雫7粒 家族を乞う声

 僕は月島と並んで帰った。

 

 もう辺りは暗くなっていた。

 

 帰り道、月島はしきりに臭くなかったかを聞いてきた。どうやら昨日からあのビルにいたせいで、お風呂に入ってなかったらしい。

 その事で抱き抱えられた時に臭くなかったのかを聞いてきたようだ。

 

「必死すぎて、わからなかったよ。」

 

 そう答えると、彼女は眉を吊り上げた。

 

「そこは“臭くなかった”って言うべきでしょ!」


 ……正直に言ったのに。これが女心ってやつだろうか。

 さらに僕は、つい口を滑らせた。

 

「じゃあ……トイレはどうしてたの?」

 

「デリカシーないね。」

 

 吐き捨てるように言われたけれど、正直、気にはなるじゃないか。

  

 そんな他愛のない会話をしているとあの赤い屋根の家が見えてきた。

 

 月島は足を止め、深く息を吸い込む。呼吸を整え、覚悟を決めるように。

 

「僕がいるよ。」

 

「ん。ありがと。」

 

 そう言うと、月島はインターホンを鳴らした。

 “今までと同じ気持ちでは入りたくない。次に帰る時は、新しい気持ちで帰りたい”——そう彼女は言っていた。

  

『はい。』

 

 しばらくすると先ほどの、母親の声がスピーカー越しに聞こえてきた。

 

「あ、あずさ……だけど。」

 

『あず?!』

 

 途端に通話が切れ、玄関が勢いよく開いた。

 飛び出してきた母親は、月島の姿を見るなり肩を震わせる。 

 

「あず!あず!」

 

 そう言うと母親は月島を力いっぱい抱きしめた。

 

「ごめんね。ごめんね。」

 

 涙声が、夜の空気を震わせる。

  

「お母さん。仕事は?」

 

 予想外の反応に月島は困惑していた。

 

「休んだわよ。娘と連絡も取れないのに、行くわけないじゃない。」

 

 ——その時。

 

「何の騒ぎだ?」

 

「お父さん……。」

 

 月島の父親がスーツ姿で帰ってきた。

 

「娘と連絡が取れないっていうのに、仕事に行くなんて、どんな神経してるのよ!」 

 

 母親は怒りを露わにするが、父親は眉をひそめただけだった。

 

「あずさ。帰ってたのか。ほらみろ。お前は杞憂なんだよ。」

 

「それは結果論じゃない!そんな根拠もないやり方で、よく仕事が務まるわね!」

 

「仕事は関係ないだろ!大体なあ!お前がちゃんと教育していれば!こんな事にはならないんだよ!」

 

 二人の声がぶつかり合う。 

 

「私のせいだって言うの?!あなただって父親なのに!」

 

「だから!父親として言っただろ!子供は帰ってくるしかないんだよ!」

 

 ——ちょっと待てよ。そうじゃないだろ。


「何だよそれ。」

 

 気づけば僕は口を挟んでいた。でもそれだけ今のは許せなかった。月島がどれだけ悩んで考えていたのか。

 

「それじゃまるで!檻じゃねえかよ!そんな考えだから、月島は!」

 

「誰だお前は!お前があずさを誑かしたのか!」

 

「違うの!この人はあずさを見つけてくれて!」

 

 咄嗟に母親のフォローが入るが、父親は聞く耳を持たない。

 

「お前がそんなんだから、こんなわけのわからない奴にあずさが……」

 

「もうやめて!」

 

 皆んなの視線が月島に集まった。

 

「お願い……もう、聞きたくないの。」

 

 月島は両手で耳を塞ぎながら、顔を左右に振っていた。

 

「私は皆んなで仲良くしていたい。それだけなのに……。」

 

 月島の声が震える。 

 

「私が……私がいるからなの?私がいるから、二人は我慢して、こんな風に喧嘩ばっかりして……。」

 

「違う!違うの!」

 

「だったら!どうして!」

 

 月島の肩が、小刻みに震えていた。 

 

「私は、お父さんもお母さんも大好き。だから、喧嘩してほしくないの。」

 

 ポロポロと涙が頬を伝う。

 

「……もっと良い子にするから。」

 

 ぽつりと零れた声は、まるで祈りのようだった。 

 

「もっと勉強して、もっと家の事もやって、自慢の娘になるから。」

 

 彼女は顔を上げて、真っ直ぐに二人を見据えた。 

 

「お願いします。私と……私と家族でいてください。二人とずっと一緒にいたい。どうか……お願いします。」

 

 僕は呆気に取られた。

 仮に僕は、娘にこんな事を言われたどうするのだろうか。

 

「違うの!違うのよあずさ……。」

 

 すると母親が月島を再び抱きしめた。

 

 肩越しに母親はボロボロと涙を流し“ごめんね、本当にごめんね”と壊れた様に何度も言っていた。


 父親の方は力無く立ち尽くし、空を仰ぐしかなかった。

 

「俺は……なんて事を、言わせてるんだ。」

 

 よく見えないけれど、きっと悲痛の顔が張り付いているのだろう。

 

 僕はくるりと踵を返すと、自転車を手に月島家を後にした。

 どうなるかはわからない。人の感情なんて、そう簡単には変わられない面倒な生き物だ。

 けれど、この瞬間だけは大丈夫だと、そう思った。

 

 ◇◇◇

 少し自転車を走らせると、路地裏の影が動いた。

 白い装束に黒い袴を着た男——神薙が、闇の奥から歩み出てくる。

 

 僕はそれに気づき、ブレーキを引いて彼の真横で止まった。

  

「もう良いのか?」

 

 神薙の声は平坦だったが、その眼差しはどこか僕を値踏みするようでもあり、蔑むようでもあった。

 

「見ていたのか?」

 

 問いかけると、彼は肩をすくめてみせる 

 

「月島が妖異に取り憑かれている事を知っているのか?」

 

「無論だ。彼女が古燈神社に来た時点で気づいていた。」

 

「なら!どうして助けてやらなかった!」

 

 思わず声が張り上がり、夜の路地に反響する。

 神薙の表情は変わらない。 

 

「知っているのと、解決するのは別の話だ。」 

 

 守り人任命のとき、神薙は妖異についての説明をしてくれた。

 その後、僕はエリムからさらに詳しい情報を聞き出し——その中に「神薙は妖異を消せる何かを持っている」という話があったのだ。

 

「どうして嘘を吐く。」

 

「嘘?何をもってそう断定しているんだ?」

 

 冷たい声が返る。

 守り人として任命しておいて、なぜ全てを話さないのか。

  

「貴様、何か知っているな?」

 

 神薙の目が細まり、背筋に冷たいものが走る。

 言葉にならない圧力が、じわじわと体を締め付けてくる感覚。

 

「別に……。」

 

 すると神薙はフッと息を吐くのと同時に緊張が解れた。

 

「まあいい。そんな事よりも、最後まで見届けなくていいのか?。」

 

 僕は自転車に乗ったまま、ペダルに足を掛けた。

 このまま問い詰めたい。しかしエリムの事をバレてはいけない予感が胸を過った。

 

「当然だろ。」

 

 神薙は少し不思議そうな顔をした。

 

「だってさ、折角の家族水入らずの時間に、僕がいたら野暮ってもんだろ?」

 

 それだけ聞くと神薙は口元を緩めた。

 

「そうか。」

 

 短い静寂が落ちる。

 虫の声が遠くから流れてく

 

「じゃ、僕は行くよ。」

 

 ペダルを踏み込もうとしたとき、背中に声が飛んできた。

 

「今回は、うまくいった。」

 

 足が止まる。

 

「次もそうなるとは限らない。妖異に関わるのは金輪際やめるんだな。」

 

 僕は振り返り、神薙を真っ直ぐに見た。

 僕の身を案じてか、それとも荷が重くてか真意のわからないその言葉に、意味を図りかねていた。

 

「僕はさ、初めこそは感謝が欲しくて、関わろうと思ったんだ。」

 

 口をついて出たのは、この二日間の記憶だった。

 軽い気持ちで踏み込んだこと。

 その気持ちを裏切るような態度を取ってしまったこと。

 

「けど……今は違う。」

 

 僕を本気で叱ってくれた二人の少女がいた。

 

「そこに困っている誰かがいるのなら、僕は誰であろうと力になりたいと思ってる。」

 

 それを教えてくれたのも——二人の少女だった。

 

「僕が僕で在るために。」

 

  そう告げ、ペダルを踏み出す。夜の空気を切るように走り出す。

 

 ——だから、お前の提案にはのれないよ。

 

『カッコ良くなったではないか。』

 

 エリムの声が響いた。

 

 夜風の冷たさが頬を撫でる。

 迷うことはない。これが、今の僕だから。

 ◇◇◇

 ——よもや、守り人が妖異に関わるか。

 

「お前の孫は厄介だな。照彦。」

 

 僅かな街頭に照らされ、一人取り残された神薙は溢れる様に呟いた。

 

「さて……。」

 

 神薙は片目を閉じる。

 

 竹刀袋の留め紐をゆっくり解く。

 その前に、黒い影が三つ揺れていた。

 形を持たぬまま、呻くように揺れ、まるで警戒するように距離を取っている。 

 

「……居心地が悪くなったか? 」

 

 神薙の声は低く静かだ。

  

「無理もない。お前らの好む感情の器はあの少年が満たしてしまったからな。」

 

 すらりと漆黒の鞘から刀を引き抜くと、月夜を反射した白銀の刀身が現した。

 影たちは恐怖を覚えたのか、じりじりと後退する。

 

「人の子に取り憑くゴミめ。その行い、万死に値すると知れ!」 

 

 鋭い眼光が闇を射抜く。

 刀を高く掲げ——

  

「消えろ!」

 

 ——一閃。

 

 空気が裂けた刹那、影は悲鳴を上げる間もなく霧散した。

 残ったのは、地面にわずかな焦げ跡だけ。 

 

「これで終わりか……。しかし、まさか両親にも取り憑いていようとはな。」

 

 静かな夜風が、焦げ跡の上を優しく撫でていった。

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