第3話 3節 孤独のロブスター

 しばらくそんな感じで歩いたあと、我慢できなくなったようにわたしの腕から逃げ出した千知岩さんは、その後、わたしに香水とか、リュックとか、ぬいぐるみとか、いろんなものを買ってくれて、極めつけにはロブスターが水槽で泳いでる店に連れて行ってくれた。

 今度はわたしがガタガタ震える番だった。


「千知岩さん、メニューに載ってる値段が……」

「今更、そんなこと気にするの? 原価で考えれば、この前食べたミートパイだって、さして変わらないくらいのものなんだけど」

「ヒエッ……そんなものをわたしは、いろんな人に分け与えちゃったんだ……」

「……別にいいでしょ」


 寡聞なもんだから、ロブスターについてはでかいエビ以上の知識はなかったんだけど、実際に食べてみたらめちゃくちゃおいしい海老だった。千知岩さんのお喋りを聞きながら夢中で食べていたら、一瞬でなくなってしまった。


 食後に出てきたチーズケーキに舌鼓を打ちつつ、今日という日の充実感に思いを馳せる。まさか、高校に入ってこんな思いができるなんて。ゴールデンウィークが明けてからも、千知岩さんの付き人として頑張ろうと志を新たにした。相も変わらぬコバンザメ生活なんだろうけど、千知岩さんもご満足みたいだからそれでいいのだ──。


「それでなんだけど、舟田、あなたはもう少し、自由に振る舞ってもいいと思って」

「え?」


 わたしはフォークを取り落としそうになった。千知岩さんは、チーズケーキを小さい欠片に区切って、丁寧に口に運んでから言う。


「私が一日中付き従え、なんて最初に言っちゃったものだから、ずっと私に付いてきてくれているんだと思うけど、その、そこまで忠実でなくていいというか、元はといえば私が日本でやっていけるかどうかっていう不安をごまかすためにわがままで言っていたことだから、これ以上は私に付き添わなくても、他に仲良くしたい人がいたら仲良くしてもいいし、入りたい部活があれば入ってもいい──なんて、私が許可を出すまでもなく、あなたはあなたのしたいことをしてほしいなって、最近のあなたを見て思うようになってきたの」


 他の交友関係を持ってもいい、と言うことだ。なんてまっとうな感覚を持ってるんだろう、とわたしは感動する。その配慮は嬉しいといえば嬉しいけど、でも、わたしの心にはどうしても寂しさと、不安が芽生えてしまった。


「……わたしは別に、永遠に千知岩さんの付き人でもいい」

「でも、それじゃあ、あなたは」

「千知岩さんほど、わたしは明るくもないし、自信があるわけでもないし、人間を信じられるわけでもないから。千知岩さんがわたしを大事にしてくれるなら……自由なんていらないよ」

「……もしかして、舟田は人付き合いが苦手?」


 わたしは苦笑する。


「苦手じゃなかったら、入学二日目の朝に裏門のベンチで時間潰してないって」


 千知岩さんはまっすぐにわたしを見た。


「そうなの。どうして苦手なの?」


 どうやら詳しく聞く気らしい。たいていの人は、予防線引いてると思って、鼻で笑うようなことなのに。

 逃げ道を探すようにわたしはチーズケーキの断面を、フォークでなぞった。


「まあ、よくある話だけど……中学の時に人間関係で嫌な目にあって」


 吹奏楽部に入ってたんだけど、活動を通して思ったことをズカズカ言ってたら、シンプルに嫌われて孤立したっていう、ただそれだけのよくある話。誰も予定を教えてくれないとか、合奏練習の時に私の席だけないとか、ありがちな話──まあ、長々と喋るようなことでもない。


「そう。大変だったのね」


 千知岩さんも深掘りはしてこない。短い台詞だったけど、苦い記憶をきちんと共有できたような、不思議な安心感があった。


「まあ、あの頃のわたしも悪かったし……集団の中でも誰とも話さず、じっとしている忍耐力を培えたから、結果オーライというか」


 苦い経験を思い返して、こういう風に思っちゃいけないのはなんとなく知ってる。自尊心の問題かなんかで。


 ただ、その忍耐力のおかげか、または神様が同情したのか知らないけど、高校受験ではわたしの実力とは不相応なレベルの高校に合格できてしまった。中学の知り合いとは距離を置けた代わりに、「不相応」のコンプレックスも一緒に抱えてくることになるわけだけど。


「私と一緒にいるのも、付き人として、だから?」


 千知岩さんは訊く。わたしは答えあぐねて、少し黙る。答えたくない質問だった。でも、何か言わなくちゃ。


「……うん。でも、これでいいの。付き人として千知岩さんと一緒にいれば……人間関係を気にしなくて済むから」


 結局、正直に言ってしまった。はっきり言っちゃう癖は相変わらずだ。これだから、誰かの心にさざ波を立てるんだ。


 でも、千知岩さんは「そう」と気にした様子もなく言った。


「現状にあなたが満足してるならそれでいいの。これからも引き続き、付き人として私に従ってもらうだけだから。ただ──」

「ただ?」


 千知岩さんが口ごもるのは珍しい。なんだか、今日は珍しいことが多い。千知岩さん自身も驚いたのか、取り繕うように小さく首を振ってみせた。


「……いいえ、なんでもない。ともかく、不満はないみたいだから一安心してる。腹の中にしまいこまれることの方がよっぽど困るから。あいにく、私は環境に恵まれてきてしまっているから、実際に体験したわけじゃないことなのが歯がゆいのだけど……でも、こういうことは舟田の方が、よっぽどわかってることよね」

「うん、まあ、ね」

「私も思ってることを伝えた。うん、これで大丈夫。私たちの、雇用者と労働者の関係は良好ね」


 千知岩さんは本当にそう思っているように言ったけど、わたしには、本当にそう思っているように見えるように言っているように思えた──なんていう冗長な印象は、千知岩さんのお喋りに影響されたのかもわからない。

 とりあえず、わたしはその日以降、あの時は面白くもないことを長々話してしまった、というおなじみの後悔を引きずることになる。そういうものだ。

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