第3話 君の隣に、もっと居たい
歩みを止めれば、呼吸の音すら際立ちそうで──
神殿の廊下には、空間ごと封じ込めたような無音の重圧が漂っている。
長い窓から漏れた光が、空中の粒を淡く浮かび上がらせていく。
アリアは足を進めるたびに、誰かの意識がじんわりと肌に触れてくるような感覚を覚えていた。
その理由は掴めない。
ただ人目を引いているだけ──そう思うには、少し違和感がある。
だからせめて人混みに紛れられるようにと、アリアは白いフード付きのマントを羽織るようになった。
細やかな銀色の刺繍が施されたその布地は、ひと目で高価なものだとわかる。
レアルーンが用意してくれたそれを、アリアは「借りる」という形にした。
その布地を肩にかけると、少しだけ──周囲の注目が和らいだような気がした。
図書室の扉を閉めた音が、わずかに軋みを立てて静寂へ溶けた。
誰の気配もないことを確かめてから、アリアはほっと肩の力を抜き、自然にフードへ手を伸ばす。
そのとき、窓ガラスの奥に揺れる白い影が目に留まる。
そこには、白いフードをかぶった自分の姿が、ぼんやりと霞んで映っていた。
(……やっぱり、似合わない)
まるで空気にまぎれてしまいそうな、存在感の薄い少女がそこにいた。
フードを外すと、覆いの隙間から覗いた瞳が、淡い光を帯びて紅く揺れる。
それは、封じられた炎のようにひっそりと、不思議な光を宿していた。
今日読む本を数冊選び、順に机の上へ並べていく。
「身体構造と魔力制御の応用」
「神殿記録における北地区文化」
「対悪魔戦術における禁術史」
「魔道士系譜と称号について」
「薬草相互作用の最新分類」
そして──「星の巡りと愛のかたち」
できるだけ幅広く選んだつもりだ。
アリアは窓際の定位置に腰を下ろす。
よし、と小さく意気込みながら、姿勢を正して一冊を開いた。
紙のめくれる音だけが、かすかに部屋を満たしていく。
その静けさを破るように、背後からふっと風が忍び込みアリアの耳を撫でた。
「やぁ、アリア。今日も可愛いね。
髪の毛も、綺麗で……まるで月の光を閉じ込めた夜の色だ」
振り向かなくても、誰が来たのかはわかる。
レアルーンだ。
彼にとってアリアを褒めることは、もう挨拶のようなものになっていた。
(……また、それ)
アリアは呆れたようにまぶたを閉じた。
繰り返される「可愛い」という言葉。
どうせ誰にでも言ってるんだ――そう思おうとしたのに、
その響きは思った以上に深く刺さってきて、
火照りだけがじんわりと残って、なかなか引いてくれない。
もう、どう返せばいいのか、どう反応すればいいのかもわからない。
ぐるぐると回る思考から逃れるように、とっさに本へ顔を向けて、そこへ意識を逃がした。
嬉しくなんてない……はずなのに。
でも、「嬉しくない」と言い切れない自分が、ずっと引っかかっていて──
それが、なんだか少し悔しかった。
彼だけは、他の誰とも違う。
何をどう受け取ればいいのか。
彼の何を信じて、どこまで踏み込んでいいのか……
戸惑いばかりが募っていく。
読書に集中している“つもり”でも、気づけば彼の存在だけが、どこかから忍び込んでくる。
振り払おうとしても、なぜか意識だけは離れてくれない。
……ここまで来たら降参だ。小さく白旗を上げるように、アリアは挨拶を返した。
「おはようございます」
そう返すだけで精一杯だった。
レアルーンはわずかに顎を傾け、頬を緩める。
まるで、それだけで十分だと言わんばかりに。
「そのマント、よく似合ってたよ。さっき広間で見かけたときも、
すぐに気づいたんだ。名前も呼んだのに……気づかなかった?」
穏やかな言いまわしの中に、どこか拗ねた響きがにじんでいた。
アリアは、動揺を悟られたくなくて、机上の一冊を取った。
紙の影に顔を隠しながら、何を言うべきか必死で探す。
広間では……あんな大勢の前で注目を浴びるなんて無理だった。
だから、レアルーンの声は聞こえなかったことにしたのだ。
アリアはもう、とぼけるしかできなかった。
「……本当ですか? 気が付きませんでした」
「そう?」
レアルーンはふっと笑った。
けれどその笑みのあとで、ふと眉間に小さな皺が寄る。
腑に落ちない――そんな気持ちが、少しだけ滲んでいた。
「大勢の中にいても、僕は君しか見てなかったんだけどな」
「からかってるんですか?」
「本気だよ」
そう言いながら、アリアの隣にある椅子をゆっくりと引いた。
腰を下ろすと、肘を机につき、片手で頬を支える。
「……嬉しいな。君が、僕の贈ったものをちゃんと身につけてくれてるのが」
一瞬、呼吸が止まったような気がした。
含まれた熱に気づいて、アリアの動きがわずかに止まる。
思考が止まりかけて──ようやく、頭の中に否定が浮かぶ。
(あんな高価そうなマント、貰えるわけがないじゃない)
「貸して頂いてるのは、とても感謝しています」
「今度は、お揃いのレースでもあしらってみようか。そしたら次は僕に気がついてくれるかもしれない」
「……いえ、今ので十分です」
アリアはそう言って、椅子から立ち上がった。
ふと気が向いたような仕草で、本棚のほうへ歩き出す。
レアルーンの言葉が、思った以上にじわりと響いていた。
ただ、それを知られたくなくて──少しだけ、間を置きたかった。
棚の前で足を止め、何気なく背表紙に指を滑らせていく。
どれも取る気にはなれず、ただ時間を稼ぐように動かしているだけだった。
(……本当に、調子が狂う)
息を整えるみたいに、ほんの少しだけその場に留まる。
そしてまた、何事もなかったように、彼の隣の席へ戻っていった。
(……でも、ここは私のお気に入りの席だから)
そう胸の中で小さく言い訳しながら腰を下ろす。
すぐ隣からは、何も言わないのに、注がれる無言の圧があった。
再びページを開こうとしながらも、アリアはそっと息をついた。
「お忙しい魔導士様が、こんなところで油を売っていて大丈夫なんですか?」
「まあ……今は、広間で無視された僕の傷心を癒す、ささやかな自己満足タイムってところかな」
(やっぱり……気づいてたんじゃない……)
「……拗ねてるんですか?」
アリアは思わず顔をしかめたが、その反応には少しだけ呆れと、どこか気恥ずかしさが混ざっていた。
「まったく、扱いが冷たいな。これじゃ、もう仕事が手につかなくなりそうだ」
レアルーンは困ったように、軽く片手を上げる。
その指先が、机の縁をリズムよく叩く。
何気ないその動作に、どこか落ち着きのなさがにじんでいた。
続けざまに、少しだけ体をアリアの方へと傾ける。
「しばらくは、邪魔は入らないよ。……だから、少しくらい独占させて?」
レアルーンは椅子の背にもたれかかりながら、ゆっくりとこちらに顔を寄せた。
その横顔は穏やかで、でもどこか子どもみたいに甘えて見えた。
長めの銀髪が、意図せずアリアの頬をくすぐるようにかすめていった。
まるで、レアルーンから借りたマントに縫い込まれた銀糸が、ほどけて流れ出したような淡い輝きだった。
それが、近すぎる距離で視界を奪っていく。
ページをめくるふりをしながら、その指先にはわずかに力が入ってしまう。
文字は何度追っても意味をなさず、同じ行を往復するばかりだった。
感情を知られたくなくて、“いつも通り”を装うのに精一杯だった。
「……仕事してください」
声はかすれ気味で、それでも拒絶しきれない熱がほんの少し残っていた。
レアルーンはその小さな抵抗を楽しそうに見届けて、ふっと微笑む。
それから椅子の背にもたれ、顔を寄せていた距離をゆっくりとほどく。
代わりに、目の前の本を一冊手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
その仕草は内容を読むというより、ただ時間を楽しんでいるように見える。
距離が開いたことで、アリアは肩の力が抜けた。
小さな安堵が胸をよぎり、揺れていた心が静かに物語の世界へ戻っていった。
♦
図書館で過ごしたあの日から、数日が経った。
神殿で過ごす時間は少しずつ増えていったけれど、まだ慣れないことばかりだ。
そんなある日の昼――神殿の食堂は、人の数もまばらで、空いたテーブルには穏やかな静けさが漂っていた。
時おり響く食器の触れ合う音や、誰かが低く交わす会話が、ここに確かに人の営みがあることを感じさせた。
アリアは壁際の席にひとり座り、スプーンを口に運んだ。
本当は図書館だけ使って帰るつもりだったが――ライガたちに何度か誘われるうち、
ここへ足を運ぶのもだんだん自然になっていった。
賑やかな人たちの中にいるのは、まだ少し落ち着かない。
それでも、居心地が悪いわけじゃない。むしろ……なんだか、ちょっと不思議だった。
「ここの味、もう慣れてきたか?」
聞き慣れた声に顔を上げると、ライガがにやりと笑いながら隣に腰を下ろした。
アリアは、少し気恥ずかしそうにうなずく。
「今日のこの煮物、レアルーン様が絶対残すやつですね。最近、ちゃんとご飯も食べてないらしくて」
ジオの軽いぼやきに、アリアは思わず吹き出しそうになった。
慌てて口元を押さえ、周りをきょろきょろと見渡す。
誰にも見られていなかったようで、ほっと胸をなでおろす。
(レアルーン様……まだ、人参、苦手なんだ)
「上官が不在で代理やらされてるんだろ? あいつ、休むって言葉を知らねぇからな」
ライガが苦笑まじりに言うと、ジオはわずかにため息をこぼした。
「……なのに、その忙しい中でもきちんと、アリア様との時間は確保しないと……」
(なんで、そこで私の名前が出るの……)
アリアは少し気まずそうに目を逸らし、意識的に話の流れを変えた。
「ジオ様……少し痩せましたよね。大丈夫ですか?」
ぽつりと尋ねると、ジオは机に突っ伏して肩を落とした。
「アリア様は、やっぱり女神だ……誰も僕の心配なんかしてくれないのに!
さっきだって、レアルーン様は――」
「そんなに元気なら、午後ももっと頑張れそうだな」
背後から落ちるような低い調子が、空気をわずかに冷やした。
振り返ると、いつの間にかレアルーンが立っている。
ジオは「しまった」とでも言いたげに身をすくめた。
まさか本人に聞かれているとは思っていなかったのだろう。
「やぁ、アリア。可愛いアリアに会えなくて、僕の中からアリア成分がどんどん減っていってさ。
もう少しで干からびるところだったよ」
最初はこの浮ついた挨拶に戸惑っていたジオ達も、今ではすっかり“いつものこと”として受け流している。
ただ――アリアだけはまだ慣れない。
口に入れたまま返そうとしてしまい、慌ててナプキンで口元を隠し、飲み込んだ。
「昨日、お茶したばかりですよ?」
レアルーンは持っていたトレーをテーブルの端に静かに置くと、ライガを真っすぐ見据えた。
「ライガ……そこ、退いてくれる?」
穏やかな口調なのに、否応なく従わせる圧が混じっていた。
ライガは目をぱちぱちさせて、頭を掻きながら立ち上がる。
「わ、わかったって……はいはい、どうぞどうぞ」
軽くぼやきながら椅子を引き、席を移る。その背中には、呆れと諦めが色濃くにじんでいた。
「まったく、どんだけアリアの隣が好きなんだか……」
レアルーンは満足げに息をつき、アリアの隣にトレイを移動させた。
「ここ、僕の指定席だから」
さらりと告げられた一言に、アリアは言い返す気になれない。
(――そこまでして、私の隣に座りたかったの?)
少し呆れながらも、腰を下ろした途端、そこはもう“彼の席”になっていた。
身じろぎしても、椅子の背にかかる彼の影は変わらない。
そんなとき、煮込み料理から立ちのぼる湯気に気づいた。
やわらかく広がる香りに、胸の奥でひそかに安堵が芽生えた。
(今日はちゃんと食べるんだ)
その思いを悟られまいと、アリアはそっとスプーンを動かした。
──その瞬間、背筋をかすめるような感覚が走る。
何かに見られている気がして、思わず顔を上げた。
少し離れた席に、フロレットがいる。
治療院の職員らしき人たちと食事をしていたが──ときおり、こちらをうかがっている。
聖女様は、女神のような人だと思っていた。
その印象は、最初に交わした一言であっけなく崩れ去ったのだ。
それ以来、彼女と接点を持つことはなかった。
なのに、ふと顔を上げるたびに、視界の端でフロレットがこちらを捉えていることがあった。
それは、一度や二度ではない。
目が合っても、慌てて逸らすわけでもなく、感情を読ませないまま、じっと見つめられていた。
初めは嫌われているのかと思った。
けれど、その瞳からは、憎しみも嫉妬も感じられない。
ただ──何を思っているのか、最後まで掴めない。
その視線だけが、妙に心に引っかかっていた。
(観察……されてるのかな?)
そう思うのは、きっと考えすぎだ。
それでも──その理由を知る勇気は、まだなくて。
……この日もただやり過ごすしかできなかった。
このときのアリアは知らなかった。
フロレットという存在が、波紋のように──そして確かに、
自分とレアルーンの距離を、少しずつ変えていくことを──
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