第13話『心が導く、たった一つの答え』-ひよりside-

泣きながら走り続けていると、曲がり角を曲がった瞬間、危うく人と正面衝突しそうになった。


「……っぶねぇな!」

「……す、すみません!」


慌てて謝って顔を上げると、相手は浩平くんだった。


「え……ひよりちゃん? 泣いてんのか?」


咄嗟に顔を背け、袖で涙を拭う。けれど止めようとしても、あとからあとから溢れてくる。


「な、なんでもないよ……目にゴミが入っちゃって……」

「……嘘言うなよ。どうしたんだ?」


優しい声に、堰を切ったように涙が止まらなくなった。

その時、遠くから相原さんの切羽詰まった声が届く。


「桐島さん! 誤解なんです! 桐島さん!」


声に反射的に身を縮める私を見て、浩平くんは一瞬眉をひそめ、すぐに状況を理解したようだった。


「……こっち」


そう言って私の手を取ると、迷いなく相原さんとは反対方向へ歩き出した。



***



連れて行かれた先は、木製の扉と真鍮のドアベルが似合う、クラシックな喫茶店だった。ドアベルが澄んだ音を立て、店内に入ると、カウンターに立つマスターが顔を上げる。


「いらっしゃ……なんだ、浩平か」


どうやら浩平くんの知り合いの店らしい。


「なんだってなんだよ。奥、借りるぜ。……ここ、あんま人来ねぇから」


ぶっきらぼうに言いながらも、マスターは気を利かせて奥の席を空けてくれた。すぐに運ばれてきた水と一緒に、温かな布のおしぼりが差し出される。


「ん。目元に当てときな」


浩平くんに促されるままおしぼりを目に当てると、じんわりとした熱が瞼に染み込み、張りつめていた心が少しずつ解けていく。

静かな店内では、ジャズの低い調べだけが流れていた。


「ごめんね……迷惑かけて……」

「……別に、迷惑なんかじゃねぇよ」

「ありがと……」


短いやりとりのあと、再び静寂が落ちた。


「……何があった?」

「……」

「言いたくないならそれでもいいんだけどさ。あんなに泣いてたから」

「……見ちゃったの」

「え?」

「この前話した相原さんが……彼女と抱き合ってたの……」

「……」

「仕事終わりに会いたいって連絡もらって、その場所に行ったら、そこで……」


そこまで言うと、浩平くんだけじゃなく、マスターまで「「はあっ?!」」と声を上げた。

浩平くんに“余計なこと言うな”とでも言いたげに睨まれ、マスターは慌てて謝る。


「あ、いや、ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど、話が耳に入って。でもその男、酷くない? わざわざ呼び出してそんな場面見せるとか」

「ああ。俺もそう思う」


二人に言われて、やっぱりあの場面を見せるために呼び出したのかな……そんな気さえしてしまった。


「……あんまりこういうこと、言いたくなかったんだけどさ」


頭をガシガシ掻きながら浩平くんが口を開く。


「そんな男、止めた方がいいよ。女泣かす男なんてロクなもんじゃねぇから」


その言葉で、これまでの相原さんが脳裏に浮かぶ。

初めて会ったときのこと、話しかけてくれたときのこと、趣味を馬鹿にせずに真剣に聞いてくれたこと、連絡先を交換したときの嬉しそうな表情も、笑ってくれたあの顔も……でも、そんな大切な瞬間を全部無かったことにできるのかな。


考えれば考えるほど涙が溢れて止まらない。


「わ、忘れたいっ……! わ、私も、忘れたい……っけど、忘れられないの……っ!!」


嗚咽が止まらなかった。

忘れたい。無かったことにしたい。そう思えば思うほど、相原さんのことを好きだという気持ちが溢れ出してくる。


声を押し殺してテーブルに突っ伏して泣き続ける。浩平くんは何も言わず、ただカップを手にしながら、そっと見守っていてくれた。



しばらくすると、不意にドアベルが鳴り響いた。

その小さな音がやけに大きく胸に突き刺さり、びくりと肩が震える。


(お客さん……? もう迷惑かけられない……)


必死で涙を拭い、かろうじて顔を上げた瞬間――


「ひより!!」

「え……」


目の前に立っていたのは、美咲先輩だった。


「浩平から連絡もらって来たの。……大丈夫、ひより。辛かったね」


その優しい声を聞いた途端、張り詰めていた心が一気にほどける。止めようとしていた涙が、堰を切ったようにまた溢れ出した。


「先輩……っ! 私、もう頑張れない……でも、相原さんのことも、忘れられないんです……!」


声にならない叫びと一緒に、美咲先輩の胸へ飛び込む。先輩は何も言わず、背中を包み込むように抱きしめて、頭をやさしく撫で続けてくれた。


その温もりにすがりながら、ひたすら泣いた。

涙が落ち着いた頃、先輩と浩平くんがそっと家まで送ってくれた。



***



翌日。私は以前のように、相原さんとは違う路線で出勤することにした。今は相原さんの顔を見たくない。……見られない。


出勤すると、美咲先輩は何も言わず、いつも通りの笑顔で迎えてくれた。


「おはよう!」

「おはようございます……あの、昨日は、その……」


言葉にならずに視線をさまよわせると、先輩は笑みを深めて肩をポンっと叩いた。

何も言わなくても分かってくれている――そう感じられた。



定時後。美咲先輩と会社を出ると、そこには浩平くんがいた。


(美咲先輩を迎えに来たのかな?)


そう思いながら、昨日のお礼を言おうとする。


「浩平くん、昨日は……」


その言葉を遮るように、先輩が口を開いた。


「浩平、じゃあ後はよろしくね」

「おう」

「え?」


何が何だか分からない。


「ひより、今日は浩平が送ってくれるから一緒に帰りな」

「え?」

「じゃあね」


言うだけ言うと、先輩はさっさとどこかへ行ってしまった。どういうことかと浩平くんを見ると、「行こうぜ」と短く促された。分からないまま、ついて行った。


向かうのは、いつもの駅だ。これまで使っていた沿線。相原さんに会ったらどうしよう……。ビクビクしてると、浩平くんが手を繋いで引っ張っていく。


「大丈夫だから」


何が? とも聞けずについて行く。


駅前に着くと、後ろから女性に声をかけられた。


「あら? 桐島さん?」


この声は――。


振り向くと、そこにいたのは田中さんだった。数人の女性と一緒で、その笑顔に居心地の悪さが広がる。今は、この人と話したくない。

私の気持ちを察したのか、浩平くんが「行くぞ」と言って引っ張っていく。


「その方は彼氏?」


足が止まる。田中さんはふふっと笑って、「お似合いね」と言った。


その瞬間、頭がカーッとなった。相原さんを取られたような気持ちと、浩平くんまで侮辱されたような気持ちで、目の前が真っ赤になる。身体が震える。

何か言い返そうと振り返った私より先に、浩平くんが口を開いた。


「うるせぇ、化粧ブス。お前に関係ねぇだろ」


低く鋭いその声に、田中さんたちは一瞬で黙り込む。そのまま浩平くんと離れていくと、後ろでざわつく声がしたが、もう誰も言い返せなかった。



駅前の駐輪場に着くと同時に、浩平くんが悪態をついた。


「何なんだ、あの女! 嫌味ったらしい言い方してきやがって! 俺、ああいう性格ブス、大っ嫌ぇでぇっきれぇ!!」


その声を聞いた瞬間、それまで必死に堪えていたものが溢れ出す。肩が震え、堪えきれずに――


「……ぷっ」

「?」

「……あは、あははははは!!!! もうダメ! ずっと我慢してたけど、浩平くんに言われた後の、あの人たちの顔!! あはははは!!!」


涙混じりの笑いに、浩平くんも拍子抜けしたように肩を落とす。


「あ〜……なんか分かんねぇけど、笑ってくれたならそれで良かった」

「ふふっ、うん! ありがとう! なんかスッキリした!」


昨夜は涙でぐしゃぐしゃだった顔に、ようやく晴れやかな笑みが浮かぶ。その顔を見て、浩平くんがヘルメットを差し出した。


「じゃあ、もっとスッキリする場所行くか!」


そう言うなり自分もヘルメットを被り、バイクに跨る。


「え? え??」


突然のお誘いに戸惑う私に、浩平くんは笑って言った。


「メット、自分で被れるか? ……あー、ちゃんと止めねぇと危ないな」


ごつごつした指先が顎の下に触れて、カチリとベルトを留める。その一瞬の近さに、胸が大きく跳ねた。


(か、顔が近い……!)

「ちゃんと掴まれよ」

(つ、掴まる? どこを!?)


戸惑ってキョロキョロしていると、浩平くんが私の手を取り、自分のお腹に回す。


「ここ」

​(えぇぇ!!! ここここ、これって、抱きついてない???)


心臓の音まで伝わってしまいそうで、息が詰まりそうになる。恋愛経験ゼロで、異性とこんなに密着するなんて初めて――テンパるなっていう方が無理だった。

そんな私の動揺なんてお構いなしに、浩平くんはバイクを走らせ始めた。



陽が落ち始め、昼間とは違う人の賑わいとネオンの明るさを横目に、バイクは走り抜けていく。


(なんか……気持ちいい……)


『バイクに乗るとスカッとするぜ!』

前に浩平くんが言ってた意味が、よく分かった。バイクの振動とエンジン音が心のざわめきを押し流してくれる。


走り続けたバイクが海浜公園に到着した。二人で真っ暗な海とネオンの輝きを無言で眺める。

こうして眺めてると昨日見た出来事は夢だったのでは? と思えてくる。


相原さんがわざわざ私に見せつけるとは、どうしても思えなかった。じゃああれは田中さんの策略? 付き合ってるのにどうしてそこまで……。考えても答えは出ない。


ボーッとしてると、浩平くんが2本の缶を差し出してきた。


「どっちがいい?」


いつの間に買ってきてくれたのだろう。その手にはアイスコーヒーとアイスミルクティがあった。


「ありがとう」


そう言ってミルクティをいただく。


「あ、お金……」

「いいよいいよ、そんなの」


しつこくするのも迷惑かなと思い、改めてお礼を言った。


「ちょっとはスッキリしたか?」


聞かれて頷く。


「うん、ありがとう」

「……どうしたいかも決まった?」


無言で頷く。


「……相原さんに、告白しようと思う」


振られるのは分かってる。だから何度も諦めようとしたけど、できなかった。諦められないのは、きっと、気持ちが中途半端に残ってるからだ。ちゃんと告白して、ちゃんと振られよう。


「そっか……頑張れよ」

「うん!」


励ましてくれる浩平くんに笑顔で答える。


覚悟はできた。私のこの恋心にケリをつける。そう、固く誓った。

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