第2話 これから少しずつ、君だけに知ってほしい
大きな応接室のテーブルには、豊かな香りの紅茶が並んでいた。
アリアは大きすぎるソファーにちょこんと一人座り、小さく背中を丸める。
場違いなくらい豪奢な調度品に囲まれ、しかも目の前には、街で噂になるほどの人たち。
アリアは気を紛らわせるためカップを持ち上げて、紅茶をひとくち含んだ。
正面に漂う気配は、微動だにせず、その場を支配し続けていた。
その気配の正体は、向かいに座るレアルーンにほかならない。
彼は鼻歌でも歌い出しそうな余裕をまとって、指先でテーブルをとんとんと叩いている。
また応接室の奥では、フロレットが気ままに、レアルーンたちの様子を眺めていた。
「……ふふ、レアルーンって、あんな顔もするのね」
軽やかな笑み、冗談めいた口ぶりの裏に、どこか挑むようなぴりりとした熱を感じた。
「そんなふうに笑うの、初めて見たぜ。別人すぎて……怖ぇって」
ライガは、どこか引き気味な表情を浮かべた。
ジオはそわそわと首を動かしながら、声をひそめるように言う。
「ていうか街で、ライガが“アリアちゃん”って呼んだとき、めっちゃ睨んでましたよ!」
冗談交じりの空気が、ぴたりと止まる。一言で、場の温度が下がった。
「……黙れ。お前ら、いつまでここにいる気だ?」
淡々とした響きだった。
けれど、レアルーンの眼光には、わずかな鋭さが走った。
アリアに向けるときの穏やかな光とは異なる色が宿っていた。
アリアは思った。この人たちは、冗談を言い合って、いろんなものを一緒に超えてきたんだ。
それをただ見ている自分がいる──まるで、物語の中から飛び出してきた
勇者たちの、誰も知らない素顔を覗いてしまったような、そんな特別な景色だった。
「さて――お邪魔虫の私たちは、そろそろ命が欲しいので退散しましょうか」
フロレットはゆるやかに立ち上がり、扉に足を向けた。
すれ違いざま、アリアの耳元にひとことだけ囁く。
「“可愛い”って言われたくらいで、いい気にならないでね? ……じゃないと、奪われちゃうかもよ?」
「……フロレット。余計なことはするな」
レアルーンの声には、淡々とした響きの中に、明確な警告が滲んでいた。
(聖女様って……女神みたいな人だと思ってたのに)
アリアは、微笑んでみたつもりだったけれど──それが本当に笑えていたのか、自信はなかった。
「……冗談、ですよね?」
けれどフロレットは振り返らず、「さぁ?」と言いたげに肩をすくめてみせた。
悪戯っぽい笑みを背中に滲ませながら、軽やかにその場をあとにした。
ジオとライガが後に続こうとしたところで、ライガが急に振り返る。
「えっと……その、フロレットが余計なこと言ってごめんね、アリアちゃん」
頬をかくような仕草に、気まずさがにじんでいる。
それでも、ちゃんと彼の本心から出たものだった。
「アリア、気にすることないよ。フロレットは、ああいう人だから」
レアルーンはきっぱりと言い切った。
それ以上、気にする必要なんてないとでも言うような、揺るぎない口調だった。
アリアはうなずこうとして──けれど、それ以上は何も返せなかった。
そっと口元に手を添えたその仕草には、ほんの少しの戸惑いと、どこか引っかかるものが混じっていた。
そんな彼女に向かって、ジオが勢いよく頷いてみせた。
「僕もそう思ってるよ」と全力で伝えるように、頭を上下に激しく動かしながら。
そして、ライガと並んで扉の外へと出ていった。
──応接室に、ふたりっきりになる。
直前の慌ただしさが嘘のように、その場には、ひときわ静かな緊張が漂っていた。
高く伸びた天井の下、神の象徴を模した装飾や深紅の絨毯、
重厚な木のテーブルが整然と並び、場に静謐な気配を添えていた。
アリアは椅子の上で膝を寄せ、小さく身じろぎながら姿勢を整えた。
ひとつ息を吐いてから、意を決して顔を上げる。
そこにあったのは、透き通るような青。
真正面から向けられる視線に、たじろぎそうになる。
それでも逃げずに、自分の意思で向き合った。
ちゃんと、答えが欲しくて――。
「……本当に、レアなの?」
思ったよりも声は小さくなったけれど、それでもレアルーンには届いたようだった。
彼はふっと目じりをゆるめ、仲間たちの前では見せないような、やわらかな笑みを滲ませた。
もしかして、思い違いかもしれない。そう言い聞かせても――
それがずっと、自分にだけ向けられていたような気がして、
知らないところから体温が上がっていくのを感じてしまった。
「そうだよ。レアだ。僕は、ずっと……君に会いたかった」
さっきまでのよそよそしさは消え、彼本来の声音がにじみ出ていた。
アリアに向けたそれは、わずかに掠れていて──頼りなげで、どこか寂しげだった。
「……そのブレスレット、まだ持っててくれてたんだね」
アリアは、手首に巻かれたそれに触れた。
冷たいはずの鎖が、指先を通してわずかに熱を返すような気がした。
その感触に、遠い日の匂いや夕暮れの色がふっと重なっていく。
(――小さかった、“レア”)
並んで立ったとき、自分より少し背の低いその頭に、風が通り抜けたことを思い出す。
「僕ね、アリアを守れるくらい、強くなる。だから……」
拙いながらも、まっすぐに届けようとする気持ちが、はっきりと伝わってくる。
差し出された手は小さくて、握られていたブレスレットも、それに似合うくらい控えめだった。
銀の髪は肩にかかるほどの長さで、動くたびに風を受けるようにやわらかくなびいていた。
泣きそうにふくらんだ頬も、大きな目元も――その全部が幼さにあふれていて。
だから疑うこともなく、女の子だと思っていた。
そして、あまりに可愛くて――抱きしめたくなるほどだった。
「これは、おまもり。僕と、アリアの約束」
“レア”は、少したどたどしい動きで、それを巻いてくれた。
どこかぎこちなくて、不器用な手つきだったのに──そのひとつひとつが、丁寧で。
結ばれた銀の鎖は、ほんの少し不揃いで、自分には少し大きかった。
けれど、なんだかその不格好さが、あの頃の“レア”らしい気がした。
笑顔なのに、今にも泣き出しそうな顔で「大人になったら、迎えに来る」って。
今もアリアの手首に巻かれたまま、あのときの小さな体も、言葉も、想いも――全部が、そこに詰まっている気がした。
そういえば、あの時レアはどこへ行ったんだっけ。
強すぎる魔力を抑えるため、自ら神殿へ向かったのだった。
銀の髪と、青い瞳――それだけで、ただ者ではないと感じさせるものがあった。
――そして今、あの人はすぐ近くにいて、
滅多に見かけない銀の髪と青い光を宿したその姿に、自然と心が揺れた。
仕草の端々に、あの子の面影がにじむ気がしてならなかった。
彼はブレスレットのこともちゃんと知っていた。
嘘をついているようには、どうしても思えなかった。
「……このブレスレット、お守りみたいなものなの。つけてると――なんとなく、いいことが起こる気がして」
「僕は……あのとき、本気だった。冗談じゃない。君と、将来を約束したくて渡した」
「……そんなの、子どもの頃の話でしょ」
レアルーンは一度だけ息を整えると、テーブルを回ってアリアの足元へと歩を進めた。
裾の長い神殿の装束が、床の上にふわりと広がる。
彼はそのまま膝をつき、小さな赤い箱を取り出す。
「……ずっと、これを渡すつもりだった。
さっき街で会ったときは、ちょうど持ってなかったんだ」
蓋が開かれると、青い宝石をあしらった指輪が姿を現す。
透き通るような艶をまとい、そこにあるだけで息を呑むほど美しく、銀の台座がその形を引き立てていた。
アリアの体が、わずかに強ばる。
彼は本気だ。
こんなふうに差し出されてしまったら――
これが冗談なんかじゃないって、嫌でも伝わってくる。
レアルーンはまぶたを伏せ、ほんの少しだけ表情を和らげた。
そして、静かに口を開く。
「僕、アリアを守れるくらい強くなった。――迎えに来たよ」
昔と同じような言葉。けれどもう“大人の姿”で、彼はその箱をアリアの前に、迷いなく差し出した。
「アリア、結婚してくれ」
アリアは、思わず自分の膝の上に目を落とした。
これまで幾度となく読んできた物語――
突然のプロポーズに胸をときめかせる場面は、決まってそこにあったのに。
いざ現実にそれが起きた瞬間、どうしていいかわからなくなるなんて、思ってもみなかった。
一生かかっても手にできそうにないほど高価なそれが、今、すぐそばにある。
アリアは拳を握りしめ、気づけば、手のひらに爪を立てていた。
「……急に、そんなの……ごめんなさい……」
だって、ずっと“女の子”だと思っていた。
笑えばすぐに頬を赤らめて、拗ねると唇を尖らせて――
ただただ、可愛らしい子だったはずなのに。
その子は今、自分よりも背が高くて、手も大きくて、声も落ち着いている。
見つめ返したその目は、幼い頃にはなかった熱を帯びていて――思わず、息を詰めた。
それが本当に、あの“レア”だなんて――どうしても、素直には受け止めきれなかった。
彼はこの街を代表する神殿の魔導士で、誰からも慕われている。
今、自分のいちばん脆い場所を、彼に覗かれたような気がした。
そこは、守るように隠して生きてきた。
誰にも踏み込ませたことなんて、なかった。
アリアは袖の中に手を隠し、ブレスレットを握りしめた。
ひんやりとした鎖の感触が、じわじわと手のひらに馴染んでいく。
その冷たさが、まぎれもない“現実”の感触だった。
――本気で、子どもの頃の約束を守ろうとしてるんだ。
そう思うだけで、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
まっすぐすぎて、逃げ出したくなるほどだった。
でも。
今だけは、ちゃんと向き合わなきゃって思った。
「……モテるでしょ、あなただって。私なんて……可愛いなんて、言われたことないし……」
思わず出たのは、街で見た“誰からも好かれる彼”の姿と──
自分には向けられたことのない好意への、ささやかな本音だった。
彼が求める答えになっていないことは、わかってた。
でも、いまの自分には──それが精一杯だった。
レアルーンはわずかに俯き、赤い箱をポケットの中へ収めた。
その仕草には、感情も表情も乗っていない。
ただ、静かな動きだけがあった。
ひと呼吸分の沈黙。
鐘の音が消えたあとの、余韻のような静けさが広がっていく。
そして彼は、ゆっくりと顔を上げた。
さっきまでの重みが嘘のように、何事もなかったかのような穏やかさだけが、そこにあった。
「僕は、ずっと言いたかったよ。アリアは可愛いって」
そのひと言に、アリアの肩が小さく縮こまる。
照れ隠しのように背を丸めると、頬がほんのりと色づいた。
本気にしちゃいけない。
そう思っているのに、心の奥がゆるんでしまいそうで――
その“糸”を切るように、アリアは口を開いた。
「レア……ルーン様は……本当に立派な魔導士になったんですね」
声は落ち着いていたけれど、その内側ではまだ、どこか焦るような気持ちがくすぶっていた。
「アリア、あの頃みたいに、“レア”って呼んでほしい」
「……無理です。……レアルーン様、で」
「進歩だね。アリアに“様”って呼ばれるなんて、新鮮」
「……からかわないでください」
少し拗ねたように、言い返してしまう。
けれどそのやりとりは、思いがけずあの頃をなぞるようで、どこか張りつめていた雰囲気が、少しだけやわらいだ。
アリアは、自分でも気づかぬうちに表情をゆるめていた。
棚に目をやると、見慣れない分厚い本が何冊も並んでいた。
「……ここの本、知らないものばかり」
「君、本好きだったよね。変わらないんだね」
「……読むのは、好き。けど、最近は……」
「よかったら、またここに読みにおいで。神殿には図書館もあるし、君と一緒にお茶する時間、増えると嬉しい」
レアルーンは少し身を乗り出し、照れたように、続けた。
「……できれば、毎日。ここで君とお茶を飲んで、いろんな話がしたい」
アリアは一瞬きょとんとして、それから首をかしげる。
「……毎日?」
「うん。……結婚は、まだちょっと急すぎるよね。だから……せめて、もっと僕のことを知っていってほしい」
その響きには、想像以上の真剣さと、不器用なほど切実な想いが込められていた。
――アリアの中で、答えはまだ形になっていなかった。
それでも応接室の奥に並ぶ本棚の背表紙たちが、どうしようもなく魅力的すぎて、
本の中を想像しただけで――内側がふわりと温かくなる。
(……もしかしたら、なにかヒントが見つかるかもしれない)
それがずるいと思っても、自分はやっぱり――
彼の真剣な想いに、応えられるような気がしなかった。
「……でも、なんだか……」
続きを飲み込むように、唇を閉じた。
「……私だけ、こんなにのんびりしてて、いいのかなって……」
ぽつりとこぼすと、レアルーンは静かに首を横に振った。
「そう思うなら、ここで好きなだけ本を読んでくれたらいい。君にとって、それがいちばん大事なことなら」
「……でも、何か手伝いたい。少しでも……役に立てること、あるなら」
レアルーンは「そーだな」と呟き、腕を組んだ。
顎に手を添え、どこか企んでいるような仕草を見せた。
「……じゃあ、僕の秘書になる?」
「それは無理です」
思わずぴしゃりと即答してしまう。
レアルーンがふっと笑った気がして、その空気がわずかにやわらいだ。
「でも……図書館関係の仕事なら。整理とか、書き写すとか。そういうのなら、私にも……」
「いいね。それなら、君にしかできない仕事をお願いできるかもしれない」
その響きを受けて、アリアはゆっくり頷く。
視界の端、本棚に並ぶ背表紙が、小さな光を帯びたように映った。
まるで、“その先に進め”と導かれているようで、自然と歩み寄りたくなる。
胸の奥でくすぶっていた小さな願い。
アリアは壊れものみたいに、丁寧に抱きとめた。
その瞳の変化に気づいたようで、レアルーンはごく自然に口を開く。
「……図書館に案内するよ。気に入ってもらえるといいんだけど」
そのまま奥へと歩き出す背中に、どこか懐かしい感覚が重なった。
──その瞬間、アリアの足が動いていた。
扉の向こうへ進む彼を追いかけるように、小さな足音が続いた。
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