第45話『GAME2:救済の天秤(紫①)』
「大丈夫。先生、また会えるさ」
ソウの言葉を最後に、俺の意識は、再び、白い光に飲み込まれていった。
また、何も成し遂げられなかったという後悔。だが、ソウが、相馬からサクラの安全を約束させたという小さな希望。
二つの感情が渦を巻く。
――気がつけば、俺は七色の扉の前に立っていた。
赤、橙、黄、緑、青、藍。
六つの扉が、その役目を終えたように、静かな白色に変わっている。
残されたのは、一つ。
全てを見通すかのような、深く、静かな紫色の扉だけだ。
『――新田アラタ。あなたは、現実世界への介入において、またしても、明確な成果を上げることはできませんでした』
エデンの感情のない声が響き渡る。
『しかし、あなたは、日向ソウという協力者を得て、相馬海斗の悪意を、一時的にではありますが封じ込めることに成功しました。これは、あなたの『幸福の追求』というテーマにおいて、大きな進歩と認められます』
「……ソウは、無事なのか」
『日向ソウ、御手洗、相馬は元の世界へと帰還しました。彼らの記憶は、このゲームに関する部分を除き、あなたの介入によって再構築された、新しい現実のものへと上書きされています』
そうか。
ソウたちはもう、何も覚えていないのか。
『さあ、新田アラタ。最後の試練へ、向かいなさい。そこで、あなたが学ぶべき、最後のテーマは、幸福の本質です』
俺は覚悟を決め、最後の扉――紫色の扉のノブに手をかけた。
扉の先に広がっていたのは、これまでのどの空間とも違う、静謐と物悲しい空気に満たされた、未来的な医療室だ。
部屋の中央に、一つの、白い医療ポッドが置かれている。中には、一人の若い女性が穏やかな顔で眠っていた。
無数のケーブルが、彼女の身体と壁際の巨大なサーバーに繋がっている。
「エデン、説明してくれ」
『これは、哲学における有名な思考実験、ノージックの経験機械です』
エデンが、静かに解説を始めた。
『このポッドに眠る女性・ユキは、現実世界では、末期の脳腫瘍患者です。現代医学では、治療法はなく、彼女に残された時間は、およそ72時間。その時間は、耐え難い激痛と共に、彼女の意識を、少しずつ奪っていきます』
ユキの穏やかな顔を見る。あまりにも残酷な現実。病だけは医療技術以外に立ち向かう方法がない。
俺は、ポッドの横にある二つのモニターに目をやった。
一つ目のモニターには、ユキの危機的なバイタルデータが表示されている。
二つ目のモニターに、映し出されていたのは、満員のコンサートホールで喝采を浴びながらピアノを弾くユキの姿だった。表情は幸福に満ち溢れている。
『この機械は、ユキの脳に直接、接続され、彼女が望む、あらゆる幸福な『経験』を、夢として提供し続けます。痛みも苦しみも、死の恐怖も、そこにはありません。ユキは、このまま、世界で一番、幸福な夢を見ながら、三日後、穏やかに、その生命活動を終えるでしょう』
俺の目の前に、一つの赤いボタンが浮かび上がった。
『新田アラタ。あなたの選択肢は一つ。このボタンを押すか、押さないか』
エデンが問いを突きつけた。
『もし、あなたが、このボタンを押せば、経験機械は停止します。ユキは夢から覚め、この冷たい医療室で目を覚ますでしょう。耐え難い痛みと、自らの死の運命を直視しながら、残された72時間を、生きることになります』
「そんな……押せるはずがない!」
『ならば、押さなければ良いのです。ボタンを押さなければ、彼女は、幸福な夢の中で真実を知らないまま、死んでいきます』
「意味が分からない。こんな問題に選択肢なんかあるのか?」
『さあ、選びなさい。現実を生きる権利と、偽りの幸福な死。どちらが、ユキにとっての本当の『救済』ですか?』
「おい、エデン! 待て――」
エデンの返答が途絶えた。
俺は、唇を噛み締めた。
ユキの死に方を選ぶだけのゲーム。現実世界を生きさせてやりたいなど、そんなエゴすら必要のない絶望的な状況だ。
どうせ死ぬのなら楽に。ボタンなど押して良いはずがない。
違う。今まで、諦めることを前提としたゲームなど存在していない。
「何かあるんだろ、じゃなきゃ、ユキが報われない」
医療用ポッドをぐるりと回る。
ユキの整った顔。体全体を包み込むカプセル。
ポッドの表面に触れた。
――不意に、青白く光った。
ポッドの一部がモニターに変わり、ユキの脳の三次元ホログラムが現れた。
「ほらな、エデン。タチが悪い奴だ」
ホログラムの中で、無数の神経細胞が星屑のように輝いている。その中心部。禍々しい紫色の光を放つ、巨大な腫瘍が全てを侵食しようとしていた。
ホログラムに触れた。
ウィンドウが立ち上がる。
『このシステムは、あなたの思考と神経を直結させ、ナノマシンを介して、ユキの脳を細胞レベルで操作することを可能にします。理論上は、腫瘍の完全な切除が可能です』
よし。道はある。ただ、俺には、脳外科の知識など一切ない。
画面を眺めていても、何から手を付けて良いか分からなかった。
並んだメニューの中に、【help】ボタンを見つける。
迷わず押した。その瞬間、目の前で淡い光が人の形を成した。
「……ここは? あなたは新田さん? 星野です。私を救ってくれた」
見覚えのある女医だった。トロッコ問題の時、俺が命を救った五人のうちの一人。確か、脳外科を専攻していたはずだ。
「助けてください! 目の前の患者のユキは72時間後に死んでしまう。星野先生なら、何かオペの手段がありませんか?」
「ホログラムを見せて」
星野が慌ててポッドに歩み寄った。と、同時に目の前に浮かぶ、あまりにも鮮明なユキの脳のホログラムを見て、星野が息を呑んだ。
「何、これ……。信じられない。MRIやCTとは比較にならない解像度。細胞レベルで、一つ一つのシナプスの発火まで見えるなんて。これ、未来の医療だ」
声が震えていた。
「どうです? ユキ、助けられませんか?」
星野の指が震えながら、ホログラムに触れた。指先で、腫瘍の輪郭をそっとなぞる。
「……
「グリオーマ?」
「脳腫瘍の中でも、最悪の腫瘍なの。腫瘍細胞が、正常な神経細胞の間に、まるでインクが水に滲むように、浸潤していく。健康な細胞との境界線が、全く存在しない。これでは、どこまで切るべきかが判別できない。国内、いや全世界で見ても、これをオペできる医師は存在しないでしょう」
「そんな……」
言葉を失った。
腫瘍を睨みつける。まるで、脳という宇宙に広がった死の星雲のようだった。
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