1-1

「先生、どうしたら人間を辞めることができると思いますか?」

 霧島真白は口を開くなりそう言った。

 その言葉の向けられた先では、真白のクラスの担任教師……ではなく、その隣のクラスの担任教師である谷川が不審そうな表情を浮かべ真白を見ていた。

 その表情は複雑だ。

 一つはどうして自分のクラスの担任に質問をしないのか。

 一つはその質問の内容。

 一つはなんの前触れもなく投げかけられたこと。

 複数の感情がごちゃ混ぜになりこのような表情になっている。しかし真白はジッと、谷川の目を見つめ答えを促す。

 そして谷川もまた教師である。例え自分のクラスの生徒でないとしても、その内容が意味深だったとしても、放課後の廊下ですれ違いざまにそんな質問をされたとしても、真白が生徒であることに変わりはない。無視するなどという選択肢は谷川にもない。

「……どういう意味だ?」

 選択肢はないが、考えてもやはり質問の意図を正しく理解することは難しかったのだろう。身体を真白へと向けながら谷川が問い、それに対して真白は、

「……」

 視線を逸らすことなくただ真っ直ぐに谷川へと視線を向け続けた。

 二人の視線が交錯する。そんな二人の横を他の生徒が通り過ぎていき、その足音が遠くなる。

「……」

「……」

「……真白」

「はい」

「芸術授業棟の三階、階段を上がって最初の空き教室、そこに行ってみろ」

「? なぜですか?」

「そこに俺のクラスの生徒がいる」

「? ……だから、なぜ?」

「いいから行ってみろ」

「いやだから質問の答えになってない……」

「うるせぇ。いいから行ってみろ」

 おおよそ教師らしくない乱暴な口調と鋭い目つきには有無を言わさぬ迫力があった。

 その圧力に背中を押されたというわけではないが、真白自身も自分の投げかけた質問が簡単に答えの出るものではないことは理解している。谷川の言葉の意味はわからないが、それで少しでもヒントを得ることができるのなら、その可能性があるのなら、どんなことでもしようと真白は思っている。

 さらに視線で促され、真白は教えられた空き教室へと足を向けた。

 一年から三年までの教室がある棟とは渡り廊下で繋がっている芸術授業棟。その名の通り、音楽や美術などの芸術系の授業を受ける教室や、芸術系の部活の部室が集まっている棟だ。

 広さは真白が今歩いている棟と同じだけの広さがあるが、クラス数に比べて芸術の授業の種類は当然少ない。そのためいくつかの空き教室が存在する。

 本来であれば特別な用事がない限り空き教室への立ち入りは禁止されているのだが、そこは暗黙の了解として放課後に生徒が黙って使っていることもあるらしかった。

 渡り廊下を通り棟を移る。谷川に言われた通り、階段を上がった先にある最初の教室の前に立つ。

 扉の前に立つが中から声は聞こえない。それどころか人のいる気配すら感じられない。本当に誰かがいるのだろうか。いや、誰かがいたとしてその誰かは真白の質問の答えをくれるのだろうか。

(……悩んでいても仕方がないか)

 そう簡単に答えはでない。谷川に質問したのですらダメ元だったのだ。この教室に誰もいなくても、誰かがいたとして答えが得られなかったとしても、また答えを探す日々に戻るだけだ。

 真白は小さく息を吐いて教室の扉をゆっくりと開く。

 ガラガラと大きな音をたて開いた扉の先。そこには窓際の席に静かに座る一人の女子生徒がいた。

 顎のラインで切り揃えられている黒い髪と、スラリと伸びた手足は人形のように細く白い。そして冬の曇天を見つめるその横顔は生気が感じられないほど儚げで、まるで……。

(…………もしかして)

 その女子生徒は扉が開いた音に気づき視線を向ける。真白と彼女、二人の視線が空き教室の中で重なった。

 一瞬の沈黙。冬の冷たい空気が張り詰める。

 ――が、次の瞬間、目の前の女子生徒の表情が綻んだ。

「こんにちはー」

 直前までの表情が嘘であるかのような笑顔で少女は言う。

(違う……これって……)

 少女の挨拶に真白はそんなことを考えながらただ無言で彼女を見つめた。その真白の視線に少女は不思議そうな顔をし、

「えっとー……?」

「……ああ、ごめん。谷川先生に言われてきたんだ。僕が先生に相談をしたらここに行けって。ここにはキミがいるから行ってみろって」

「え、ええ? 唐突だねー。いきなりそんなこと言われても困っちゃうんだけどー……」

 と、当然ともいえる感情を抱きつつ少女は笑う。そして一拍置いて、

「えと、あたしは黒江花菜。よろしくねー?」

「あ、うん。僕は……――」

「キミのことは知ってるよ。霧島真白くん」

 自己紹介への返しを遮り花菜が言った。と、同時に彼女の視線が真白の目線から僅かに上昇する。その視線を追った真白も、初対面であるはずの彼女がどうして自分のことを知っているのかを理解する。

「……ああ、確かにこの髪色は目立つよね」

 そう言って前髪の毛先に指を伸ばす。

 少し下に引っ張るようにして僅かに視界に入った自身の髪の色は……――。

「うん、キミの名前と同じ色」

「……」

「……あー、嫌だった?」

「え?」

「髪の毛の色。指摘されるの」

 花菜の言葉の後に真白が一瞬黙ったのを彼女は見逃さなかったのだろう。その沈黙をそのように捉えた花菜が申し訳なさそうに口にするが、真白はすぐさま首を横に振る。

「ごめん、そういうわけじゃないんだ、気にしないで」

「そ? うん、わかった。……それで、ここに来た理由を訊いてもいい? なにか悩みがあるってこと?」

「悩み……まあ、そうかな」

「なんか谷川先生にここへ来させられたみたいだけどー、初対面のあたしにも話せるような内容? その辺だいじょぶそー?」

 彼女の口ぶりからするにどうやら真白の相談を聞いてくれるらしい。

 初対面、しかも唐突に表れた男の悩みなど、よく考えずとも面倒でしかないはずだ。なのに花菜はそれをちゃんと聞こうとしてくれている。それだけで黒江花菜という少女は少なくとも善人なのだろうと感じられた。

 教師には立場というものがある。だから基本的には相談された内容を他者に漏らすことはないだろう。だが生徒は違う。高校二年生という年齢はまだ子供であり、危機感や義務感などは大人に比べればまだ乏しい。他人の悩みなど面白半分で口外し拡散されてしまうこともあるだろう。

 しかし目の前で笑顔を浮かべる彼女からはそういった不安を感じない。だから大丈夫だと、真白の本能に近い部分が判断した。

「……僕は、人間を辞めたいんだ。僕はその方法を知りたい」

 真白は真っ直ぐに花菜を見つめ口にする。

 その嘘のような、冗談のような相談。でもそこに嘘も冗談も含まれていない真剣なものであるということを伝えるみたいに、真白は花菜から視線を逸らさない。

 そしてまた花菜も、真白の視線の意味を正しく理解した。

「…………そっかー、なるほどね。……だからか」

「だから?」

「うん、谷川先生がキミを……あー、霧島くんをここへ、あたしのところへ来させた理由がわかったかも」

「え?」

 そう言うと花菜は真白から視線を外し俯いた。しかしそれもほんの数秒のことで、すぐに顔を上げ、そして笑顔を向けたまま、言う。

「あたしはね、人間になりたいんだー」

 その言葉の意味が一瞬、真白にはわからなかった。

 人間になりたい。それは言葉通りに受け取れば、目の前の彼女は今――。

 そして花菜はそのまま笑顔を崩さずに続ける。

「――あたしね、人間じゃないんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る