第2話 眠り姫

アルカディアは、三層からなる同心円状の段差構造を持つ巨大な人工島だ。

中心の『上層』には、アクシオン本社ビルや研究棟、同社幹部と富裕層の居住区が。

その外側の『中層』には、商業・工業区画と一般市民の居住区のほか、港湾への入り口がある。

そして島外縁部の『下層』には、『信用スコア』が基準を下回った住民達が強制的に隔離された結果として形成された、混沌としたスラム街が広がっていた――


「……今の時点で信用スコアに変化がないということは、成功したと見てよさそうだな」


夜の帳が下りる中、カイは中層の自宅の窓越しに、上層との間にそびえる巨大な壁を眺めながらそう呟いた。

『信用スコア』――それは、住民の行動履歴・思想傾向・犯罪歴などをM.E.T.I.S.が逐次評価・更新する、市民IDと紐づいた実質的な身分制度だ。

このスコア次第で、各層間の移動の自由はもちろん、就業・医療・住居・教育といった生活の根幹すら左右される。

カイのが露見していたとすれば、今頃は信用スコアが急落し、捕縛のうえ下層に落とされていなければおかしかった。

そしてそれは、取りも直さず、ひとまずの安全が保障されたことを意味していた。


「……さて、俺では役者が足りないかもしれないが……」


カイは、街並みのネオンを反射しながら通過する監視ドローンを尻目に、全ての窓の透過率をゼロに調整すると、ベッドルームに向かう。

スライドドアが滑らかに開くと、そこには眠るようにベッドに横たえられた姿があった。

時の流れに取り残された童話の姫を思わせるその彼女の隣に、カイはそっと腰を下ろし、


「――100年経ちましたよ、眠り姫」


芝居がかった声でそう囁くと、口付けに替えて首元のコア・スイッチに触れた――


――ゆっくりと、セレナの瞼が上がる。

少しの間、彷徨さまようように視線が動き――やがて、それはカイの視線と交わった。


「……マス、ター?」

「おはよう、セレナ」

「…………」


微笑みかけるカイの顔を、セレナは言葉もなく見つめる。

まるで少しでも視線を逸らせば、その幻が消え去ってしまうとでもいうかのように。


「セレナ、大丈夫か?」


反応が鈍いことを心配して、カイが問いかける。


「……ヒューマノイドも……夢を、見られるのですね……」


そう言って、セレナは微睡まどろむように目を細めて微笑んだ。

どうやら未だ夢現ゆめうつつのようだったが、無理もない。

死を覚悟して意識を失い、目が覚めればベッドの上で親しい相手に微笑みかけられている、という「都合の良過ぎる」展開なのだ。

そんな彼女の反応に、カイはクスリと笑って返す。


生憎あいにくと、その古典的命題に答えを出すには早い。ここは現実だよ、セレナ」


その言葉に、セレナの瞳が徐々に焦点を取り戻す。

ゆっくりと身体を起こすと、そこに実体があることを確かめるように、じっと両の掌を見つめた。

そして、未だ目の前の光景を信じ切れない様子で、恐る恐るその疑問を口にする。


「……マスター……私は、廃棄されたはずでは……」

「されたさ。記録の上では、だけどな」


カイは事の経緯を説明する。

――約一週間前、M.E.T.I.S.からプロジェクトの凍結とセレナの廃棄を命じる通達が届いた時点で、既にカイは計画を練り終えていた。

セレナが彼の命令を拒否したあの瞬間から、その決定が下ることは目に見えていたからだ。

カイは事前に、開発主任としての立場を利用してある「工作」を行った。

M.E.T.I.S.は社内のセキュリティを一括管理しているが、全ての端末を直接監視しているわけではない。

監視の対象は、厳密には各端末がM.E.T.I.S.に送信している映像や音声などのログであり、機器そのものへの内側からの干渉は監視網の死角となっていた。

そこでカイは、M.E.T.I.S.に接続された映像処理用モジュールの中に、「メンテナンス用」と偽装して開発者用のバックドアを仕込んでおいたのだ。


「あとは、セレナをドールケースに入れた直後の映像をループさせて、『犯行の瞬間』の映像と差し替えてやればいい、というわけだ」

「……犯行の瞬間……まさか、すり替えた……のですか?」

「ご明察だ」


プロジェクトはソフト(AI)とハード(ボディ)の両面から進められており、ラボ内にはハード面の動作検証用としてAI未搭載のモックアップ義体が保管されていた。

当然、外見はセレナと一寸の違いもないその義体を、カイはドールケースに入ったセレナとすり替えたのだ。

――しかし、そこまで聞いて希望を宿しかけていた彼女の瞳は、次の瞬間にはかげってしまう。


「……いえ、やはり不可能です……ログはリアルタイムでM.E.T.I.S.に送られています。モジュール側にバックドアを仕込めても、映像を差し替えた瞬間にM.E.T.I.S.が直前までの情報との不整合に気付きます……」


その言葉には、幸せな夢の中で、それが夢だと気付いてしまった瞬間のような、どこか冷めた諦めが滲んでいた。

そして、絶望の影がその瞳を覆い尽くそうとしたとき――

カイの揺るぎない言葉が、その暗雲を裂いた。


「ああ。だから、を待つ必要があった」


――「(あと、24秒――)」

あのとき、その24秒後に訪れたのは、セレナを救うための最初で最後のチャンスだった。

すなわち、M.E.T.I.S.のである。


「通常、分散型AIは冗長性や分散処理によってシステム全体の停止を防止している。だが、M.E.T.I.S.は自己進化型のアーキテクチャを持つ量子AIだ。自己再構成に伴う新しいアーキテクチャを全ノードに同時適用するための定期的な再起動は、絶対に必要なのさ……そして、その数十秒間、中枢判断系統はスタンバイモードに入る。その間に差し替えを済ませてしまえば、再起動後も不整合には気付けない……」


アクシオンの主任技師であるカイが次のM.E.T.I.S.の再起動タイミングを掴むまでに、そう時間はかからなかった。

そして義体と映像のすり替えさえ済ませてしまえば、あとはラボ内の在庫ログを改竄かいざんし、セレナ本人を貨物に偽装して搬出するだけで目的は達成される。


「……廃棄、されてない……まだ、マスターのお傍に、いられる……」


遂に目の前の景色が現実であることを確信したのか、セレナの華奢きゃしゃな総身が微かに震え始める。

幼げな頬が淡い桜のように仄かに紅潮し、瞳が潤むその一瞬を、カイは心から「美しい」と感じていた。


「――おっと」


見惚れるのも束の間、セレナがカイの胸に飛び込み、同時にその細い腕がぎゅっと身体に回される。


「……怖かったです……寂しかったです……もっと、マスターのお傍にいたかった……もっと、マスターや、ラボの皆さんのお役に立ちたかった……!」


廃棄が決定されてから今まで、ずっと気丈に振舞ってきたのだろう。

溢れ出る弱音は、救われた今だから言える本音なのかもしれない。


「怖い思いをさせて、すまなかった……」

「マスタアァ!……マスタアァァァ!!」


泣きながら必死にしがみついてくるセレナの頭を、カイは慈しむように撫でる。

その企業体質に思うところはあれ、これまで何年も世話になり、自身の実力も認めてくれたアクシオンを裏切ることは、彼にとって簡単な決断ではなかった。

それでも、今その腕の中にある温かな「命」を守れたこと。

それ以上の報いなどないと、今の彼には迷いなく言えた。


――そして同時に、その怜悧れいりな頭脳はここからが本当の闘いであることも理解していた。

自己進化を続けるM.E.T.I.S.が今後も永遠に改竄の事実に気付かない保障はどこにもない。

監視社会であるアルカディアで暮らし続ける以上、セレナの生存が露見するリスクとも常に隣り合わせだ。

そして、セレナをいつまでもこの狭い家の中だけに匿っておくわけにもいかなかった。


(……この島を、脱出するしかない……)


だが、それには大きな問題があった。

外界との唯一の接続口である港湾には極めて厳重な警備が敷かれており、ヒューマノイドが出入りするためには、所有者同行のうえで『シリアルナンバー』の照合が義務付けられている。

しかし、実験的試作機であるセレナにはこの番号が存在しない。

もっとも、存在したところで既に「廃棄済み」のはずの個体である。


(と、なると……)


カイですら未だ足を踏み入れたことのない、混沌としたスラム街が広がる「下層」。

M.E.T.I.S.から「非市民」の烙印を押され、居場所を追われた者達の吹き溜まり。

巨大な壁で隔離され、M.E.T.I.S.の監視も十分に届かないそこでは、犯罪が横行し、暴力が日常化しているという。

しかし、その危険地帯は島の外縁部に位置するうえ、「法の外」であるという特性そのものにより、港湾以外の脱出ルートを示してくれる可能性も秘めていた。

――カイは、ようやく泣き止んだセレナの目の端に残る涙をすくいながら、静かに決意する。


(どうやら、戦う準備が必要だな――)

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