第13話『心が導く、たった一つの答え』-真一side-

昨夜の光景が、何度も頭の中で再生される。

桐島さんの、今にも泣き出しそうな顔。驚きと失望とが混じったあの表情が、瞼の裏に焼きついて離れない。


(僕は……彼女にあんな顔をさせたかったわけじゃない。ただ、彼女のことを知りたかっただけなのに……)


思い返すほどに胸が痛む。結局、僕は自分の不甲斐なさで、また大切なものを壊してしまった。

誰かと親しくなるなんて、やっぱり僕には無理なんだ。距離を縮めれば縮めるほど、相手を傷つける。そうやって関係を壊すことしかできない。


(桐島さんとも……もう会わない方がいいのかもしれない)


頭ではそう結論づけようとする。けれど心が激しく否定する。「嫌だ」と叫んでいる。諦めたくないと、子どものように足掻いている。


それでも僕は、その叫びに必死で蓋をして――彼女のことを手放す方が正しいのだと、無理やり言い聞かせようとしていた。



***



昼休みになると、また田中さんが懲りずにシステム部のデスクまでやってきた。


「お話があるんです……」

「相原さん、彼女さんですよ〜」


佐々木が軽口を叩き、周囲も囃し立てるように笑い声を上げる。


(まただ……。どうして止めてくれないんだ……)


笑い声が耳障りで仕方なかった。昨夜の桐島さんの表情が頭をよぎる。泣きそうに歪んだ顔。あの表情の原因は――目の前の田中さんの行動に他ならない。


(もし抱きついてこなければ……後をつけてこなければ……桐島さんをあんなふうに傷つけずに済んだはずなのに……!)


胸の奥から熱いものがせり上がる。怒りと悔しさで喉が焼けるようだった。田中さんに対しても、無責任に囃し立てる周囲に対しても、抑えきれない苛立ちが込み上げる。


「……もう、いい加減にしてくれ!」


気づけば声が出ていた。驚いたように周囲の視線が一斉に集まる。


「田中さんと僕は、付き合ってなんかない!」


怒鳴りつけるように言い放ち、ざわめき立つ職場を背にして席を立った。抑えきれない感情を抱えたまま、僕は外へ飛び出していった。



後を追いかけてきた小野が、僕の肩を掴んだ。


「おい! 相原、待てって!」


振り返った瞬間、胸に溜め込んでいたものが溢れ出すように、昨夜の出来事を吐き出していた。田中さんの執拗な行動、桐島さんのあの顔――。

言葉にすればするほど、自分の不甲斐なさが突きつけられる気がした。

話を聞き終えた小野は眉間に皺を寄せ、低く言った。


「……それ、八つ当たりじゃないと言い切れるか?」


心臓を直に掴まれたように、息が止まった。図星だった。喉が詰まり、何も言い返せない。


「……まあ、お前の気持ちはわからなくもないけどな」


深いため息のあと、小野は肩をすくめる。


「田中さんの執着は、確かに度を越してる。俺だって正直、怖ぇと思うくらいだ」


一瞬だけ口調を和らげたあと、また真顔に戻る。


「で、桐島さんの後を追ったんだろ? 話せたのか?」

「……見失った。その後、連絡しても出てくれないし、返信もこない」

「おいおい、完全に避けられてんじゃん」


小野は苦笑しつつも、視線は鋭い。


「なあ、相原。本当のところ、桐島さんのこと、どう思ってんだ?」

「え……だから彼女は、通勤が一緒になる人で……」


言い訳のように口にした瞬間、小野がかぶせてくる。


「“ただの通勤仲間”なら、そこまで必死にならないだろ?」


返す言葉が見つからず、唇が震えた。


「通勤が一緒になるだけの人なら、普通はもう諦めるだろ。なんでそこまでして、桐島さんと繋がりを持ち続けたいんだ?」


問いかけられても、答えが出てこない。喉が詰まって、言葉が空回りする。

そんな僕を見て、小野は出来の悪い弟を見るような目をした。


「じゃあ聞き方を変える。……今、会いたいと思う人は?」

「え……」

「お前が辛い時、嬉しい時、真っ先に顔を思い浮かべるのは誰だ?」


胸の奥がざわつく。

頭に浮かんだのは、迷うことなく桐島さんの顔だった。


(……僕は……)


仕事に追われて疲れている時も、誰かに話を聞いてほしい時も。彼女の笑顔を見たいと願い、彼女の隣にいたいと願っていた。

その理由に、ようやく名前をつけてしまう。

心臓が痛いほどに脈打つ。息が乱れる。


(そうだ……僕は、桐島さんのことが――好きなんだ……)


彼女の笑顔をずっと見たいと、彼女の隣にいたいと思っていたのは、桐島さんのことを好きだったからなんだ……。


「そうだな……僕は桐島さんのことが好きだ。小野のおかげで自覚できたよ」

「じゃあ……!」

「でも、僕じゃダメなんだ……」


ようやく気づいた気持ちを、同時に押し殺そうとしていた。


「なんでダメなんだよ。好きなんだろ? 気持ちを伝えてもないのに、なんで諦めるんだよ」

「僕では、桐島さんのことを傷つけるだけだ……」


電車の中で、まともに会話すらできなかった。彼女が笑顔を見せなくなったのは、僕が言葉を詰まらせてばかりいたからかもしれない。

昨日だけじゃない。これまでもずっと、僕は気づかないうちに彼女に無理をさせていたのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。


(彼女は、僕じゃない誰かと一緒にいる方が……笑っていられるんだ)


以前見かけたスポーツカーを運転していた男の方が、よほど相応しい。僕なんかより、彼女を幸せにできるだろう。


「どうして! それでいいのかよ!? 彼女のことが、好きなんだろ!?」

「ああ……好きだ……」

「だったら……!」

「でも、彼女に相応しいのは僕じゃない」


悲しげに口にした僕の言葉に、小野が顔を歪める。今にも泣き出しそうな表情で、それでも必死に言葉を投げかけてきた。


「なんで……まだ分かんないだろ! お前が諦めたら、彼女はどう思うんだよ!」


胸が痛んだ。だけど――。


「悪いな。桐島さんのことは諦めるよ。もう決めたんだ……」

「……」


小野は歯を食いしばり、悔しそうに俯いた。その横顔を見ながら、罪悪感に押し潰されそうになりながらも、僕は何も言えなかった。


会社に戻るまで、僕たちの間に言葉は一つも生まれなかった。



***



終業後。小野と一緒に出入口へ向かう。小野は他愛もない話を続けていた。


(僕を元気づけようとしてくれてるんだろう……)


その優しさが嬉しくて、同時に胸が痛む。申し訳なさでいっぱいになっていた。

会社を出て駅へ向かおうとした時、不意に名前を呼ばれる。


「相原! ……ちょっといいか」


声の主は営業の同期・野村のむらだった。


「ああ、構わないが……」


担当が違うせいで普段ほとんど接点のない相手だ。何の用だろう、と訝しげに見ていると――野村の後ろから、一人の女性が現れた。


ぱっちりした目の、愛嬌のある笑顔を浮かべる女性。キレイというより、可愛いという表現が似合う。


(……誰だ?)


記憶にない顔だった。忘れているだけだろうか。そう思っていると、その女性がにこやかに名乗った。


「はじめまして。桜井システムズの波多野はたの美咲と言います」

「はじめまして……相原真一です」


思わず口にしながらも、心の中で小さく繰り返す。


(桜井システムズ……? 聞いたことない社名だな……)


やはり初めて会う人だ。では一体、僕に何の用が……そう思っていると、彼女は一歩こちらへ踏み込んできた。


「先に言っておきます。ごめんなさいね」


何が? と聞く間もなく――


パァンッ!


乾いた音と同時に頬に衝撃が走った。


「おいおい、マジかよ……」

「ちょっ……み、美咲ちゃん!?」


背後で小野が驚き、野村が慌てて声を上げる。

なぜ殴られたのか分からない。問いかけようとしたとき、波多野さんの顔が怒りに染まり、鋭い眼差しをこちらに向けてきた。


「……なんで殴られたのか分からない顔してますね。もしかして、まだ私が誰か気づいてません?」


問い詰められても、全く身に覚えがない。


「社名を聞いても分からないんですか? あの子が言ってなくても、田中幸枝さんという人からも聞いてないんですか?」

「……! なぜ、田中さんの名前を……」


思わず息を呑むと、彼女は大きくため息をついた。


「桐島ひより。ご存知ですよね? 彼女は私の大切な会社の後輩です」

「……!」

「あなたにお聞きしたいことがあります。顔、貸してくれますよね?」


有無を言わせぬ視線に射すくめられるが、そんな顔をされなくても行くつもりだった。波多野さんが桐島さんの先輩だというのなら、僕にだって聞きたいことがある。

心配そうにこちらを見る小野に、手振りで大丈夫だと示し、人目のない場所へと移動した。



「まず初めに……ついさっき、野村くんからあなたと田中さんはお付き合いしてないらしいと聞きました。それは本当ですか?」


鋭い目付きで問いただされるが、それは間違いない。


「本当です」

「じゃあなんで、田中さんはひよりに会いに来たんですか?」

「え?」

「田中さんという方は、直接ひよりの元を訪ねてきて、あなたには恋人がいると伝えてきたそうです。それも、まるで自分が相手であるかのように遠回しに」

「……! それは本当ですか!?」

「ひより本人から聞きました。泣きながら」


泣きながら――。

その言葉で、昨日の桐島さんの泣き出しそうな顔が鮮明に蘇る。


「言っておきますけど、ひよりは嘘なんてつける子じゃありません。人を欺けるような子じゃない、真っさらで素直な子なんです」


黙り込んだ僕を、疑っていると思われたのだろう。

けれど僕には分かっている。桐島さんがそんな人じゃないことは。

むしろ、田中さんがそういう言い回しをしたのだろう。社内の人間を欺いてきた、あのやり方で――。


「……ねえ。付き合ってないなら、なんでひよりを傷つけたの? なんであの女を調子づかせてんのよ」

「僕はそんなつもり……」

「してないなんて言わせないわ。あんたの態度が変わったって、あの子は落ち込んでたのよ!」

「それは……」


何も言えなくなった。

確かに田中さんのことを切っ掛けに樹里のことまで思い出してしまい、桐島さんにどう接していいのか分からなくなっていた。


「昨日だってそう。わざわざ時間変更してくれとあんたに言われて朝一緒に通勤したのに、何も話さない、目も合わさない。そのくせ仕事帰りに呼び出しといて、あの女と抱き合ってるところ見せつけるとか……ふざけんじゃないわよ!」

「……」


言い訳を並べたい気持ちはあった。けれど、そんなことをしても意味はない。傍から見れば、僕が桐島さんを裏切り、踏みにじったようにしか映らないだろう。


「……昨日のひより、見てるのも可哀想なくらい泣きじゃくってた。誰が原因か、もう言わなくても分かってるわよね?」


言われて頷く。僕だ。僕が彼女のことを、深く傷つけたんだ。


「じゃあもうあの子とは二度と会わないで……って言ってやりたいところだけど、そこまで私に言う権利はない。その代わり、聞いておきたいことがある」

「……なんですか?」

「あんた、ひよりのこと、どう思ってんの?」


言葉に詰まる。でもここで嘘をつくのは、ここまでやって来た波多野さんに対して不誠実だと思い、口を開く。


「……僕は桐島さんのことが好きです」


そう言うと、波多野さんは盛大なため息をついた。


「はあぁぁぁぁぁ……」


そんなに吐くと酸欠になるのでは? と言おうとしたタイミングで、顔を上げた彼女は……般若のような顔で睨みつけてきた。


「なんっで、それを!! ひよりに!! 早く伝えないのよ!!! あんたがモタモタしてる間に、あの子がどれだけ傷ついてきたと思ってんの!!!」


周囲に響き渡る怒声に、驚いた小野が駆けつけてくる。


「お、おい! 大丈夫か!?」

「うるさい! ちょっと黙ってて!」

「……はい」


が、一喝されて追い返された。


「で? どうすんの?」

「え?」

「『え?』じゃないわよ。ひよりのこと、好きなんでしょ? 告白すんの? しないの? どっちよ」


言葉が出てこない。


「僕は……」


僕にはそんな資格なんてない。傷つけて、泣かせて、それでもなお……僕が彼女を好きだなんて言えるのか。そう言おうとした、その時――


物陰に隠れてた小野が口を挟む。


「諦めんな!」

「小野……」

「諦めんなよ! 好きなんだろ!? 桐島さんの隣にいたいんだろ!? 自分の気持ちに蓋しようとすんなよ!」

「……」


必死になって背を押してくれる小野の姿を見て、自分の中の何かが弾けた気がした。


「……そうだな。ありがとう」


小野に礼を伝えると、波多野さんに顔を向ける。


「……今さらかもしれません。でも、それでも――桐島さんに僕の気持ちを伝えたいです」


キッパリと宣言する。


また何かを間違えるかもしれない。失敗するかもしれない。だが、それがどうした。桐島さんは樹里じゃない。僕だって、あの頃の僕とは違う。何もしないで失うくらいなら、せめて伝えることくらいはしたい。


僕の言葉を聞いた波多野さんは軽く微笑み、小野は少し涙ぐんでるように見えた。


「そこまで本気なら、一度だけチャンスをあげるわ」


そう言うと、明日の終業後に桐島さんと会える機会を作ってくれると言ってくれた。


僕は彼女に連絡しても避けられてる。波多野さんの提案は、僕にとって有り難いものだった。そのまま、待ち合わせ場所を決めて、波多野さんとは別れた。


逃げるのはもう終わりだ。――覚悟を決めた。僕は明日、桐島さんに告白する。

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