第11話 過去との再会
厠の扉を無造作に開け放ち、新左衛門は勢いよく、盛大に済ますと、俄に自分らしさを取り戻した。
あのまま、思慮深くあの若者が動かずにいたら、便意にて、参った。
と口にしたのは間違いなく自分であったろう。1日の長がただ勝敗を分けただけに過ぎぬ。
それよりも、何よりも、恐らくここは会津藩と縁のある道場だ。
あの左目に切っ先を向けた青眼の構えから、被せるように突く流れは、会津藩士の剣筋だ。
張り紙に釣られ、その流れで試合までしてしまったが、これはどうにも自ら死地に飛び込んだのかもしれぬ…。
どうする?このまま逃げるか。試合った相手に礼を述べて立ち去るか。
新左衛門は自問の末、覚悟を決めると、先程とは打って変わって、静かに厠から出てきた。
もと来た道場へと戻ろうとした新左衛門であったが、不意に呼び止めた者があった。
「お主、新左衛門殿ではあるまいか…」新左衛門は驚き、振り返るとそこには会津で見知った顔があった。
「容保様ではありませぬか。」
新左衛門は歴代藩主の毒味役を務める家に生まれ、容保の父・松平容敬の毒味役も務めていた。
当然、若殿である容保の顔もよく知っていた。
だが、なぜここに若殿がいるのか。驚愕と疑念が新左衛門の胸を突く。
容保は穏やかな笑みを浮かべ、新左衛門の動揺を見透かすように静かに言った。
「新左衛門殿、懐かしいな。そなたが江戸にいるとは思わなんだ。」
新左衛門は一瞬、言葉に詰まった。
清見彦左衛門を斬ったこと、それが原因で逐電した身であることを告げるべきか。
だが、容保に累が及ぶことを恐れ、口をつぐんだ。
代わりに、膝をつき、頭を下げて言った。
「若殿、某は会津を離れ、訳あってこの地に身を寄せております。
すでに討手が某を追っておりますゆえ、これ以上若殿にご迷惑をおかけするわけには参りませぬ。
師範の惣太郎殿には無礼を働きますが、このまま立ち去らせていただきます。」
容保は手を上げ、新左衛門を制止しようとした。
「待て、新左衛門殿。そなたの身に何があったのか、話してくれぬか。
そなたは父上の信頼厚き毒味役であった。そなたを疑うつもりはない。」
だが、新左衛門は首を振った。
容保の温かな言葉が、かえって胸を締め付ける。
彦左衛門の死、義高の暗殺計画、姉・志乃の涙――全てを語れば、若殿を危険にさらすやもしれぬ。
「若殿、某のことはお忘れください。生きてお会いできただけで、十分にございます。」
そう言い残すと、新左衛門は容保の制止を振り切り、道場の庭へ飛び出した。
雪の夜に会津を逃げ出したあの時のように、身を低くし、塀を軽やかに跳び越える。
紅葉の葉が舞い散る中、新左衛門の姿は江戸の町に溶けた。
容保はしばしその場に立ち尽くし、新左衛門の背中を見送った。
彼の瞳には、懐かしさと、理解しきれぬ哀しみが宿っていた。
やがて、容保は道場へと戻った。
そこでは、惣太郎が「柿崎源之助」の帰りを待っていた。
惣太郎は容保の姿を見て、軽く会釈した。
「若殿、男と会いはしませんでしたか。 勝負の後、礼を交わしたかったのだが。賞金も持たずに何処へ…」
容保は新左衛門が偽名を使ったことに、何か深い理由があるのだと察した。
名を明かすことなく、穏やかに答えた。
「惣太郎殿、あの男は急ぎの用で去った。教養ある者だったな。
名は…まあ、よかろう。いずれまた会う縁があるかもしれぬ。」
惣太郎は怪訝な顔をしたが、容保の落ち着いた態度に、それ以上は問わなかった。
「そうですか。実に惜しい男でした。あの剣筋、只者ではない。
駕籠かき流などと名乗ったが、どこかで修練を積んだ者に違いありません。」
容保は小さく頷き、心中で新左衛門の無事を祈った。
道場の外では、秋風が紅葉をさらさらと揺らしていた。
その頃、黒崎左京は市中を歩き回り、潔目処新左衛門の行方を追っていた。
清見彦左衛門の書状に記された名を胸に、彼は江戸の隅々まで目を光らせた。
伊庭道場に戻ったのは、新左衛門が塀を跳び越えて消えた後、一刻ほど経ってからのことだった。
左京は惣太郎から「柿崎源之助」という名を聞き、すぐにピンときた。
柿崎源之助――長屋に住む駕籠かきである。
彼は長屋の顔ぶれを理解しており、町人の源之助が惣太郎に勝てるはずがないと確信している。
だが、先日、長屋でトリカブトを巡る騒動で自分を追い詰めた男の姿が脳裏に浮かんだ。
あの鋭い動き、尋常ならざる気配。あの男こそ、新左衛門ではないのか。
左京は腕を組み、眉を寄せ、思案した。
「惣太郎、試合の様子を詳しく話せ。あの男の剣筋、構え、どんな些細なことでも良い。」
惣太郎は記憶をたどり、試合の情景を語った。
「下段に構え、小太刀一本。誘いをかけましたが、心が揺らがず、まるで水面の如き静けさでした。
私の突きを鎬で弾き、喉元に切っ先を突きつけた。あの動き…まるで箸を操るような精密さでした。」
左京の目が鋭く光った。
「箸だと… 二天箸流…潔目処新左衛門だ。」
彼は確信した。町人に化けた新左衛門が、伊庭道場に現れ、惣太郎を破ったのだ。
だが、なぜ偽名を使い、なぜ逃げたのか。
清見彦左衛門の書状が、左京の胸で重みを増す。
左京は小判3両を手にとると、覚悟のまなざしを向け、言った。
「惣太郎、若殿を頼む。私はこれから長屋へ向かう。柿崎源之助…否、新左衛門を探し出す。」
惣太郎は左京の決意を感じ、静かに頷いた。
「左京殿、気をつけて。相手は只者ではない。」
左京は道場の外へ踏み出し、紅葉の散る街道を長屋へと向かった。
秋の夕暮れの風が彼の傷跡を冷たく撫でる。
新左衛門と対峙する時、彼は敵か味方か。清見彦左衛門の意図は何か。全ては長屋で明らかになる。
過去の習性からか、新左衛門は追っ手を警戒しながら市中を駆け抜け、四つ辻の道祖神脇の茂みに身を潜めた。
ひとしきり様子をうかがった後、長屋へと向かった。3両を逃した悔しさよりも、容保との再会が胸を占めていた。
「若殿が江戸にいる…。遠山の目が及ばぬことを祈るのみだ。」
彼の懐には、義高から渡された紙がまだ残っている。
ひぐらしの鳴く夕暮れの記憶が、ふと蘇る。
新左衛門は足を止め、夜空を見上げた。紅葉の葉が舞い、江戸の喧騒が遠く聞こえる。
長屋の灯りが近づく中、新左衛門は新たな試練の足音を感じていた。
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