Episode.3 「5」
06
今まで見た夢とは異なっていたから、四月十四日が訪れたのではないかと、起床した瞬間は期待してしまった。でも、デジタル時計に表示されていたのは「4 13 月」という無慈悲な文字の羅列だった。
私は電車の端の席に座りながら、ぼんやりと流れていく車窓の向こうの景色を眺めていた。腕時計を確認すると、時刻は午前九時過ぎを示している。今頃私のクラスでは、一限目の数学の授業が行われている頃だろう。
普段であれば制服を身に纏って高校にいるはずの時間に、私服姿でどんどん高校から遠ざかっていく電車に乗っているというのは、何となく非日常的な感覚を私にもたらした。ただやはり、「悪いことをしてしまっているのではないだろうか」という不安も付き纏う。よく学校をさぼっている人間はすごいなと、尊敬にも嘲りにも似た感情が胸中を満たした。
気を紛らすように、羽織っているパーカーのポケットに突っ込んでいたスマホを手に取って、画面の明かりを点ける。メッセージアプリの通知が来ていたので開くと、成花からだった。ホームルームと一限目の間の時間にメッセージをくれたようだ。
〈弥歌、今日休みー?〉
〈弥歌がいないとつまんねー(唇を尖らせている絵文字)〉
私は少しだけ、口角を上げる。
〈ごめん、風邪ひいた〉
〈そう言ってくれて嬉しいよ、ありがとう〉
〈正常な、正常な、正常な明日で会おうね〉
成花へのメッセージを打ち終えると、車内にアナウンスが鳴り響く。
『次は
……音矢海。
音矢海という駅名は知っているけれど、降りたことはなかった。駅名に海という漢字が入っているから、恐らく海の側なのだろう。車窓から見えるのは建物ばかりで綺麗な青色は見えなかったが、下車して地図アプリを使えば簡単に辿り着けるに違いない。
瑞陽先輩の瞳を、ふと思い出した。
まるで海のような、澄み切った青色――
(…………海を、見たい)
私はすっと席を立ち、乗降ドアの側に立つ。やがて乗降ドアの車窓が、音矢海駅のホームを映し出す。電車の速度が少しずつ落ちていき、きいいいいというブレーキ音を出しながら停車する。駅のホームに降り立つと、微かにしょっぱい潮の香りがしたような気がした。
*
(次の角を左に行けば、海が見えてくるはず……)
スマホに表示されている地図アプリの指示に従いながら、私は音矢海の町を歩いていた。割と長い時間電車に乗ったものの、私の住んでいる町とそこまで雰囲気は変わらない。強いて言えばにおいが違う。駅のホームで感じた潮の香りは、海に近付くにつれてどんどん濃くなっている。
(いい香りだ……)
(人間のぐちゃぐちゃの死体は、どういう香りがするんだろう)
(……そんなことを考えてはいけない。そんなことを考えてはいけない。そんなことを考えてはいけない……)
私はぶちぶちと、自分の髪の毛を数本抜いた。こうすれば、最近時折訪れる変な思考が少なくなるかもしれない。黒くて長い数本の髪が、潮の香りを運ぶ風に揺られてうねうねと動いている。虫のようで気持ち悪かったからすぐに地面へと捨てて、右足で踏んだ。我に返って、いけないことをしてしまった気がして、罰を与えるように右足を左足で何度も踏んだ。痛かった。
私は変な思考が溶けている髪から離れるように、歩調を早めた。「次の角」が段々と近付いてくる。足早に左に曲がる。
――海が見えた。
真っ直ぐな道の向こうに、陽光を反射して麗しく煌めく青い海がある。私はまるで宝物を発見したかのような気持ちになって、だっと駆け出した。潮の香りが一段と濃くなる。道の先にあった横断歩道を渡って、石づくりの階段を駆け降りた。砂浜は人間のお腹のように柔らかかった。私は波打ち際で、ようやく立ち止まった。
春らしいうっすらとした雲の広がる青空の下に、果てなどないような青色の――
「…………あれ」
――違和感を覚えて、私は声を漏らす。
先程見たときはわからなかったけれど、遠くの方の海が、……赤色に見える。夕暮れどきに夕陽に染まっているというなら原理はわかるけれど、今はまだ午前中だ。空高く昇る太陽は真っ白の輝きを放っている。
「……ああ、よくないな、目まで、おかしくなっちゃったかな、」
私はひとりごちながら、両手で自分の閉じられた目を擦った。ゴシゴシゴシゴシゴシゴシと擦った。手を退けて、ゆっくりと目を開いて、……やっぱり遠くの方の海は赤かった。
(なんで)
(なんで、人間の血が溶けたみたいな、海なの)
(……人間の血とか考えちゃいけない)
(あれは、トマトだ)
(トマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマトトマト)
私は大量のトマトが積まれている飛行機を想像する。あらゆる空間に隈なくトマトが敷き詰められており、飛行の衝撃でたまにぷちぷちと潰れてぐしゃりと中身を露出させる。その飛行機の不手際で大量のトマトを海に落下させてしまったのだ。だからあの海は、赤いのだ……
(人間を敷き詰めた飛行機が不手際で大量の人間を海に落下させてしまったという、)
(可能性は?)
(そんな可能性は、ない)
(……血の海だとしたら、真っ赤っ赤で、綺麗)
(綺麗じゃ、ない!)
私は小さな悲鳴を上げて、頭を掻き毟った。自分の思考が気持ち悪い、脳に蠅でも湧いてしまったのだろうか? 自分の脳のしわをゆっくりと這う白色の蛆虫を想像して、脳を頭から取り出して洗浄したい衝動に駆られた。
砂浜の上でうずくまって、呼吸することだけに意識を集中させる。そうしていると、少しずつではあるが段々と気持ちが落ち着いていった。
ふと、赤潮という現象を思い出す。確か、海中に何らかの事情でプランクトンが大量に発生した影響で、海の色が赤く濁って見えるというものだ。そうだった。赤色だからって、変に怯えすぎる必要はないのかもしれない。
「……そもそも、目の錯覚かもしれないし」
そう呟きながら、私はゆっくりと立ち上がる。誰かに尋ねてみればいいかもしれない、と思う。赤い海が幻なのか現実なのかをはっきりさせるだけで、不安感の半分を削ぎ落とせるような気がした。
「――綺麗すぎ、やばいー!」
「写真撮ろ、写真ー!」
そのとき、後ろから女二人と思われる声が聞こえてきて、はっと目を見張る。私と同じくサボりの中学生や高校生だろうか、それとも全休の大学生や有休を取っている社会人……?
いずれにせよ、女であることは好都合だ。
男は怖くて、苦手だから。
彼女たちに海について質問しようと心に決めて、私は振り向いた。
目を、見開いた。
――一人の女は頭部からだらだらと血を流しており、
もう一人の女には左腕の肘から先がなく、ぼたぼたと血が溢れている――
私は呆然と、二人の女を見つめていた。女たちは楽しそうにはしゃいで、笑顔を振り撒いている。その煌めきは晴れの日の海辺にふさわしいはずなのに、鮮血が全てを不自然にしていた。薄茶色の砂浜に血が落ちてゆく。狂気的な赤色に染まってゆく。それを気にした様子もなく、頭を怪我している女がスマホを取り出して、海を背景にインカメでツーショットを撮り始める。私も、映っている。
「やば、めっちゃかわいーじゃん!」
「映えー!」
「もっと撮ろー!」
自分の呼吸が少しずつ荒くなっていく。この場所から逃げ出してしまいたいという衝動に駆られたが、私はふっと「昨日」の瑞陽先輩の言葉を思い出した。
『そういう違和感は、大事にした方がいいと思う。「ループ」という明らかな歪みの真相に迫るには、小さな歪みを集めていくことが重要だろうから』
……そうだった。
きっと、あの真っ赤な海も、この二人のおかしな女も。
集めていくべき「歪み」の、一端なのではないだろうか――
パシャパシャパシャパシャ、とツーショットの音が今も響いている。私は十秒ほど逡巡してから、ようやく歩き出した。女のスマホの画面に映り込む自分の姿が、段々と大きさを増していく。
覚悟を決めて、口を開いた。
「…………あの」
二人の女が、振り向いた。
二人とも私を見ているはずなのに、どこか目の焦点が定まっていないような感じがして、不気味さに拍車をかけている。血の、においがする。
「……怪我、大丈夫ですか」
私の言葉に、二人の女は顔を見合わせた。
「わたしどっか怪我してる……?」
「いや……どこも。そしたらカエじゃなくて私?」
「ミヤビはいつも通りだけど……」
二人はどちらも戸惑っているようだった。私はぎゅっと唇を噛んでから、叫ぶように言った。
「怪我、しているじゃんっ……! あんたは頭! あんたは手、ない! それが怪我じゃなかったら、何なんですか!?」
言い終えて、はあはあと息をする。
苛立った。異常に気が付かない二人に。ループという異常に気が付かない、世界に。
二人の女はまた顔を見合わせてから、にゅっと口角をつり上げて、私の方を見た。
「「いつものことですよ」」
私は呆然と、目を見開いた。そんな私の反応がおかしかったのか、二人の女は口角をつり上げたまま、けたけたと笑い出す。
「「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」」
私は悲鳴を上げて、駆け出した。人間のお腹のように柔らかい砂浜で足がもつれて、転んでしまう。私は泣き出しそうになりながら後ろを見る。二人の女はさっきの場所から動かずに、焦点の定まらない目で私を見つめながら、ずっと笑っている。
「「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」」
どうにかして体勢を整えて、もう一度走り出した。石づくりの階段を駆け上がり、足を動かしながら振り返る。二人の女の姿はもう随分と遠くにあった。
海の赤さも、段々と薄れていった。
海面に、歯車の少女の虚ろな顔が見えたような、気がした。
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