午前4時、彼女のうしろ姿

三角海域

午前4時、彼女のうしろ姿

 僕は今日も夜の街をふらついている。


 ネオンの光が頬を青く染めて、どこからか流れてくる煙草の煙が鼻をつく。


 目当てはひとつ。バーの前で煙草を吸っている「彼女」を見ること。


 今夜も彼女はそこにいる。黒いワンピースに、赤いヒールの靴。僕は少し離れた場所で、その背中を見つめている。



 初めて彼女を見かけたのは、三週間前の木曜日だった。


 大学の友人との飲み会で終電を逃した僕は、始発まで時間を潰そうと繁華街をうろついていた。午前三時過ぎ、ほとんどの店が閉まった通りで、ひとつだけ明かりの灯ったバーがあった。


 その店の前に、彼女が立っていた。


 何かを待っているような、それとも何かから逃げているような、そんな表情を浮かべながら煙草を吸っている。

 ひとつひとつの動作はゆっくりとしていて、やたらと深く煙を吸い込んでいるのが印象的だった。


 足を止めてその姿を見つめてしまう。そこには言葉にできない美しさがあった。



 翌週の木曜日、同じ場所に僕はいた。またそこに彼女がいるような気がしたから。そんな気持ち悪い理由だった。


 彼女はいた。黒いワンピース、赤いヒール。


 毎週木曜日の深夜、僕は彼女を見に行くようになった。友人たちには「バイトがある」と嘘をついた。本当のことを話したら確実にヤバい奴判定だろうから。


 

 話しかけたい、と何度も思った。でも、僕には声をかける理由がない。「いつも見てました」なんて言ったら、ストーカーだと思われるに決まってる。



 何度目かの木曜日、その日はいつもと様子が違った。


 バーから出てきた彼女の足取りはおぼつかない。だいぶ酔っているらしい。放っておくのは危険なんじゃないか。


 僕は彼女に近づいた。

 


「あの、大丈夫ですか?」

 緊張で声が上ずる。恥ずかしくて嫌になるが平静を装う。


 彼女が僕を見る。初めて向かい合った。


「あ、君」

 彼女が笑った。

「いつも私のこと見てたでしょ?」


 ばれていた。これはマズいんじゃないか。


「すみません。でも、別に変なこと考えてるとかじゃなくて」


「わかってる」

 そう言いながら、いつも通りのゆったりとした動作で彼女は煙草に火をつけた。

「ヤバい空気ってこっちもわかるから」


 彼女は夜空を見上げた。


「明日、引っ越すんだ」


 何か言おうとしてことばを探した。けれど、なにを言えるというのか。彼女の名前すら僕は知らないのに。


 ゆったりと煙草を吸い、煙を深く飲み込み、吐き出す。苦い表情。好んで煙草を吸っているわけではないようだ。

 沈黙が続く。そのうち、彼女は煙草を吸い終えた。携帯灰皿に吸殻を押込み、立ち上がる。


「じゃあね」


 彼女は手を振り、背を向けて歩き出した。


 彼女が背を向けた瞬間、何か言いたいと思った。

 でも、声にならなかった。黒いワンピースの裾が揺れるのを、僕はただ見送ることしかできなかった。


 もうすぐ朝が来る。新しい一日が始まる。だが、僕の中では何かが終わったような気がしていた。


 午前四時。空がうっすらと白んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

午前4時、彼女のうしろ姿 三角海域 @sankakukaiiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ