神様のゴハンは何の味?
シカトイ
序章:開かずの教室
第一話:影踏み遊び
私が目を覚ました時、部屋の中は水底のように静かで、白く満たされていた。障子一枚を隔てた向こうは、今年もまた深い深い霧の世界だ。私が住むこの影ヶ淵集落の梅雨はただ雨が降るだけではない。谷の底に溜まった淀みが湿った息を吐き出すようにして、濃密な霧を生み出すのだ。その霧は音を吸い込み、光をぼやかし、世界の輪郭を曖昧にして私たちを外界から完全に孤立させる。
ちゃぶ台の上にはすでに朝食が用意されていた。湯気の立つ味噌汁と白いご飯、それにきゅうりの糠漬け。母が私の気配に気づいて台所から顔を出す。
「小春、おはよう。今朝は冷えるわね」
無理やり貼り付けたような笑みを浮かべて母は言ったが、その目の奥は笑っていない。この集落の大人たちは皆そうだ。彼らは霧の深い朝を何かを悼むように、あるいは何かを恐れるようにして迎える。
「おはよう、お母さん」
「今日は一段と霧が深いわ。そんな日はね、自分の影から目を離さないようにしなさいね」
昔から何度も聞かされてきたその言葉を、今日もまた呪文のように繰り返し聞かされた。
「影はもう一人の自分だからね。霧に紛れて悪いものに連れていかれないように、しっかりと自分に繋ぎとめておくのよ」
「……うん」
私は曖昧に頷きながら味噌汁を啜った。母も祖母から常々この呪文を聞かされたという。悪いもの。母や祖母が言う『悪いもの』が、この土地に古くから伝わる『影ワラジ様』のことを指していることを、私はまだ幼い頃に祖母から教わった。子供だましの古い迷信。けれど、ひどく真剣な顔をして話す祖母の口から語られたそれは、ひどく生々しい現実味を帯びて私の心にじっとりとした染みを作ったのだった。
家を出て学校へと向かう。アスファルトで舗装されているはずの道は濡れた落ち葉に覆われ、まるで森の中の獣道のようだ。一歩足を踏み出すごとに「じゅっ」と湿った音がして、靴の周りに黒い水が滲む。空気は土の匂いと腐葉土の匂い、そしてどこか鉄錆びたような血の匂いが混じり合って重く肺にのしかかってくる。
私の通学路の脇には、お地蔵様が道案内をするかのように点々と並んでいる。誰が世話をしているのか、その一体一体に真新しい赤い前掛けが結ばれていた。しかし、その鮮やかな赤色すらこの灰色の世界の中では、まるで古い傷口のように痛々しくくすんで見えた。
私はお地蔵様の前を通り過ぎるたび、その数を心の中で数える。一つ、二つ、三つ……今日も二十七体。この集落にいる子供の数は、小中学生を合わせてもたったの五人だ。このあまりにも不釣り合いな数の石像は、一体誰のために建てられたのだろう。
ふと、私は一体のお地蔵様の前で足を止めた。それは他のお地蔵様よりも少しだけ新しく見え、顔立ちもはっきりしていた。しかしその目元は、何か悲しいものを見るかのように深く抉るように彫られている。苔の合間から覗くその石の目は私をじっと見つめ、何かを訴えかけているかのようだった。お前は気づいているのか、と。この場所に満ちる静かな狂気に。
私は逃げるようにその場を離れた。背中に石の冷たい視線が突き刺さっているような気がして、何度も振り返りそうになるのを必死でこらえた。
霧の向こうにぼんやりと巨大な影が見えてくる。影ヶ淵分校の木造校舎だ。明治時代に建てられたというその建物は長年の雨と霧を吸い込み続け、全体が黒くぬめりを帯びている。それは学び舎というよりは、深い水底に沈んだ巨大な難破船のようだった。あるいはこの谷に打ち捨てられた巨大な生物の骸。今にもその黒い壁がみしみしと音を立てて崩れ落ちてしまいそうだった。
昇降口の引き戸を開けると、かび臭く湿った木の匂いがむわりと鼻をついた。下駄箱で上履きに履き替えていると、背後から静かな声がした。
「今日も、いい霧だな」
振り返ると、桐谷先輩が壁に寄りかかるようにして立っていた。桐谷武先輩。この学校で唯一の中学三年生。私の一つ上の彼は集落の長の孫でありながらそのことを鼻にかけるでもなく、いつもひどく醒めた目をしている。その目は、この集落のすべてを理解し、諦め、受け入れている者の目だった。
「おはようございます、桐谷先輩」
「ああ。……小春、お前の影、ずいぶん薄いんじゃないか」
先輩は私の足元に視線を落としてそう言った。彼の言葉に私はどきりとして自分の足元を見た。蛍光灯の頼りない光に照らされて、床には私の影がぼんやりと伸びている。言われてみればその輪郭はいつもより曖昧で、まるで水に滲んだ墨汁のようだった。
「霧が深い日は、こうなるんですよ」
私がそう答えると、先輩はふっと自嘲するように笑った。
「そうだな。霧のせいだ。……全部、霧のせいにしておけばいい」
彼はそれ以上何も言わず、軋む廊下の向こうへと歩いて行ってしまった。その後ろ姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように、すぐに薄暗い廊下の闇に溶けていった。
教室に入ると、すでに小学生たちが集まっていた。彼らは五人という全校生徒の大半を占めているが、教室はがらんとして不自然なほど静かだった。二人の女子生徒、カナとマキは窓際の席で雛鳥のように身を寄せ合い、小さな声で何かを話している。彼女たちの目は怯えた小動物のように絶えず周囲を窺っていた。
その中で一人だけ、異質な光を放っている少年がいた。佐竹ケンタ君だ。彼は自分の席で画用紙いっぱいに巨大なカブトムシの絵を描いていた。クレヨンを握りしめ、一心不乱に紙に色を塗りつける彼の姿は、この淀んだ空気の中で唯一、生命力に満ち溢れているように見えた。
やがて始業のチャイムが鳴り、木島先生が教室に入ってきた。先生は私たちを一瞥すると、いつものように何の感情も浮かばない声で言った。
「席に着け。授業を始める」
先生の顔はいつも通り疲れていた。その目の下の隈は日に日に濃くなっているように思う。彼はこの学校で一体何を教えているのだろう。何を、守っているのだろう。あるいは、何を、見張り続けているのだろうか。
授業が始まっても、私の頭は霧の中にいるかのように、はっきりとしなかった。先生の声も教科書の文字も、すべてが分厚い膜を隔てた向こう側にあるように感じられる。時折、窓の外で風もないのに木の枝が「ざわっ」と大きく揺れた。まるで目に見えない巨大な何かが、校舎の周りをうろつき中を覗き込んでいるかのようだった。
二時間目が終わった後の休み時間だった。あれほど執拗に降り続いていた雨が嘘のようにぴたりと止んだ。雲の切れ間から束の間の弱々しい太陽の光が差し込み、校庭の濡れた地面を白く照らし出した。
その光を見た瞬間、それまで縮こまっていたケンタ君が叫んだ。
「外で遊ぼうぜ!影踏みしよう!」
その声にカナとマキも待ってましたとばかりに、わっと歓声を上げて教室を飛び出していった。
「おい、お前たち、校庭は滑るから気をつけろよ!」
木島先生が注意したが、子供たちの耳には届いていないようだった。
私は窓から校庭の様子を眺めていた。濡れた土の地面に、子供たちの長く歪んだ影が黒々と伸びている。
「鬼は俺な!いくぞー!」
ケンタ君が元気よく叫ぶ。影踏み。自分の影を踏まれたら鬼を交代する。どこにでもある他愛もない遊びだ。しかし、この影ヶ淵の子供たちにとって、それはどこか切実な儀式めいた響きを帯びていた。
「わっ!踏まれた!」「逃げろー!」
子供たちはきゃっきゃと笑い声を上げながら、必死に自分の影を守ろうと逃げ回っている。その動きは遊びというにはあまりにも必死だった。まるで本当に魂を奪われまいともがいているかのようだ。影を踏まれた子は一瞬、本気で悔しそうな、悲しそうな顔をする。そして次の瞬間には、今度は自分が鬼となって他の子の影を飢えた獣のように追いかけ始める。
その光景を私はぼんやりと見ていた。祖母から聞いた話が頭の中で反響する。影を踏まれて魂を抜かれた者はどうなるのか
『魂を抜かれた者はね、だんだんと自分の色が薄くなっていくんじゃよ。影が薄くなるだけじゃない。声も、匂いも、存在そのものが、少しずつこの世から消えていく。そして完全に色がなくなった時……影ワラジ様が、迎えに来るんじゃ』
ふと視線を感じて、私は教室の入り口に目をやった。木島先生がそこに立って腕を組みながら、校庭の子供たちをじっと見ていた。その顔には何の表情も浮かんでいない。彼はあの必死の形相で逃げ回る子供たちの遊びを、止めるでもなくただ無感情に観察していた。その目はまるで、これから屠殺場に送られる家畜の数を確かめているかのようだった。
先生のその目に気づいた瞬間、私の背筋にぞくりと悪寒が走った。
やがて再び空が陰り、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。影踏み遊びは終わりを告げ、子供たちは名残惜しそうに教室へと戻ってくる。
「ちぇー、もっと遊びたかったな」
頬を泥で汚したケンタ君が唇を尖らせて言った。私は彼の足元に目をやった。雨に濡れたコンクリートの上に、彼の影が再び弱々しく頼りなく横たわっていた。
授業が再開されても私の心は少しも落ち着かなかった。
私は自分の手のひらをじっと見つめた。蛍光灯の光に照らされた指の影。その輪郭が心なしか朝よりもさらにぼやけて薄くなっているような気がした。気のせいだと思おうとしても、一度抱いた疑念は霧のようにじわじわと心を侵食してくる。
私はこの学び舎で、この集落で、何か決定的に取り返しのつかないことがすぐそこまで近づいていることを確信していた。
窓の外では再び雨脚が強まっていた。校舎の周りをざあざあと、何かが這いずり回るような音が鳴り響いていた。
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