第20話 無音終断

 仮面の下から溢れたそれは“闇”ではない。


 光も影も飲み込む、質のない黒。

 形を与えれば人、音を与えれば言、価値を与えれば法

 ——それが審判神オルディウスの素顔。

「定義」を剥いだ本性だった。


 光輪はなお背後で明滅し、三重のうち欠けた一部を黒煙が補う。

「これが神の姿なの?」


 仕えていたものは、人でも、神でも無い。

 その黒煙にイーヴァーは震えていた。


 オルディウスは錫杖を変わらず右手に、天秤は左手に

 ——だが今度は“持っている”のではなく、

 世界の側がオルディウスの手に

“持たせている”。


 主客の反転。


「第二審を開廷する」

 音が遅れて届く。黒煙が声帯の役割を果たし、言葉が場に落ちる。


 カインは怨嗟の剣を低く構え、息だけを長く吐いた。 


 ——音。

 黒煙の縁は音を吸う。

“無音”が移動することで、逆に位置が浮かぶ。


 ——波。

 黒煙はあらゆる振動を固定化する。

 だが固定化前の“端”にわずかな歪みが滲む。


 ——光。

 光輪の位相はまだ乱せる。イーヴァーの干渉が間に合えば、通る。


「行くぞ」

 その合図を合図だと認識する前に、戦いは始まっていた。


虚実審断きょじつしんだん

 黒煙の腕が四本に見え、錫杖が四ヶ所から襲う。見えていないはずのカインが、四方のうち三つを空で受け、残る一本を肩で殺す。 



「肉体秤・躯審ノにくたいへい・くしんのこう

「時間秤・時禍ノ天秤じかんへい・じかのてんびん

 その瞬間“肩そのものと肩の寿命”が天秤に量られ、数か月分の痛みが一挙に押し寄せた。軋む。だが足は止まらない。


「ぐああああーー、イーヴァー!」

 血反吐と声が交じる。

「《転照・三環(トリニティ)》——!」


 二枚欠けた光輪のうち、さらに一箇所の位相を崩す。完全には落とせない。だが輝度は確かに落ちた。輝いている間しか攻撃できない——ならば、輝きを“鈍らせる”。


 オルディウスは天秤の片皿を空に掲げ、そこへ見えない何かをそっと置いた。

「未来秤・未審ノみらいへい・みしんのこう

 ——時間、いや未来か。


 カインの動きがほんの一瞬、遅れた。

 筋肉の収縮と弛緩の間に小さな停止が挟まる。

「なるほど」カインは笑う。

「皿に俺の“明日”を置いたか」


 スピナは矢の準備ができたようだった

「カイン、もう矢いけるよ!」


「待て」

 カインは首を振る。

 黒煙は“価値の概念”を受け取らない。


 矢そのものの価値を老いさせ、朽ちさせ、あるいは生まれる前の“可能性”として天秤に封じることができる。


「まず、捉える」


 怨嗟の剣が唸る。

 怨嗟の中の英霊の声が重なった。


 “定義を斬れ”


 カインは一歩、黒煙の“外”へ踏み出した。

 剣先が黒の“意味”へ触れかけ——触れない。黒は意味を許さない。


 それでも、音は回る。

 それでも、波は撓む。

 それでも、光は影を産む。


 閃いたカインは、すかさず仲間に情報を伝達した。


「イーヴァー、影を作れ」

「了解」


 彼女は光輪に対し、逆向きの小さな光を二度、三度と弾く。オルディウスの背後、黒煙の縁にわずかな影が生まれる。


 影は黒煙に溶けるはずの“黒”だが“影”である分だけ光に依存している。

 ——黒煙より弱い黒。


 カインはそこへ刃を置いた。

「無名の刃・断界冥閃ノンレイド・だんかいめいせん

 “名のある闇”を断つのは容易い。


 剣筋が抜ける。黒煙が一瞬、空中に裂け目を残し、形をもたない顔が“顔”じみた歪みを見せた。


 オルディウスが初めて錫杖を“怒り”で振るう。


「私の身体に傷をつけるだと!」


 振り下ろされたのは棍ではなく“法”。

 「罪を量る。尊厳秤・尊律のそんげんへい・そんりつのこう


 天秤の皿がカインの胸の内側で開き、過去の声が一斉に鳴る。


 ——お前のせいで/お前が見捨てた/お前は神をも裏切った。

 胸骨の裏で心臓が撥ねる。動悸と叫びが重なる。

 足裏の土が消えたような落下感。


 皆も同じように罪の意識に倒れそうになった。


 しかし、スピアは、前に出た。

「それでも……」

 彼女は自分の胸に指を押し当て、零体の身を現実へ寄せ直す。


「それでも、わたしはこの人の隣にいたい。触れられなかったわたしが、触れたいって願って、何が罪なの!」


 ミルダが吠える。彼女の腕に白く神々しい光が螺旋を巻き、一本の矢が生まれる。


「わたしたちの“価値”は、あなたの秤じゃ

 測れない!」


「やってみろ!価値のひょっ……!」

 放つ。

 拒絶の矢は今回、価値を持たない。


 “名のない矢”。

 天秤に乗せる値がないものを、秤は量れない。

 矢は黒煙の額へ吸い込まれ、形なきものへ“傷”という名を刻印した。


「うゃあああああ」

 オルディウスの光輪が高く鳴る。

 輝きが増す。

 ——輝いている間しか攻撃できない神は、輝きを振り絞ってくる。


「錫杖が、雨。天秤が、刃。黒煙が、法」

 オルディウスはつぶさに言葉を発する。


 イーヴァーが踏み込む。

「あなたは“裁き”を自称するけれど、それはただの“支配”だわ!」


 槍が連ねる連撃は、神体を確かに抉る。致命へは届かない。だが届き続ける“痛覚”の記録が神核へ負担を積む。

連祈レイトっ!」


 カインは呼吸を整え、最後の線を見つめるように“無”を見る。

 音も、波も、光も、全部が均される黒煙の中心。


 そこに、かすかな“遅れ”があった。

 光輪が輝く直前——ほんの一瞬、黒煙が光を待つ“受け”になる。


 その刹那は、神が人に似る時間。

 ——攻めより受けに回る、ただの“間”。


「終わるぞ、オルディウス」

 カインが静かに言う。


 剣が叫ぶ。

 怨嗟の剣の中から、騎士団長の声が低く応じる。『我が刃、汝の一撃に連なる』


 怨嗟の教皇が嗤う。

『罪の総量は、いまここで清算される』


 父の温い気配が、柄の底で支える。

『進め。お前の足で』


 カインは地を蹴った。

 音の輪郭を跨ぐ。

 波の腹で身を滑らせる。

 光の影を先に置く。


無音終断むおんしゅうだん


 オルディウスの光輪が点る——

 その“前”に、刃は黒煙の芯へ。


 頭を割れた状態でオルディウスは放つ。


「魂秤・火魂葬命こんひょう・かこんそうめい

「命を燃やしてでもお前らを撃つ」

 幾重の力が一つとなり黒い炎が放たれる。


 それと同時に、スピナの矢が第二射。


 名を持たない拒絶の矢は、今度は“時間”さえ持たない。放った瞬間に命中している。


 神の秤に乗せる値がない二撃。

 怨嗟と拒絶が、漆黒の素顔を“定義不能な傷”で穿ち抜いた。


 世界が鳴る。

 秤が折れる。

 光輪が空洞を曝け出し、錫杖はただの金属片に戻る。


 オルディウスの声だけが残った。

「人が、神を——」

「違う」カインは剣を引き、血ではない黒を振り払った。

「お前が“神”を名乗っただけだ」


 審判神オルディウスは、秤のない場所へ堕ちた。

 崩れるでも、爆ぜるでもない。定義を失い、ただ“ここにいないもの”になった。


 残響が消えたとき、足元には小さな徽章が転がっていた。


 金でも石でもない、触れれば温い“印”。均された円の中に、傾いた小さな針。

 イーヴァーが両手でそれを捧げる。 


「……神の紋章」

 スピナがそっと覗き込む。

「これで……戻れなくなる魂は、少し減る?」


 カインは頷き、徽章を怨嗟の剣の根元に嵌めた。刃がわずかに光を帯び、重さではない“手応え”が増す。


「行こう。まだ五つ——いや“玉座”がいる」

 ミルダが短く吠え、四人の影が長く伸びた。



 戦が終われば、彼らはいつも火を起こす。

 この夜も例外ではなかった。焦げた香り、薬草の苦み、果実の甘さ。


 イーヴァーは黙って鍋をかき回し、スピアは矢羽を指で撫で、ミルダは串に刺した肉をじっと見つめる。


 英雄は炎の向こうで目のない顔を空へ向け、静かに息を吐いた。


「一つ、斬った。世界は、まだ重い」

「軽くするわ」イーヴァーが微笑む。


「あなたの隣に立ち続けて」

「わたしも」スピナが小さく、けれどはっきり言った。


 ミルダが「グル」とだけ応える。


 火の粉が上がり、夜がそれをのみ込んだ。

 秤のない夜。

 彼らは、次の審問へ歩き出す。

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