第三話:木島先生

 木島先生は壊れている。

 それは私がこの学校に来てからずっと感じていることだった。彼の何がどういう風に壊れているのか、正確な言葉で説明することは難しい。ただ、彼の存在そのものが、まるでひびの入った古い硝子細工のように危うく、脆く、そしてひどく歪んでいるのだ。


 先生は数年前に都会からこの影ヶ淵集落に赴任してきたと聞いている。その頃の彼を知る集落の大人たちは、口を揃えて「昔はもっと情熱的な人だった」と語った。子供たちの未来を心から信じ、この閉鎖的な谷に新しい風を吹き込もうと息巻いていたのだ、と。しかし今の先生にその面影はひとかけらも残っていない。彼の情熱は、この土地の濃霧に、湿った土に、そして校舎に巣食う何かに完全に吸い尽くされてしまったようだった。


 彼の授業は正確で無駄がない。教科書の内容を淡々と抑揚のない声で読み上げ、黒板に几帳面な文字を書き連ねていくだけ。そこには生徒の知的好奇心を刺激しようという意図も、共に学ぶ喜びを分かち合おうという意志も一切感じられなかった。それは授業というよりは、むしろ決められた手順をただひたすらにこなすだけの、一種の「作業」に近かった。私たちはその作業を静かに滞りなく受け入れることを義務付けられている。


 先生の目はいつも底なしの沼のように昏く濁っていた。その瞳は私たち生徒を見ているようで、その実私たちの背後にあるもっと別の何かを見ているかのようだった。時折、授業の最中にふと彼の言葉が途切れることがある。そしてガラス玉のようなその目が、教室の隅や天井の染み、あるいは何もない空間をじっと見つめて微動だにしなくなる。その瞬間、先生の口元がかすかにわななくように震えるのを、私は何度も目撃していた。彼は私たちには見えない何かを確かに見ているのだ。この教室の中に、この校舎の中に蠢いている「気配」を。


 そして彼の存在を何よりも不気味に際立たせているのが、その首から常にぶら下がっている一本の鍵だった。黒ずんだ革紐に通された古めかしい真鍮の鍵。それは汗ばむ夏の日も凍える冬の日も、まるで彼の身体の一部であるかのようにその首から外されることはない。

 その鍵がおそらくは「開かずの音楽室」の扉を開けるためのものであることを、私はなんとなく気づいていた。しかし先生にとってあの鍵は単なる道具ではない。彼は時々、無意識のうちにその鍵をぎゅっと、指先が白くなるほど強く握りしめることがあった。それは祈るようでもあり、何かを必死で抑え込もうとしているようでもあった。


 その日、私は先生のその「壊れ方」の核心に触れることになる。


 放課後、私は日誌を提出するために職員室を兼ねた先生の部屋を訪れた。雨は相変わらず降り続き、窓の外はすでに夕暮れのように薄暗かった。

 先生は机に向かい、背中を丸めて何かを熱心に書きつけていた。その背中はひどく小さく頼りなく見えた。


「先生、日誌です」


 私が声をかけると、先生の肩がびくりと大げさなほどに跳ね上がった。彼はまるで重大な秘密の作業を見られたかのように、慌てて手元にあった書類をばさりと裏返した。

 その一瞬、私の目は確かに見てしまった。それは生徒たちの名前が並んだ名簿だった。そして、その中の一つの名前にだけ、まるで血で描いたかのようにどす黒い赤い丸が付けられていたのを。それが誰の名前だったのかまでは、確認することができなかった。


「ああ、水上か。ご苦労だったな」


 先生はゆっくりと振り返り、いつもの貼り付けたような笑顔を私に向けた。しかしその額には脂汗がびっしりと滲んでいた。その動揺ぶりは明らかに異常だった。

 私は日誌を机の上に置いた。その時、私の胸の中でずっと燻っていた恐怖と好奇心が、抑えがたい力となって喉元までせり上がってくるのを感じた。桐谷先輩の「詮索するな」という言葉が頭の中で警鐘のように鳴り響く。しかしもう後戻りはできなかった。私は知らなければならなかった。この狂気の中心にいるこの男から。


「先生……」


 私の声は自分でも驚くほどかすかに震えていた。


「なんだ」

「あの……ずっとお聞きしたかったことがあります」


 先生の目がすっと細められた。その瞳の奥に警戒の色が浮かぶ。


「開かずの音楽室のことなんですけど……あそこには一体何があるんですか?」


 沈黙が落ちた。それはただの静寂ではなかった。重く粘り気のある悪意に満ちた沈黙だった。雨音さえもが遠のいていく。先生は何も答えなかった。ただ、その顔がゆっくりと青ざめていく。唇がわなわなと震え、呼吸が荒くなっていくのが私にも分かった。

 彼はまるで恐ろしい亡霊でも見るかのように、私の背後、何もない空間を見開かれた目で見つめている。


「……何を馬鹿げたことを」


 長い長い沈黙の末、先生はやっとのことでそう声を絞り出した。それはいつものように私たちを諭すための冷たい響きではなかった。自分自身に必死で言い聞かせているような、悲痛な響きだった。


「あそこには何もない。古いガラクタが置いてあるだけだ」

「では、どうして鍵をかけているんですか。どうしてあんなに厳重に……」


 私の追及に、先生はぐっと喉を詰まらせた。彼の視線が泳ぎ始める。そして彼はゆっくりと、首に下げた鍵を両手で、まるで大切な何かを守るかのように握りしめた。


「卒業するまでだ」

「え?」

「あの教室には、卒業するまで近づいてはならない。それはこの学校の昔からの決まり事なんだ」

「『卒業』ってどういう意味ですか。桐谷先輩もそう言っていました。『卒業生』を待つ部屋だって……。この学校の『卒業』って、一体何なんですか!」


 私は半ば叫ぶようにそう問い詰めていた。


 その言葉が最後の引き金になった。

 先生の顔がぐにゃりと歪んだ。これまでかろうじて保たれていた理性の仮面が、音を立てて砕け散る。その下に現れたのは、純粋な剥き出しの狂気と恐怖だった。


「うるさいっ!」


 先生は獣のような叫び声を上げると、椅子を蹴立てて立ち上がった。その勢いで机の上のインク瓶が床に落ち、どす黒い染みを広げた。


「お前に、お前なんかに何が分かる!何も知らないくせにかき回すな!」


 彼はぜえぜえと苦しげに肩で息をしながら私を睨みつけた。その目は憎悪と、そして深い深い絶望の色に染まっていた。


「決まりは決まりなんだ!それを破ればどうなるか……。この村が、この学校が、どうなるか分かっているのか!」

「先生……」

「俺は守らなければならないんだ!あの方を……あの方を鎮めておかなければ、またあんなことに……!」


 先生はそこではっと我に返ったように口をつぐんだ。彼の口走った「あの方」という言葉と「あんなこと」という言葉が、重い意味を持って部屋の中に響き渡る。


 彼は数秒間、壊れた人形のようにその場で固まっていたが、やがてゆっくりと私の方へと一歩足を踏み出した。

 その瞬間、私は本能的な恐怖に身が竦んだ。目の前にいるのはもう私の知っている木島先生ではなかった。それは人のかたちをした別の何かだった。


「水上」


 彼の声は先程までの激情が嘘のように、ひどく冷たく静かになっていた。


「お前は、知りすぎた」


 彼は私の目の前まで来ると、その氷のように冷たい指先で私の頬にそっと触れた。その感触に私の全身の産毛が逆立った。


「好奇心は身を滅ぼす。特にこの場所ではな」


 先生はそう言うと、私の耳元にその顔を近づけた。カビと汗と、そして甘い腐臭が混じり合った吐き気を催すような匂いがした。


「いいか、よく聞け。あの扉は開けてはならない。あの鍵は俺がこの命に代えても守らなければならないものだ。お前がもしこれ以上何かを嗅ぎ回るようなら……」


 先生はそこで言葉を切った。そしてその昏い瞳で私をじっと見つめた。


「次の『卒業生』は、お前になる」


 それは脅しではなかった。それは変えることのできない決定事項の宣告だった。

 私の心臓が氷の塊になったかのように冷たく固まった。

 先生はゆっくりと私から身を離すと、何事もなかったかのように自分の机に戻り、床に落ちたインク瓶を拾い上げた。


「……もう帰りなさい。雨が強くなる」


 その声にはもう何の感情もこもっていなかった。

 私は返事もできず後ずさるようにしてその部屋から逃げ出した。廊下に飛び出した瞬間、背後で「かちり」と内側から鍵をかける音がやけに大きく響いた。

 私はただひたすらに走った。軋む廊下も天井の染みも、もう目に入らなかった。

 ただ耳の奥で、先生の最後の言葉が何度も何度も繰り返されていた。


『次の卒業生は、お前になる』


 その言葉は、この校舎そのものの意思表示のように私には聞こえた。

 雨はますますその勢いを増していた。それはまるで、卒業生を祝う狂乱の拍手喝采のようだった。



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