閑話「母のいない朝、五つの目覚まし時計」
ぴぴぴ、ぴぴぴ――
「……うっさい……」
長女・咲良(さくら)は、うつ伏せのままスマホのアラームを止めた。
時計を見ると、朝の6時45分。いつもなら、台所からお味噌汁の匂いがしてくる時間。
でも、今日はしない。
いや、昨日も、その前も、もう何日も、していない。
「……夢じゃ、なかったんだ」
リビングのテーブルには、いつも通り並べられた5つの椅子。
だけど、そのうちの一つ――一番奥にいつも座っていた人が、いない。
母、春子が“いなくなってから”、今日でちょうど一週間だった。
◇ ◇ ◇
あの日、咲良は仕事の合間にかかってきた一本の電話で、すべてが変わった。
「……え? 事故……ですか……?」
鉄骨の落下事故。
目撃者はいたが、遺体は見つかっていないという。
血痕や、母の持っていた買い物袋、スマホだけが見つかった。
警察は「即死だった可能性が高い」と言ったけれど、咲良はまだどこか信じられなかった。
母は、いなくなった。
でも、「死んだ」とは、まだ言われていない。
それが、余計に辛かった。
◇ ◇ ◇
「……お姉、朝飯は?」
リビングに入ってきたのは、次男・蓮(れん)。
高校二年生。最近、反抗期を抜けたばかり。
あの母がいなくなってから、誰よりも無口になった。
「冷凍ご飯、チンして。あと味噌汁は……インスタント」
「……マジか……」
「言っとくけど、私も今日仕事あるから。あんたの弁当は……作れない」
「わかってるよ。別に期待してねーし」
どちらも、少し棘のある声。
でも、それはお互いの余裕のなさが、にじみ出ただけだった。
そこへ、三男・陽太(ようた)がランドセルを背負って登場した。
「お姉ー、お味噌汁に“ちっちゃい豆腐”入ってないよ~」
「あれはね、インスタントだから無理なの」
「えぇ~、ママのは入ってたじゃん~」
「ママはプロだからね……」
そう言って、咲良は無理に笑った。
陽太は、まだ小学校三年生。母の不在を“実感”してるのかどうか、いまいち分からない。
でも、子どもなりに――ちゃんと、気づいているのだろう。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
三女・琴音(ことね)が高校から帰宅した。中学では演劇部、高校では帰宅部を貫く自由人。
「ただいま~。あれ? 今日は何食べる日?」
「……なんでもいい日」
「ふーん、じゃあコンビニ?」
「もう全部コンビニでいい気がしてきたよね、マジで」
妹の何気ない一言に、咲良の胸の奥がキリリと痛んだ。
母がいたころは、毎晩のご飯はきっちり手作り。
曜日でだいたい献立が決まってて、火曜は鶏の照り焼き、水曜は麻婆豆腐、金曜はカレー。
「味は家庭的だけど飽きない」って、友達に言われたことがある。
当たり前だったあの味が、今は遠い。
すると、リビングの端でスマホをいじっていた陽太が、ぽつりとつぶやいた。
「お母さん……いま、どこかでご飯作ってる気がする」
全員が、ぴたりと動きを止めた。
「へ?」
「なんとなく……そんな気がするだけ。なんかさ、朝からずっと、いい匂いがしてる気がして……」
「幻覚じゃね? お前、腹減ってんじゃね?」
蓮が笑い飛ばす。でも、どこか照れ隠しっぽい。
「……陽太は、そう思うんだ」
「うん」
咲良は、そっと陽太の頭を撫でた。
ああ、こういうとき――
本当は、私じゃなくて、母がしてあげるべきなんだよな。
でも、もう……いない。
その夜。
夕飯はコンビニじゃなく、咲良がキッチンに立った。
調味料の位置も、炊飯器の使い方も、全部、母が決めていた場所。
そこに手を伸ばすたびに、春子の手の温もりを思い出す。
「……うーん、ママの味には、やっぱ勝てないなあ」
自分で作った卵焼きに、ひとりで苦笑する。
でも、家族みんなで同じ食卓を囲む時間は、
少しだけ――前に進めた気がした。
◇ ◇ ◇
夜、咲良はベッドに寝転んで、天井を見つめた。
スマホの写真フォルダには、母の写真がたくさんある。
料理の写真、家族で旅行に行ったときの写真、末っ子が七五三のときの写真。
その中の一枚。
「今日の夕飯、肉じゃが♡」というコメント付きの、よくある晩ごはん写真。
それを眺めながら、咲良はぽつりとつぶやいた。
「……もし、生まれ変わってたとしたらさ」
「どこかでまた、誰かのご飯、作ってるのかな」
画面の中で笑う母の顔は、いつも通り優しかった。
そのころ、異世界では――
「よーし、今夜は肉じゃがで決まり!」
春子ことハルリエッタが、フライパン片手にテンション高く叫んでいた。
――きっとどこかで、ご飯を作ってる。
それは、確かな気がした。
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