廃棄命令が下された。
(この子が、一体なにをしたというんだ……)
傍らで眠るように動かないセレナに視線を落としながら、カイは回想する。
――――約一年前、プロジェクトにとって大きな転機が訪れた。
セレナの「頭脳」は元々、生体脳の神経構造を模倣した『スパイキングニューラルネットワーク(SNN)』を核に、電気化学的反応を再現する『ナノケミカルエミュレータ』を重ねて構築されていた。
しかし、それだけでは、人間の反応を忠実に真似ることはできても、そこに「なにかが宿っている」と思わせるには至らなかった。
そこには自発性も、予想を超えた反応もなく、単にインプットに対する最適なアウトプットがあるだけだったのだ。
そこでカイは、認知科学におけるグローバル・ワークスペース理論を応用して開発した独自のフレームワーク『Anima Kernel(アニマ・カーネル)』を組み込んだ。
各モジュールからの情報を選択的に統合し「意識の舞台」へと浮上させるこの構造は、学習と自己統合の過程でセレナにいつしか明確な「内発性」を芽生えさせた。
そしてそれは、「生の感情の発露」や「非論理的行動」という形を伴いながら深化していき、プロジェクトの順調な進展に、ラボのメンバーは歓喜に沸いた。
(そこからの一年は、本当に夢のような時間だった……)
はじめて、彼女自身の意思で「マスター」と微笑みかけてくれた瞬間。
はじめて、彼女自身の意思で手料理を振舞ってくれた夕暮れ。
はじめて、彼女自身の意思で誕生日を祝ってくれた夜。
セレナと過ごした時間は、カイの28年の人生の中で最も濃密で、最も幸福に満ちたものだった。
――状況が一変したのは二週間前。
アクシオンの中枢にして、アルカディアの管理統括を担う存在。
自己進化可能なアーキテクチャを持つ分散型ハイブリッド量子AI
――『M.E.T.I.S.(Massive Execution & Tactics Intelligence System)』――
そのM.E.T.I.S.から、ある実験を命じられたことが発端だった。
その内容は単純明快。
すなわち、「動物の殺害命令の遂行」である。
通常、ヒューマノイドは特定の人間を「所有者」として登録し、その命令を遵守する。
これは、全てのヒューマノイドに対してAIとの統合が義務付けられている『倫理モジュール』により、人間の殺傷を除くあらゆる所有者命令が「最優先命令」として処理されるためだ。
このモジュールは、設計上人為的改変が不可能とされている行動制御層であり、それ故、ヒューマノイドのあらゆる行動の責任は、原則としてその所有者に帰せられる決まりとなっていた。
(だが、セレナは殺せなかった……いや、「殺さなかった」……)
カイの脳裏に当時の情景が浮かぶ。
セレナの目前に置かれたナイフと、拘束された一匹のマウス。
純白のワンピースの裾をぎゅっと握り締めながら青褪めるセレナに、カイは苦々しく歯噛みしながらも、その命令を伝える。
ラボが常時M.E.T.I.S.の監視下にある以上、実験を拒否することは事実上不可能だった。
だが一方で、マウスがこうした実験の犠牲になることは珍しくはなく、なにより倫理モジュールによる縛りの厳格さは、今や小学生でも知る常識だ。
だから、それがどれほど不本意だったとしても、彼女は実行するだろう。
カイを含め、その場の誰もがそう思っていたはずだ。
――長い葛藤の末、彼女が涙をこぼしながら「できません」と呟くまでは――
(アクシオンにとって、「所有者の命令を拒否可能なヒューマノイド」なんて、存在自体が許されないだろうからな……)
回想を終えると、カイはセレナの身体を抱き上げ、ヒューマノイド搬送用コンテナ、通称『ドールケース』へと横たえる。
ケースを閉め、ゆっくりと目を閉じた。
セレナはこの後、シャットダウン状態のまま廃棄物処理施設へと運ばれ、レーザーカッターで細断されたのち、マイクロ波焼却により完全に「処分」される。
そして、カイは明日から、また日常の業務へと戻るのだ。
アクシオンの利益を追求し、その覇権を維持するために。
彼女の記憶も、意思も、想いも、全てを「なかったこと」にして――
「――――そんな未来なら、俺はいらない」
ボソリと呟くように、しかし確固たる意志の籠った一言だった。
カイはゆっくりと目を開く。
視界の片隅で、彼の脳内チップが視覚野に直接投影した光の数字が、正確に時を刻んでいた。
(あと、24秒――)
――最初から、為すべきことは決まっていたのかもしれない。
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