第4話 十月一日 日曜日

折り畳み式携帯電話に設定していたアラームが、けたたましくジリリ、ジリリと鳴り響く。日曜の朝。もう少しだけ、まどろみの底で惰眠をむさぼっていたかったが、今日は朝から済ませておきたい用事があった。重たい瞼をこじ開け、私は勢いよく布団を跳ね除けた。

寝癖で髪があちこちにはねたままの姿で、洗面台の鏡を覗き込む。我ながら、ひどい顔だ。もともと寝起きの顔が良い方ではない自覚はあるが、昨夜、夜遅くまで考え事をしていたせいで、心なしか顔全体が腫れぼったく、目元にはうっすらと目ヤニまでついている。

昨夜は、天野先生と駅で別れてから、閉店間際のスーパーで買い物を済ませ、アパートへ帰った。帰宅後すぐに風呂で汗を流して寝間着に着替えたのだが、なかなか寝付けなかったのだ。机に向かい、ノートとペンを広げ、来るべき天文サークルの観測会に備え、ある装置について思案を巡らせていた。旧校舎の踊り場に現れるという、あの正体不明の影を、どうにかして白日の下に引きずり出す手立てはないものか。鈴木君や飯田君の目撃談から推測するに、おそらく夕焼けの光のような、特定の光線条件下で現象が起きやすいのではないか。それを人工的に再現し、影そのものを何らかの方法で物理的に捉えることはできないだろうか。そんなことを考え、自分なりに装置の図案をスケッチしていたのだ。

最終的に思いついたのは、三脚に強力なライトを吊り下げる、という極めて簡素なものだった。これならば、アウトドア用品店かホームセンターを回れば、どうにか材料は揃いそうだ。そんなことをしているうちに、時計の針はとっくに深夜の一時を過ぎていた。

洗面台の蛇口から流れ出る冷たい水で顔を洗い、念入りに歯を磨く。くしで丁寧に髪をとき、いつものように無造作にポニーテールにまとめた。そうこうしているうちに、キッチンの方から、トースターの焼き上がりを告げるチン、という軽快な音が聞こえてきた。

こんがりと焼けたパンにマーガリンを薄く塗り、昨日スーパーで買っておいたカット野菜の袋を開け、個包装のフレンチドレッシングをかけて、冷たい牛乳と共に胃の中へと流し込む。いつもながらの、簡素な朝食だ。

朝食を終えると、寝間着やタオル、布団代わりのタオルケットを洗剤とともに、奮発して買ったドラム式洗濯機に入れてスイッチを押す。

クローゼットから、ふわりとした無地の白い長袖のブラウスと、動きやすいように少しゆったりとしたシルエットの柔らかいデニムのズボンを取り出して身につける。顔には、いつものように薄く少しだけ化粧を施した。

小ぶりのリュックサックに必要なものを詰め込み、履き慣れたスニーカーに足を通して、私はアパートのドアを開けた。

日曜日の朝というのは、平日とはまた違う、どこか穏やかでゆったりとした時間が流れているような気がする。

空は今のところ、すっきりと晴れ渡っているが、昨夜インターネットで確認した天気予報では、降水確率が四十パーセントで、昼過ぎから天候が崩れ、所によっては雷雨になるかもしれないと言っていた。念のため、折り畳み傘もリュックの中に忍ばせてある。

目指すのは、家から自転車で二十分ほどの距離にある、郊外型の大型ショッピングモールだ。そこには、大きなアウトドア用品店とホームセンターが併設されている。

ペダルを漕ぎ、住宅街を抜けてモールに到着すると、日曜ということもあってか、広大な駐車場には既に多くの車が停まっていた。立体駐車場や屋内の駐車スペースの入り口にある案内掲示板には、赤い「満」の文字がいくつも点灯している。

私は自転車を指定の駐輪場に停め、ホームセンターに入った、その時だった。

ゴロゴロという、地鳴りのような低い音が遠くから聞こえてきたかと思うと、次の瞬間、空が白く光り、しばらくしてバリッという、大きな雷鳴が轟いた。そして、それを合図にしたかのように、ザーッという、まるでバケツをひっくり返したような激しい雨音が、ホームセンターの屋根を叩き始めた。

ああ、やっぱり降ってきたか。これでは当分、自転車では帰れそうにないな、と、私は少し憂鬱な気分になりながら、入り口の方へと視線を向けた。その時、自動扉が左右に開き、びしょ濡れになった長身の男性が、慌てた様子で店内へと駆け込んできた。その顔には見覚えがあった。

「あれっ、誰かと思えば、七瀬先生じゃないですか。奇遇ですねえ」

その声に、私は思わず、驚いて少し甲高い声を上げてしまった。

「か、鎌田先生こそ、どうしてそんなにずぶ濡れなんですか」

私がそう声をかけると、鎌田先生は「いやあ、参りましたよ」と苦笑いを浮かべた。

ロックバンドの黒いTシャツにジャージのズボンを身につけているのは、本校で化学を担当している鎌田友樹先生だ。私よりも少し年上で、さわやかな性格と整った顔立ち、すらりとした長身で女子生徒からの人気が特に高く、顧問である彼目当てでアウトドア部に入部する女子生徒がいるとか、バレンタインにはファンレターとチョコレートで彼のデスクに山ができるとか、そんな噂がまことしやかに囁かれている。

「いやぁ、参りましたね。見てくださいよ、この有様。屋外の駐車場しか空いていなくて、そこから走ってきたんですけど、あっという間にこれです」

鎌田先生は、着ているTシャツの裾を軽く絞りながら、ウエストポーチから取り出したハンドタオルで、顔や首筋に浮いた雨粒を乱暴に拭った。その仕草は、どこか体育会系の部活動の顧問らしい、竹を割ったような快活さを感じさせる。

「七瀬先生、聞いてくださいよ。今日は本当に、朝から大変だったんですよ」

鎌田先生は、情けない表情になり、嘆き始めた。

「部活動でね、早朝から近くの河川敷でテントの設営訓練をしていたんです。そうしたらまず、打ち込んでいたテントペグの一本が、根元からぽっきりと折れてしまって。ああ、これは買い出しだなと思っていたら、今度はそのペグが抜けたところからテントの一部が強風でめくれて、あろうことか、近くの木の枝に引っかかってしまったんです。その後、何とか悪戦苦闘してテントを設営し直したんですが、よく見ると、その引っかかった部分に大きな裂け目が見つかりましてね。どうしたものか、と皆で頭を抱えていた、まさにその矢先ですよ、遠くの空に、見るからにやばそうな真っ黒な雷雲が出てきたものですから、これはもういかんと、急遽撤収を決めて、テントの補修用の資材を買いに、こうして慌ててやってきたという次第なんです。それで、ご覧のありさま、というわけです」

その語り口からは、「とほほ」という擬音が、まるで顔全体から滲み出ているかのようだった。

「それは、何とも、大変でしたね」

私は、思わず頷きながら、心からの同情の言葉を漏らした。

「ええ、本当に。して、七瀬先生は、今日は何を買いにこちらへいらしたんですか」

鎌田先生は、他意のない、純粋な好奇心といった表情で、私に尋ねてくる。

「実は、少し実験で使いたい装置がありまして、その材料を求めてやって来ました」

私はそう言いながら、リュックサックから、ノートを取り出し、昨夜遅くまで描いていた手書きの装置の図面を鎌田先生にそっと見せた。

「なるほど」

私が差し出した手書きの簡単な装置図を覗き込み、鎌田先生は腕を組んでしばらく考え込んでいる。その真剣な横顔は、普段の快活な彼とは少し違う、化学教師としての知的な光を宿しているように見えた。ややあって、彼は図面から顔を上げた。

「これは、何かの植物に特定の光を当てて、その成長を観察する実験か何かですか」

「ええ、まあ。そんなところです」

まさか、旧校舎に出るという正体不明の怪異を調べるための装置だとは、口が裂けても言えなかった。曖昧に頷く私に、彼はさらに問いを重ねる。

「七瀬先生、ランタン、特に調光機能まで付いた強力なものですと、先生が想像している以上に重量がありますから。もう少し大きめの三脚が良いと思います」

なるほど。彼の経験からくる的確なアドバイスに、私は感心した。

「もしよろしければ、一緒に売り場を見て回りましょうか」

「ありがとうございます。私、こういう知識が、あまりなくて。お言葉に甘えさせていただきます」

私は、おずおずとそう言った。

「それでは参りましょうか」

鎌田先生は、爽やかな笑顔で私をエスコートしてくれた。

私たちはまず、テープ類のコーナーへ向かった。鎌田先生は慣れた手つきで、防水性と粘着力に優れたテント補修用の分厚いテープを一つ手に取り、私が持つ買い物カゴに入れる。そして釘類のコーナーでは、数種類のテント用のペグを手に取って強度を比べ、丈夫そうな黒い金属製のものをいくつかカゴへ入れ、会計を済ませた。

途中、ランタンやアウトドア用品のコーナーを見て回ったが、目ぼしいものは無かった。

「私の買い物は以上です。七瀬先生の買いたいものは、隣のアウトドア用品店で見繕うのがいいかと思います。まだ、時間はありますので、続きで行きましょう」

「はい」と私はこくりと頷く。

私たちは、ホームセンターからアウトドア用品店に向かった。そこには、眩暈がするほどたくさんの種類のアウトドア用品があった。店の奥にあるランタンコーナーには、デザイン性に富んだおしゃれなものから、いかにも実用重視といった無骨なものまで、大小様々な製品がずらりと並んでいた。どこに注目して選べばよいのか見当もつかず、目が回りそうだ。

「ランタンを選ぶ際のコツですが、まずは電源が何かに注目しましょう。USB給電式は手軽で便利ですが、災害時などに停電が起こると使えなくて困ります。一方、電池式は災害時には強いですが、照明のパワーに比例して必要な電池の本数が多くなり、その分、重くなってしまうという欠点があります。次に、重要なのが調光機能の有無です。光の強さを細かく調整できるものは、様々な状況に対応できますが、その分、値段は高くなる傾向にあります。手元を照らすだけで十分なのであれば、調光機能がない、シンプルなものでもよいでしょう」

なるほど、と私は静かに聞きながら頷く。

「さて、七瀬先生は、どのような性能のものをお求めでしょうか」

まるで、高級ホテルのコンシェルジュのような、丁寧な物腰で、鎌田先生は私に問いかける。

「そうですね。できれば、USB給電式で、調光機能があるものがいいですね」

私も、まるでホテルの宿泊客にでもなったかのような気分で、そう答えた。

「そのご要望でしたら、こちらはいかがでしょうか」

鎌田先生が、棚から手に取ったのは、少し無骨なデザインの、黒い筐体のランタンだった。パッケージの説明書きを見ると、『ハイパワー』『USB給電』『十段階調光』という、頼もしい文字が印字されている。値段を見ると決して安くはないが、なんとか予算内に収まりそうだ。

「はい、それで即決します」

「それと、三脚はこれがお勧めです。女性でも持ち運びがしやすいアルミ製です」

鎌田先生は、ついでに三脚も私に勧めてくれた。

「本当に、ありがとうございます」私はそう言って、そのランタンと三脚を彼から受け取ると、すぐにレジへと向かい、会計を済ませた。


外は雨が降り続いている。

私の買い物は済んだが、雨の中、傘をさして、この大きめの荷物を運びながら自転車を押していくのは大変だ。雨が止むまで、ショッピングモールで足止めか、と思い。ふと、ため息が出る。

「あの、七瀬先生。もしよければ、私の車で学校まで送りましょうか。それ、生物の実験に使う資材でしたよね」

「えっ。そうですけど。鎌田先生、わざわざ、学校まで寄っていただかなくても。それに、ショッピングモールなんで、時間はいくらでもつぶせますし」

私はやんわりと断った。鎌田先生に申し訳なかったからだ。

「気を遣わなくて良いですよ。学校にはアウトドア部の部員たちがテントの修理で残ってくれていますし。顧問として、学校に戻らなくてはならないので」

七人乗りの黒いミニバンの最後部の座席は、大きな荷物も積めるようにと前に倒され、広々とした荷台になっている。そこに、先ほど購入したランタンと三脚を置かせてもらい、助手席に私は腰を下ろす。

外の雨は、先ほどよりは幾分か勢いを弱め、小雨と呼べるくらいにはなっていたが、それでもまだしとしとと降り続いている。ショッピングモールの広い駐輪場で、私の愛車が静かに濡れている光景が目に浮かんだ。

「そういえば、七瀬先生はここまで自転車で来られたんでしたっけ」

不意に、運転席の鎌田先生が、私に声をかけてきた。その絶妙なタイミングに、私は少しだけビクッとする。鎌田先生は、そのまま続ける。

「だいぶ雨も落ち着いてきているようですし、学校で荷物の整理をしたら、またここまで、私の車で自転車を取りに戻りましょう」

「いえ、でも、それは先生のご負担が、あまりにも大きくなりませんか。私は大丈夫です、徒歩で取りに戻りますので」

何から何までお世話になった上に、帰り道の足の手配までしてもらうのは、あまりにも恐縮だった。私は、はっきりとした口調でそう言った。

「七瀬先生、大丈夫ですよ。プランは完璧なんです。まず、これから学校に戻って、今日買った備品を倉庫に収納します。その後、生徒たちは元々学校で解散という予定になっていますから、そこで解散。学校の施錠は、今日、休日出勤されている用務員の佐々木さんにお願いしてあります。そして、このショッピングモール前の道路は、私の自宅への通勤経路でもあるんです。どうです、完璧でしょう」

冗談を交えながらも、まるでパズルを一つ一つ組み立てていくかのような、彼の論理的な説明に、私は返す言葉もなかった。

「そうですか。それでしたら、お言葉に甘えさせていただきます。よろしくお願いします」

私は、ただ深々と頭を下げることしかできなかった。

しとしとと降り続く雨が、車の窓ガラスを静かに叩いている。ワイパーが規則的なリズムを刻む車内は、穏やかな静寂に包まれていた。


車窓の景色は、いつしか見慣れた通学路へと変わり、やがて、雨に濡れた献栄学園の校門の前に、車は静かに停まった。雨脚は、先ほどよりもさらに弱まり、パラパラと音を立てる小雨に変わっている。鎌田先生が車内からインターホンを鳴らすと、しばらくして、守衛室から用務員の佐々木さんが傘を差して小走りにやってきて、慣れた手つきで重たい鉄の門を開けてくれた。

車は、ゆっくりと職員駐車場へ向かい、停車する。車から荷物を降ろし、私達は職員室から、旧校舎の倉庫、生物準備室の鍵を借りた。

「それでは、部員たちの元に行きますか」

私たちはまず、多目的室へと向かった。広い多目的室の床には、先ほどまで河川敷で張られていたという大きなテントが広げられ、部員たちによる破損箇所の確認と点検作業が行われていた。

「テントの補修には、ちょっと時間がかかりそうなので、七瀬先生は、先に自分の荷物を準備室に運んでしまってください。」

私は、鎌田先生の言葉を聞いて、三脚を生物準備室に持っていく。

生物準備室の鍵を開け、三脚を本棚の横の空きスペースにそっと置く。かがんだ時に、足元の棚の奥の方に、一冊の古びたスクラップブックがあるのが見えた。何だろうと思い、私は手に取る。茶色く変色した厚紙の表紙は、その角が擦り切れて丸くなっている。誰が、いつ、何のために作ったものなのか。しかし、今は鎌田先生たちを待たせるわけにはいかない。内容の確認は後回しにして、私はそのスクラップブックを、ひとまず、自分の机の上に置いた。


小走りで多目的室の扉を開けると、ちょうどアウトドア部の生徒たちが、広げられていた大きなテントを畳み、収納袋に押し込んでいるところだった。壁の時計の針は、午後一時を指そうとしている。部屋の隅では、用務員の佐々木さんが脚立に乗り、天井近くにある消防設備の点検作業を黙々と進めていた。

「おお、七瀬先生。ちょうどいいタイミングで戻ってこられましたね」

私の姿に気づいた鎌田先生が、爽やかな笑顔で出迎えてくれる。

「さて、学生諸君は、テントを綺麗に収納し終えたら、本日は解散ということで。親御さんも心配しているだろうから、寄り道などせずに、まっすぐ家に帰るように」

鎌田先生は、よく通る声でアウトドア部の部員たちに呼びかけた。すると、薄いピンクのアウターを着た小柄な女子生徒が、はい、と小さく手を挙げる。確か、二年一組の小鳥遊さんだったと記憶している。休憩時間に友達に勉強を教えているような、そんな面倒見のいい優しい子だ。

「でも、先生。このテント、すごく重たいですけど、先生お一人で倉庫まで持っていくのは大変じゃないですか」

その言葉に、他の部員たちも、こくりと黙って頷く。

「はっはっは、心配ご無用。今日は、ここに強力な助っ人がいるからね。七瀬先生、そして、佐々木さんも。だから、安心して帰り給え」

不意に自分の名前が出てきたことに、脚立の上の佐々木さんが、ぴくりと反応してこちらを見た。その目は、何事かと驚いたように丸くなり、点検していた作業の手が、ぴたりと止まっていた。

「それでは先生、私達はお先に失礼します。今日は、ご指導、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

アウトドア部部長の生徒の掛け声をきっかけに、体育会系の部活動らしい、きびきびとした動作で、部員たちが深々と綺麗なお辞儀をする。それぞれの荷物をまとめ、多目的室から退室していく彼女たちの後ろ姿を、私達は見送った。

生徒たちの姿が見えなくなり、室内に残されたのが職員だけになった途端、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたのかもしれない。ぐぅ、と情けない音が、静まり返った部屋に響き渡った。音の発生源は、言うまでもなく、私の腹の虫だった。まだ、昼食をとっていなかったのだ。

「はは、本当ですね。学生も帰ったことですし、私達も昼食にしましょうか」

鎌田先生のその掛け声に、私は顔を赤らめながらも、こくりと頷いた。一度、職員室へ戻り、自分の机の一番下の引き出しを開ける。そこから取り出したのは、非常食として常備しているカップ麺だ。今日は、スタンダードに醤油の気分だ。引き出しの奥でストックしている割りばしを一膳手に取り、給湯室でポットの熱い湯を、白い線の内側までゆっくりと注いだ。

年頃の娘には似つかわしくない、と言われるかもしれないが、事実、この三分で完成する即席麺は、日々、時間に追われる教職という仕事の、実に強力な助っ人なのだ。

多目的室に戻ると、床の中央には、いつの間にか大きな青いビニールシートが敷かれており、既に、鎌田先生と佐々木さんが、それぞれのお弁当を広げていた。

佐々木さんのお弁当は、いかにも、愛妻弁当といった風情の、彩り豊かなものだった。卵焼き、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう。そして、ご飯の上には、ハート型の真っ赤な人参が、ちょこんと乗せられている。なんだか、見ているこちらまで、ほっこりとするような温かい愛情が感じられるお弁当だ。一方、鎌田先生のお弁当は、実に豪快だった。大きなタッパーウェアの弁当箱に、ラップで一つ一つ握られた、まるで爆弾のような黒いおにぎりが、三つほど、どんと入っているだけだ。

私が、その対照的なお弁当をまじまじと見ていると、鎌田先生が気づいたようだった。

「ああ、これですか。アウトドアの携行食には、これが一番なんですよ。ラップのおかげで、手が汚れませんし、何より、食べた後のゴミが最小限で済みますからね」

なるほど、全てが合理的に考えられているのか。今後、何かの参考にしよう、と私は思った。

三人で、特に言葉を交わすでもなく、静かに昼食をとる。佐々木さんが、気を利かせて、自分の水筒から、来客用の湯呑みに熱い緑茶を注いでくれた。その湯呑みから立ち上る、香ばしい湯気が、部屋の空気を優しく潤していく。

多目的室の大きな窓からは、小雨が降り注ぐ様子が見えた。雨は、一体、いつになったら止むのだろう。穏やかな時間が過ぎていく多目的室で、私は、カップ麺の湯気を浴びながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。


カップ麺の容器や弁当箱を片付けると、私達は早速、テントの収納作業に取り掛かった。床に広げられていた巨大なテントは、既に綺麗に畳まれ、分厚い帆布の収納袋に収められている。私と佐々木さん、そして鎌田先生の三人で、その両端と中央を持った。身長差を考慮して、自然と私が真ん中を持つことになった。

「いきますよ。せーの、いち、に、さんっ」

鎌田先生の張りのある掛け声で、収納袋がずしり、と持ち上がる。想像以上の重量だった。先ほど、小鳥遊さんが、一人で運ぶのは大変ではないかと心配していたが、大人三人がかりでも、かなりの負荷が腕にかかる。この重たい装備を運び、設営し、そして撤収する。アウトドア部の活動というのは、私が想像していたよりもずっと過酷なものらしかった。

三人で力を合わせて、旧校舎の倉庫の前までテントの入っている収納袋を運び、それを床に降ろし、一息つく。鎌田先生が、職員室から借りてきた鍵束の中から、一本の鍵を鍵穴に差し込んだ。ガチャリ、という鈍い音の後、重たい鉄製の扉が静かに内側へと押し開けられる。

パチリ、と壁のスイッチが入れられ、蛍光灯の白い光が灯った瞬間、私は、中の光景を見て、思わず息を呑んだ。

そこは、年季の入った木造の旧校舎には、あまりにも似つかわしくない空間だった。壁も、床も、天井も、全てが無機質なコンクリートの打ちっ放しで、がらんとした広大な空間が広がっている。中には、運動会で使うのであろう白いテントの山や、文化祭で制作されたであろう色鮮やかな看板、そして、『祝・県大会出場』と書かれた大きな弾幕や、『学校見学会 実施中』と書かれたのぼりなど、学園行事に関わる様々な備品が置かれていた。部屋の奥の方には、脚の折れた椅子や、天板に傷のついた古い机など、廃棄を待つばかりの備品も、積み上げられている。

アウトドア部の備品は、倉庫の隅の一角にまとめて置かれているようだった。私達は、そこに、ようやく運び終えたテントの収納袋を、静かに置いた。

ほっと一息ついた、その時。私の頭に、ふと、一つの素朴な、しかし根源的な疑問が湧いた。

「ここは、ずいぶんと綺麗に整備されていて、電気もきちんと通っているようですが。なぜ、わざわざこんな老朽化した旧校舎の一部だけを改修して、倉庫として使っているのでしょうか」

新しい校舎の方にも、空いているスペースは、多目的室のようにいくつかあるはずだ。わざわざ、動線も良いとは言えない、旧校舎の、それもこんな奥まった場所を。

この、一見すると不合理な選択には、何か理由があるはずだ。


私の素朴な疑問に、その場にいた誰もがすぐには答えられず、ひんやりとした倉庫の中に、短い沈黙が落ちた。その静寂を破ったのは、意外にも、これまで黙々と作業を手伝ってくれていた用務員の佐々木さんだった。

「みなさんは、旧校舎の件で、犬飼前校長と今野校長が、対立なさっていたことはご存知ですよね」

その問いかけに、私も鎌田先生も、無言でこくりと頷いた。佐々木さんは、私達の顔を順に見渡し、やがて何か意を決したかのように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「ここから先は、どうか、ご他言なさらないようにお願いします。七瀬先生も、鎌田先生も、良識のある、若い先生方だとお見受けしましたので。犬飼前校長の名誉のために、これだけは知っておいていただきたい。ただ、それだけなんです。教職員の中には、今でも犬飼前校長のことを、不正にまみれた悪徳校長だったなどと吹聴して回る輩もおりますが、長年、あの方にお仕えしてきた私から見れば、あの先生ほど、この学園を守るために、心を砕いてこられたお方はいない。そう思っております」

佐々木さんは、一度言葉を切ると、静かに続けた。

「今、私達がいるこの倉庫ですがね、元々は、応接室と、その奥の校長室だったんです。前校長の犬飼司郎先生が、この旧校舎の、特にこの部屋の造りを大変気に入っていらっしゃいましてね。なんでも、さる海外の著名な建築家が、来日時に手掛けた貴重な仕事の一つなのだそうで。建物全体をきちんと補修して、いずれは文化財として後世に遺していくべきだと、常々、そうおっしゃっておりました。ですが。息子の誠司先生が、応接室と校長室を、勝手に改修してしまわれた。本来、旧校舎の老朽化した部分の補修費用として、学園ではかなりの金額が積み立てられていたのですが、どうやら、そのお金を全てこの工事につぎ込んで、出来上がったのが、この、何の情緒も感じられない、コンクリートの箱だったというわけです。この時の学校側の会計担当と、工事の業者との窓口は、全て誠司先生お一人がなさっていたものですから、実際にどれくらいの金額がこの工事にかかったのか、正確なところを知る者は、誰もいなかったようです。ただ、後になって、こういうリフォームに詳しい専門家の方に、改めてこの部屋を見てもらったところ、実際にかかった予算の半分以下の金額で、十分に施工は可能だっただろう、と。つまり、水増し請求や、粉飾決済の恐れが非常に高い、ということでした。結局、司郎先生は、その全ての責任をご自身で負う、という形で息子の罪を被り、自分が学園のお金を使い込んだということにして、校長の職を辞任されたのです」

佐々木さんは、まるで遠い日の出来事を思い出すかのように、目を細めている。きっと、前校長とは、単なる雇用関係以上の、深い親交があったのだろう。大山先生が、噂として口にしていたお金の不正というのが、ここで、はっきりと線で繋がった。しかし、それでは、水増しされたという、消えたお金は、一体どこへ行ったというのだろう。やはり、あの旧校舎の踊り場の真下にあるという開かずの間に、その真相が隠されているのだろうか。

「司郎先生は、ご子息の誠司先生のことを、いずれは次期校長候補にと、大切に育て上げようとなさっていたようですが、その一方で、私の前では、『あのバカ息子が』と言って、ぼやいておられました。確かに、誠司先生は、教育者としても、研究者としても、大変に優秀で、彼を慕っている生徒も多かったようですが、その裏では、少し素行の悪いところもございましてな。以前、とある女子生徒に、少々度を越したちょっかいを出してしまい、司郎先生が、その女子生徒の保護者の方との間で、示談に持ち込んだ、という話もあったようです。もちろん、この件は公にはされておりませんし、私も詳しいことまでは、存じ上げませんがね」

佐々木さんは、しみじみとそう語った。

「まあ、そんなこんなで、前校長の司郎先生は、本当に、色々とご苦労の多い方だった、というお話です。いけませんな、少し、話し過ぎてしまいましたね」

佐々木さんは、ははは、と力なく笑いながら、髪の少し薄くなった頭を、照れくさそうに掻いた。

佐々木さんの話を聞いて、私の中で、前校長先生に対する印象が、百八十度変わってしまった。彼は、不正にまみれた独裁者などではなく、ただ純粋に、美しい建築物を愛し、それを後世に残したいと願っていた、一人の教育者だったのだ。そして、その反対に、優秀さという光の影に隠されていた、犬飼誠司先生の、もう一つの顔が、ほんの少しだけ、露呈したのだった。


テントを倉庫に収納し終えた私達は、重たい鉄の扉に再び鍵をかけ、旧校舎を後にした。あれほど激しくグラウンドに降り注いでいた雨は、いつの間にかすっかりと止み、厚く垂れ込めていた曇天の隙間からは、頼りないながらも、少しだけ青空が顔を覗かせている。

私と鎌田先生は、多目的室に置いていた自分達の荷物をそれぞれ回収し、部屋の施錠を確認すると、借りていた鍵束を返しに、二人で職員室へと向かった。その道すがら、在りし日の司郎先生と佐々木さんについて思いをはせながら、鎌田先生と雑談をした。職員駐車場に着き、私は背負っていたリュックを下ろし、黒いミニバンの助手席へと乗り込んだ。鎌田先生が静かにエンジンをかけると、車はゆっくりと校門に向かって動き出す。校門の前では、佐々木さんが待ち構えてくれており、私達の車が近づくと、会釈と共に重たい門扉を開けてくれた。

車は、再び、ホームセンターのあるショッピングモールに向けて出発した。しばらく無言で車が走っていたが、やがて鎌田先生が、少し遠慮がちに私に尋ねてきた。

「あの、七瀬先生。少し、眠気覚ましに音楽をかけてもいいですか」

そう言われてみれば、彼は早朝からの部活動と、その後の予期せぬトラブル対応、そして私達の荷物運びまで、ほとんど休みなく動きっぱなしだったはずだ。疲れていないわけがない。

私は、「もちろん、いいですよ」と頷いた。

彼がカーステレオのスイッチに触れると、次の瞬間、車内は、歪んだギターの音と、嵐のように激しいドラム、そして、まるで地面を揺らすかのような重低音のベースがうねりを上げる、凄まじい音響空間へと一変した。そこに、甲高い男性ボーカルのシャウトが絡みつき、エネルギッシュで、どこか焦燥感を煽るようなサウンドがほとばしる。それは、鎌田先生の、普段の爽やかで知的な印象からは、あまりにも程遠い、荒々しく豪快な音楽だった。

「か、鎌田先生。いつも、こういう音楽を聴いていらっしゃるのですか」

私は、驚きのあまり、思わずそう質問してしまっていた。

「ええ。学生時代からずっと好きで聞いているバンドです。ボーカルのエリックの声を聞いていると、何だか、胸が熱くなってくるんですよね」

鎌田先生は、少し照れたように、しかし本当に嬉しそうに話す。

私は、それ以上は何も言わず、ただ静かに、その激しい音楽に耳を傾けた。単なる音の連なりが、なぜ、これほどまでに人の心を打ち、揺さぶるのだろうか。音楽は国境を越えるなどと言うが、あるいは、音そのものに、人間の理性を飛び越えて、本能に直接語りかけるような、未知の働きがあるのかもしれない。

そんなことを考えているうちに、車はショッピングモールの駐車場へと滑り込んでいた。ちょうど、四曲目のイントロが始まったくらいのタイミングだった。

私は、背負っていたリュックを膝の上に置き直し、深く、深く頭を下げた。

「鎌田先生、今日は、何から何まで、本当にありがとうございました」

そう言って私は、購入したランタンを持って、車から降り、鎌田先生を見送る。

一人になった私は、駐輪場へと向かい、自分の愛車がどうなっているかを見に行くと、まだ雨粒をたくさんつけたままで、びしょびしょに濡れていた。ふと腕時計を見ると、時刻は、午後三時を少しだけ回っていた。

お茶をするには、ちょうどいい時間だ。今日は色々なことがありすぎた。雨は、また降るかもしれないが、少しだけ、甘いものでも食べて、頭を整理してから帰ることにしよう。私はショッピングモールのフードコートへと向かって、ゆっくりと歩き出した。

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