第二話:軋む校舎

 影ヶ淵分校は生きている。

 それは比喩でも私の感傷でもない。事実として、この校舎は呼吸をし、呻き、そしてじっと私たちを観察している。赴任したての木島先生がかつて「歴史の重みですね」と詩的な表現で語ったその音は、この土地の人間にとってはもっと切実で冒涜的な響きを帯びていた。


 床板は一歩踏み出すごとに「みしり」と悲鳴を上げる。それはただ古い木材が軋む音ではない。乾いた骨が砕けるような、あるいは固く乾いた皮膚が引き裂かれるような不快な音だ。誰もいないはずの二階の廊下から、規則正しいリズムで床が鳴ることもある。それはまるで目に見えない誰かが、ゆっくりと何かを探すように、あるいは獲物の気配を窺うように歩き回っているかのようだった。

 私たちはその音に慣れることを強いられている。授業中、先生の話の合間に背後の廊下から「とん、とん、とん」と子供が鞠をつくような音が聞こえてきても、誰も振り返らない。それがこの学び舎で生き延びるための暗黙のルールだった。音の正体を確かめようとすることは、すなわちこの校舎の静かな怒りを買うことに他ならないのだから。


 壁や天井もまた沈黙の語り部だった。至る所に浮かぶ雨漏りの染みは、日々その形を微かに変える。それはさながらゆっくりと進行する病巣のようだった。教室の天井、ちょうど私の席の真上あたりにある一番大きな染みは、最初はただのぼんやりとした円だった。しかし梅雨が深まるにつれてその輪郭は滲み広がり、今では苦悶に口を開けた人間の横顔のように見えた。ぽっかりと開いた口、虚ろな目。そこからぽつりぽつりと黒く濁った水滴が、授業中にもかかわらず私の机の上に落ちてくることがあった。それはまるで、天井の向こうで泣いている誰かの血の混じった涙のようだった。

 私はその水滴を指でそっと拭う。ひやりとしたその感触は、この校舎の冷たい体温そのものだった。他の生徒たちはその染みにも水滴にも、まるで気づいていないかのような素振りを見せる。あるいは気づいていても、それについて語ることを固く禁じられているのかもしれない。この集落では、見てはいけないものを見ないこと、聞いてはいけないことを聞かないことが、平穏に暮らすための何よりの処世術なのだ。


 この校舎の中で私が最も強い畏怖と抗いがたい好奇心を抱いている場所があった。北側の突き当り、西日のひとかけらさえ届かない一日中薄暗い廊下の先にある、「開かずの音楽室」だ。

 その一角だけは空気が違う。湿ったカビの匂いと古い木の匂いに混じって、何か甘く腐ったような匂いが常に澱んでいる。夏でもそこだけは肌寒く、まるで巨大な氷塊が壁の向こうに置かれているかのようだった。


 分厚い木の扉は黒光りしている。長年、数えきれないほどの生徒たちの手垢に磨かれた結果なのか、あるいは内側から滲み出す何かの脂によってなのか。扉には三日月を模したと思しき奇妙な透かし彫りが施されていたが、その形は歪み、今では嘲るように歪んだ口元にも見えた。

 そしてその扉を固く閉ざしているのが、錆び付いた巨大な南京錠だった。それはただの錠前ではなかった。およそ学校の備品とは思えないほどに物々しく、呪術的な雰囲気を放っている。表面には蔦のような模様がびっしりと刻まれ、鍵穴はまるで固く閉ざされた瞼のように、こちら側の世界を拒絶していた。この錠前は何かを閉じ込めるためというよりは、何かを封印するためにそこに存在しているのだと、私は直感的に感じていた。


 音楽の授業は私たちの教室で、木島先生が弾く古びた足踏みオルガンで行われる。ぎいぎいと空気が漏れるような音を立てるそのオルガンは、お世辞にも美しい音色とは言えない。


「どうして、あっちの音楽室、使わないの?」


 以前ケンタ君が子供らしい純粋な疑問を口にしたことがあった。その時、木島先生は一瞬だけひどく狼狽した顔をした。その目は何か恐ろしい過去の光景を幻視したかのように、一点を見つめて固まっていた。


「……あそこはもう何年も使われていないからな。楽器も、床も、もう駄目になっているんだ」


 先生は自分に言い聞かせるようにそう答えた。その声はかすかに震えていた。


 しかし私は知っている。あの音楽室はただの物置ではない。あの中には何かがいる。


 それは数日前の放課後、私が教室に忘れ物をしたことに気づき、一人で校舎に戻った時のことだ。夕暮れ時の校舎は不気味なほど静まり返っていた。自分の足音だけがやけに大きく薄暗い廊下に響き渡る。

 忘れ物を手にし昇降口へと向かう途中、私はなぜか北側の廊下へと引き寄せられるように足を向けていた。開かずの音楽室。その扉の前に立った時、私は息を呑んだ。

 扉の向こうから音がしたのだ。

「ぽうん」という、ひどく調律の狂った間の抜けたピアノの音。たった一音。それは誰かが演奏しているというよりは、何かが誤って鍵盤の上に落ちてきたかのような無機質な音だった。

 風のせいだろうか。いや、その日はぴたりと風の止んだ蒸し暑い日だった。では誰かが中にいるのか。しかしこの校舎にはもう私一人しかいないはずだ。

 私が恐怖に凍りつきその場に立ち尽くしていると、今度は「ぎ」と何かが軋む音がした。それは古い木の椅子をゆっくりと引く音によく似ていた。

 誰かが、ピアノの前に、座った。

 私は悲鳴を上げることもできず、その場から逃げ出した。背後で、あの三日月型の透かし彫りがにたりと笑ったような気がした。


 その日以来、私は開かずの音楽室のことが頭から離れなかった。あの中にいるのは誰なのか。一体何のために。


 昼休み、私はまるで夢遊病者のように再び北側の廊下に立っていた。扉は相変わらず固く閉ざされている。あの日の音はやはり私の幻聴だったのだろうか。そう思いかけた時、不意に背後から声をかけられた。


「そんなに、中が気になるのか」


 心臓が喉から飛び出しそうになった。振り返ると、いつの間にか桐谷先輩がそこに立っていた。彼は音もなく、まるで影の中から現れたかのようだった。


「……別に、そういうわけじゃ」


 私はしどろもどろに答えた。先輩の目は私の嘘を簡単に見抜いているようだった。彼は私の隣に並ぶと、私と同じように音楽室の扉を見つめた。


「やめておけ。ろくなことにはならない」


 その声はいつものように静かだったが、その奥に確かな警告の色が滲んでいた。


「ろくなことにならないって……あの中には、一体何がいるんですか。私、この前……」


 ピアノの音を聞いた、と言いかけて私は口をつぐんだ。そんなことを言っても信じてもらえるはずがない。

 しかし先輩は私の言葉の続きを分かっているかのように、静かに言った。


「ああ、聞こえることもあるらしいな。ピアノの音も、誰かの笑い声も。……あいつは、いつも待っているからな」

「あいつ?」

「さあな。俺も直接見たことはない。ただ……」


 先輩は一度言葉を切った。そして、まるでひどく口にしたくない言葉を無理やり吐き出すかのように続けた。


「あの部屋は、生徒のためのものじゃない。あれは、『卒業生』を待つための部屋なんだ」


 卒業生。

 その言葉を聞いた瞬間、私の全身の血が逆流するような感覚に陥った。桐谷先輩が口にした言葉。この学校における「卒業」という言葉は、明らかに私たちが知るそれとは違う、別の意味を持っているような気がした。


「卒業生って……どういう、意味ですか」


 震える声で尋ねる私に、先輩は答えなかった。ただ悲しげな、そしてどこか憐れむような目で私をじっと見つめ返した。その目はまるで、これから逃れられない運命に飲み込まれていく哀れな生き物を見るかのようだった。


「詮索するな、小春。お前のためだ。この学校では、知らない方が幸せなこともある」


 彼はそう言うと、私の肩をぽんと軽く叩いた。その手はひどく冷たかった。


「じゃあな」


 先輩はそれだけを言い残し、踵を返して廊下の向こうへと去っていった。


 一人残された廊下はしんと静まり返っていた。しかしその静寂の中で、私は確かに聞いていた。

 みしり。ぎい。

 校舎の壁が、床が、天井が、一斉に喜びの声を上げるように軋み始めたのを。

 まるで次の「卒業生」の候補を見つけたと、校舎そのものが歓喜しているかのようだった。

 私は目の前の固く閉ざされた扉を、見つめることしかできなかった。あの扉の向こう側で、椅子に座った「何か」が、私という新しい客人の到来を静かにじっと待ち構えている。そんな確信にも似た恐怖に、全身を支配されていた。



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