第10話 武術交流試合
柿崎源之助に代わり、新左衛門が駕籠かきを務めるようになって幾ばくかの月日が流れた。
季節は移ろい、今や街道の木々はその葉を紅く染め上げ、鮮やかなる景色となって目に映る。
源之助の傷も癒え、駕籠かきの代理を全うした新左衛門であったが、
庄屋の証文が未解決のまま残されているため、新左衛門の心は晴れないでいた。
町人として、生活をしながら3両の金を貯める事は難しかった。
駕籠かきという仕事は、天候に大きく左右される。
雨の日には客足が遠のき、安定した収入を得るのは困難だった。
この一見、厳しいような長屋の生活ではあるが、皆が助け合って、難局を乗り越える。
そして、何より、人々の笑顔が絶えない日々に、新左衛門は驚きながらも、静かな幸福を覚えた。
この日、新左衛門は何か日銭が稼げる場所はないかと、市中を探索していた。
会津藩を逐電した身の上であり、会津藩の下屋敷のある三田綱町に足を伸ばさなかった事が幸であったか不幸であったか、
3両、3両…と呟きながら新左衛門は導かれるように江戸下谷の伊庭道場の門前へと歩を進めていた。
門前には、「武術交流試合 賞金3両」と書かれた紙が貼られている。
それは風雨にさらされ、薄汚れていた。
看板には心形刀流の名前。会津藩と関わりのある流派である。
無論、新左衛門もそれを承知だ。
それ故、門前で、どうすべきかを考えていた。
その姿を塀和惣太郎が目にとめた。
「武術交流試合の希望者ですか」その言葉に、不意を突かれ思わず「はい。」と返事をしてしまった。
惣太郎は半ば諦めていただけに、喜び、上客としてもてなすように新左衛門を道場へと導いた。
道場の上座にあたる場所には台盤が据えられ、その上に小判3両がのっている。
その感動もつかの間のこと、朝から歩き通しの新左衛門は、この時、俄に便意をおぼえた。
「私は当道場師範を務めます塀和惣太郎です。勝負は1本。私が相手を務めます。」
名乗られた以上、名乗るのが礼儀。新左衛門は考えた末に、「駕籠かき流、柿崎源之助」と名乗った。
塀和惣太郎は通常の木刀を持ち、新左衛門は小太刀の木刀を手に道場の中央へ立つと互いに一礼した。
惣太郎は青眼に構えた。
新左衛門は並足のまま惣太郎に正対すると、下段に構え小太刀の切っ先を自分の左の膝頭に付けた。
惣太郎は青眼のまま間を詰めるが、相手の心体が揺らがず、そこに在るので、詰めた間を、すかさず退いて元に戻した。
「ふぅ…(全く、心が見えない。これは大物を釣り上げたかもしれない。)」
惣太郎は覚悟を決め、鋭い突きを放った。
新左衛門はそれに合わせて、正対したまま右足を一歩踏み出した。
惣太郎の木刀の切っ先に、新左衛門の喉が吸い付くように近づいてくる。
新左衛門の右足が地に着くと同時に、彼の小太刀が下段から正中を通り、
惣太郎の木刀の鎬を削るように、惣太郎の木刀を正中から反らすと、
新左衛門の小太刀の切っ先は惣太郎の喉元間近でピタリと止まった。
「まいりました。」惣太郎の声が道場に響いた。
つかの間の静寂の後、「しばし…すまぬが厠はどこで…」と新左衛門が口にした。
その思いがけない言葉に、面くらいつつも惣太郎は「前の通路を左に曲がり、離れの方へ向かえばございます。」と答えた。
新左衛門は「かたじけない。」と口にして小走りに通路の奥へ消えていった。
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