第5話『GAME 1:ブラインド・ドクター(信頼の報酬)』

 俺は、大きく息を吐いて、水の注がれたキャップを一気に口元へと引き寄せた。


 ためらうな。キャップを傾ける。無味無臭の液体が、喉を流れていく。


 喉仏を押下して、無理やりに飲み下した。


 今のところ体には、何の異変も起きない。痛みも、痺れも、熱さも、冷たさも。


 ただ、三人の視線だけが、槍のように俺の全身に突き刺さっている。


 心配そうに眉を寄せるミオ。

 値踏みするように俺を分析する桐島。

 そして、全てを見通すような目で、面白そうに観察するソウ。


 沈黙が、白い空間を支配していた。

 一秒が、一分にも感じられるような、濃密な時間。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響く。


 あの、死刑執行台の上で、床が開くのを待っていた瞬間の静寂に、少しだけ似ていた。あの時は「終わり」を待つ静寂だったが、今は「始まり」を待つ静寂だ。


 ミオが申し訳なさそうに顔を伏せている。


 脳内にエデンが何も語り掛けてこない。俺の賭けは、失敗だったのだろうか……?


 ただの感傷的なパフォーマンスで、貴重な水を一口、無駄にしただけなのか。


「……三十秒経過。何の兆候もないな」


 桐島が、腕を組んだまま冷たく言い放つ。


「アラタ君、議論を再開しよう。所詮、水を一口飲んだだけで、何も前進しちゃいない。無駄な時間はもう過ごせない」


「まだ結論を出すのは早いんじゃない?」


 ソウが、桐島の言葉に反論する。


「エデンが人間の行動を『評価』するのに、多少のタイムラグがあるのかもしれないし。それに、桐島さん、あんたさっきからずっと腕組んでるけど、指先、震えてるよ。一番焦ってるのは、桐島さんなんじゃないの?」


「何だと……」


 桐島が、一瞬、自分の指先を見て、忌々しげに握りしめた。

 桐島がソウに詰め寄ろうとした瞬間――脳内に、あの無機質な合成音声が、雷鳴のように響き渡った。


『協調行動【信頼の譲渡】を確認。ボーナス情報として、当事者である被験者:新田アラタと冴木ミオの基礎バイタルデータを開示します』


「え……?」


 その場の全員の声が重なった。


 俺とミオの目の前に、淡い光が集まり、半透明のホログラフィック・ディスプレイが、ふわりと浮かび上がった。


 音もなく現れた画面は、まるで最新の医療機器のように洗練されている。そこには、俺とミオ、二人の人体の模式図が映し出されていた。


 その横に、心拍数、血圧、脳波、血液組成といった、詳細な生体データが、流れるように表示されていく。


 全ての項目の横には、鮮やかな緑色の文字で、こう記されていた。


【STATUS: HEALTHY ― 健康状態、極めて良好】


「……嘘」


 ミオの口から、か細い声が漏れた。


 STATUS: HEALTHY。


 その緑色の文字列を、ミオは何度も信じられないものを見るかのように見つめている。


 やがて、その大きな瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。それをきっかけに、今までミオを縛り付けていた恐怖のくさびが、一気に外れた気がした。


 堰を切ったように、ミオが嗚咽を漏らし始める。


「よかった……私、病気じゃ…なかったんだ……本当に、よかった……!」


 その場にへたり込み、子供のように声を上げて泣きじゃくる。恐怖からの、完全な解放だった。その涙に、俺は心から安堵する。


 俺も、自分のデータを見て、息を吐く。

 だが、それ以上に、俺の心を震わせたのは、AIが俺たちの行動を『信頼の譲渡』と名付け、評価したことだった。


 俺がミオを信じてリスクを負い、ミオが俺を信じて最後の行動を委ねたこと。エデンは、その心の動きこそを、このゲームの「正解」の一つだと認めたのだ。


 仮説は正しかった。このゲームは、ただの論理パズルじゃない。


「なるほどね。人間を試すっていうのは、こういうことなんだ」


 納得の声を上げたのは、ソウだった。


 ソウは、初めて心の底から楽しそうな、満面の笑みを浮かべていた。興奮したように立ち上がり、その場でくるりと一回転する。


「エデンは行動の『結果』ではなく『意図』を評価した。信頼の譲渡……リスクを共有する意思そのものに価値を与えたね。なんてエレガントなアルゴリズムなんだろう。エデン、最高に面白いや」


 ソウの興奮とは対照的に、桐島は、顔面蒼白で立ち尽くしていた。


 その表情からは、血の気が完全に引いている。自らが絶対の拠り所としていた「論理」と「確率論」が、俺の非論理的な「信頼」の前に、崩れ落ちた。初めて、桐島リョウという人間の完璧な鎧に、大きな亀裂が入るのを見た。この男は今、自分の足元が崩れ去る音を聞いているに違いない。


 状況は、一変した。


 俺とミオが健康であるという「確定情報」が手に入ったことで、患者の可能性は、桐島とソウの二人に絞られた。


 盤面は、クリアになった。だが、本当の地獄は、ここからだ。


 それまで四人に分散していた疑いの目が、たった二人に絞られた。


 俺は、まだしゃくり上げているミオの肩をそっと叩き、立ち上がった。


「これで、二人のどちらかにオートメスを、どちらかに酵素安定剤を。確率五割まで絞れましたね」


 桐島は、打ち砕かれたプライドを必死でかき集めるように、乾いた声で答えた。


「あっ、でも本当にそうかな。モニターをよく見て」


 ソウが、興奮した笑みを消し、真剣な目でホログラムを指差している。嫌な予感がした。


「何が、おかしい気がするんだ。HEALTHYって、何において『HEALTHY』なのか、だよ」


 ソウは、ミオのディスプレイの前に立つと、表示されている「生体データ」という項目を指でなぞった。


「エデンが今回、開示したのは『基礎バイタルデータ』だよね。心拍数、血圧、脳波……。これらは、主に循環器系や神経系の基本的な健康を示すものだよね。つまり、このデータで分かるのは、『アラタさんとミオさんの二人に、少なくとも大動脈瘤のような物理的な疾患はない』ってことだけじゃない?」


 桐島が片眉を跳ね上げた。


「……確かに。悔しいが、ソウの発言は正しい」


 ミオがまた泣き顔になった。


「そんな……つまり」


 言葉が出ないミオの気持ちを俺は引き受けた。

「代謝異常の可能性は潰せていないと」


 ソウが即座にうなずいた。


「うん。『代謝異常』は、もっとミクロな、細胞レベルの化学的な問題だ。基礎バイタルデータだけじゃ、異常は検知できない。もっと詳細な血液分析まで必要になるもん」


 この少年、何者なのか。

 底が知れない。


「あっ、画面が触れるじゃん」


 ソウは、まるで隠しコマンドを入力するように、ホログラムの「血液組成」という項目を指でタップした。すると、さらに詳細なサブメニューが表示される。


 小さな文字で、はっきりと書かれていた。


【注:詳細な代謝マーカー分析は、本データ開示の対象外】


 一文を見た瞬間、ミオの顔から、再び血の気が引いていくのが分かった。


 桐島は、愕然がくぜんとして言葉を失っている。


 エデンは、嘘を言っていなかった。

 ただ、全ての真実を、教えてくれなかっただけだ。一瞬だけ見えた光は、すぐさま、より深い闇に飲み込まれていった。


 犯人探しは、振り出しに戻った。いや――。


 大動脈瘤の患者は、桐島かソウの二択。


 代謝異常の患者は、俺たち四人全員の中にいる。


 状況は、より複雑になったのかもしれない。

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