第7話『気づいてしまった心』-ひよりside-

翌日から私はいつもの通勤電車に乗るのをやめた。四ツ谷駅で降りていたのを、信濃町駅に切り替えることにした。本当なら四ツ谷で降りれば五分で会社に着く。それでも、これからは信濃町から歩く。わざと遠回りして。

そうすれば、相原さんに会うことはないだろうから。


別に、相原さんが私に何かしたわけじゃない。私が何かしたわけでもない。それはちゃんとわかっている。わかっているのに、どうしても彼の顔を見たくなかった。


考えないようにと、仕事には無心で取り組んだ。そのせいか上司に「桐島、最近集中してるじゃないか。すごくいいぞ」と褒められた。でも胸の中はちっとも晴れなかった。


「最近元気がないけど、何かあったの?」


休憩中に美咲先輩に声をかけられた。さすが鋭い先輩。私がいつもと違うことに、すぐ気づいてしまったらしい。


「なんでもないですよ」


愛想笑いで誤魔化す。けれど美咲先輩は、疑うような眼差しで私を見つめていた。

ごめんなさい、先輩。本当は相談したい。でもいまはまだ、その勇気が出せないんです。



***



仕事を終えても、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。

一人になりたくなくて、駅前のアニメイトに足を踏み入れる。いつもなら店内にいるだけでわくわくして楽しくなるのに、今日はまったくそんな気分になれなかった。


あてもなく店内を歩き回る。前から気になっていたゲームソフトが目に入り、思わず手に取ってしまう。


『恋を知らない君へ』


そのタイトルを見た瞬間、相原さんの顔が勝手に浮かんだ。

私のゲームの話を、黙って聞きながらも興味を示してくれたあの時のこと。彼の表情は本当に嬉しそうで、私も胸がいっぱいになった。


――なのに、今は胸が苦しくて、痛くて、どうしていいかわからない。

ゲームソフトを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。


「大丈夫ですか……?」


すぐ隣から声がして、反射的に顔を向ける。見知らぬ女性だった。


「え……?」


「いえ、泣いてるので……」


そう言われて頬に手を当てると、そこは濡れていて温かかった。 いつのまにか涙がこぼれていたらしい。


「すみません、大丈夫です。ありがとうございます……」


恥ずかしさに耐えきれず、慌ててゲームソフトを棚に戻して外に出た。

ゲームソフトを手に取って泣いている女なんて奇妙に違いない。そう思っても、涙は止まらなかった。


そのタイミングで、ポケットに入れていたスマホが鳴った。

ビクッとなる。相原さんだったら、どうしよう……。

恐る恐る画面を見ると、そこに表示されていたのはオタ友のユキの名前だった。少しだけ胸をなでおろす。


「ひより! 大変! 今ひよりの好きキャラのグッズが――」


ユキは興奮した声でまくし立てていたが、私の返事がないことに気づいて途中で言葉を止めた。


「……ひより? もしかして、泣いてる?」


その優しい声が、私の涙腺を一気に崩壊させた。


「……うっ……うわあああああっ!」


駅前なのに、周りの目なんて気にしていられなかった。ただスマホを握りしめ、声をあげて泣き続ける。


もうこれまでみたいに相原さんに会えない。あんなに楽しく話すことも、きっともうできない。……もう、できないんだ。


「ひより? どうしたの? 今どこ?」


心配そうなユキの声が、さらに涙をあふれさせる。


「うぐっ……う、ううぅ……っ」


嗚咽でうまく言葉にならないまま、私はスマホを強く握りしめていた。



***



何も言えずに泣いていると、「ひより!」と呼ぶ声がして顔を上げた。そこには、息を切らして駆けつけてきたユキが立っていた。


「……大丈夫? ここじゃ人目もあるし、落ち着けるとこ行こ」


ユキが来てくれた安心感で、胸の奥がまた熱くなりかけた。でも「人目があるから」という言葉に、はっと我に返る。私は慌てて涙を堪えた。


ユキは何も言わずに私の手を取ると、迷いなく歩き出した。引かれるままについていくと、新宿駅ビル内の個室カフェにたどり着いた。


「で? なんで泣いてたの?」


ユキはまどろっこしいのが嫌いだ。ストレートな問いに、思わず怯んでしまう。


「えっと……」


「ここまできて『なんでもない』は通らないよね?」


押し切られるように、私は観念してこれまでの経緯を話した。ユキは真剣な表情で黙って聞いてくれる。そして私が話し終えると、しみじみとこう言った。


「なるほど……そんなに泣いちゃうくらい、その相原さんって人のことが好きなんだね」


ぽかんとしてしまう。


「え?」


「好きだったんでしょ? だからショックで、胸が痛くて、泣いちゃったんでしょ?」


――好き。

ユキに言われて、初めて気づいた。相原さんから連絡が来ないと不安で、会えないと寂しくて。電車の中で笑ってくれると、ただそれだけで嬉しくて。


――私、相原さんのことが、いつの間にか好きになってたんだ。


その瞬間、失恋も同時に突きつけられたようで、また涙が溢れる。ユキはそっと頭を撫でてくれた。


「今、初めて気づいたの? 自分が彼のこと好きだったことに」


私は声にならず、ただ頷いた。


「ひより、諦めないで。勘違いかもしれないし、直接聞いてみなよ」


背中を押されても、勇気はなかなか出ない。

会っちゃいけないのに、会いたい。矛盾する気持ちに、胸が苦しくてどうしようもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る