王命だからって私の苦しみや悲しみを正当化する理由にならない

夢花音

第1話

ガンガンと頭が割れそうな頭痛に顔を歪め、思わずこめかみをもみほぐす。長い金髪が指に絡み、それを振り払った。(ん? 金髪? なんで?) 頭の中に浮かぶいくつもの疑問符。(まてまてまて。私は土日の休みにやっと、大好きなweb小説を読み漁ってたはず……)


記憶はそこで途切れている。


頭痛はさらに激しさを増した。


そのとき、扉が乱暴に開かれ、誰かが断りもなく入ってきた。ニヤついた男が彼女を下卑た目で見下ろす。まだベッドの中で寝姿のままなのだ。


「起きられないなら、手伝ってやろうか?」


相変わらずのいやらしい笑みを浮かべたまま、男は彼女の体を舐め回すように見まわした。アグネシアは、あまりのおぞましさに思わず身を震わせる。男はその反応を「怯えている」と勘違いし、声をあげて笑った。


その瞬間——。


怒りで頭に血がのぼる。プチン、と何かが切れる音がしたかと思うと、前世の記憶が一気に押し寄せた。


——そうだ。私は日本で死んで、この世界に転生したのだ。


アグネシアは重く息を吐き、ぐっと天井を睨み上げると、思わず叫んだ。


「約束が違うじゃん! 神様!」


「え?」一瞬、頭の中がフリーズした。


(いやいや、待て? 私は転生したんだよね? その時……あー神様。神様に会ったんだ!)


あの時――――


『申し訳ない! 人まちがいであなたの生命の花を刈り取ってしまった。』


と謝られた。結局は私は死んでしまったが、親も既に鬼籍に入り天涯孤独の身の上。たいした能力もなく、しがないパート勤めで未練もない。


お詫びの転生を快く受け取って、チート? 能力魔法をふんだんに貰った。チートといっても攻撃とか戦闘力とかとは違う。しがないパート勤めのおばさんに戦うなんて無理!


だから、貰ったチートは【どんな時でも、どんな場所でも、どんな状況でも生きていける魔法。錬金魔法と生存魔法。】


例えば何処ともわからない森に置き去りにされても【錬金魔法と生存魔法】を使うと、何をどうすればいいのか、まず何をするのか何が必要か? を魔法が教えてくれて、それを成し遂げるための新たな魔法を発動。


なければオリジナルで魔法を作ってくれると言う優れもの。


当然攻撃魔法はないが、魔物や盗賊やらに襲われた時には防御魔法が発動。私を守るためなら力加減はしないので、結果的に倒してしまう。などなど、とても便利な魔法を授かった事を今更に思い出した。


この屋敷に嫁いで2年。客間を追い出されて屋敷の端の薄暗い物置部屋に押し込められた。


嫌がらせなのか食事もままならない日々。全てを思い出した今、このままトンズラ……いえ出奔しても良かったのだが、この【錬金魔法と生存魔法】をより使いこなす為には、まだ物置部屋にいた方が便利だと思い直した。


とにかく、今はこの気持ちの悪い下衆野郎をゲフンゲフン……礼儀知らずの馬鹿をどうにかしよう。


「ケッ! クソ野郎が!」


と私が一言呟くと、理解できなかった男は目をパチクリしている。相手にせずに生存魔法で目隠しをして結界を張り、男を部屋から弾き飛ばした。


何か騒いでいる様だが遮音もしてあるので聞こえない。ほったらかしてそのままドアを閉めた。


今から2年前にジルベール・カーマイン侯爵からの熱いプロポーズで私は妻となったはずだった。


しかし、式が終わる間もなく、彼は王太子に呼び出され、そのまま王宮から2年間、一度も屋敷に帰らなかった。確か、その頃に王太子は自分の恋人を王宮に住まわせたはずだ。それも全く妙な話だ。王太子が恋人だと言っているのは、しがない子爵令嬢である。


子爵令嬢が王太子の恋人となるのも、王宮に住むのもありえないのだ。ましてや、王太子にはれっきとした婚約者がいる。それなのに、あっさりと王宮に住んでしまっている。そして、最初は強く咎めていた貴族たちも、いつの間にか何も言わなくなってしまったのだ。


式の直後にジルベールを呼び出したのも、子爵令嬢が絡んでいるとアグネシアは考えていた



アグネシアは2年間、何度も何度も手紙を書いて戻ってきて欲しい、話をしたいと訴えたが、一度も返事が無かった。


そんな私を使用人たちも敬う筈もなく、ないがしろにされ暴力まで受けていた。


冷たい水や熱いお茶を頭からかけられ、手の甲には薄ら火傷の跡まで残ってしまった。


雨の日の事である。叱責をした私を外に追い出し締め切られて屋敷へ入る事も出来ず、そのまま倒れてほっとかれて、気がついてから朦朧となりながらも物置部屋に戻り死の境を彷徨ったこともあった。


そんな生活に耐えきれず、王宮に直談判をしに半日歩いて向かっても、取り次いでもらえず伝言さえ届けてもらえなかった。


嫁いできた頃に紹介された家令はとても真面目そうな寡黙な人だったが、私が客間から追い出された時にはこの屋敷の家令が変わっていた。


家令が変わってから使用人達が私を蔑み嫌がらせや暴力、更には下衆な目で見てくるようになった。


中にはあからさまに、「夫に相手にされない可哀想な女だから自分が慰めてやろう」と言う使用人もいた。夜忍び込もうとする使用人も居てまともに眠れない日もあった。


限界だと思った。


実家に帰ることも出来ない。そもそも、実家がしっかりとしていればこんな長い間ほっとかれる事はなかったのだ。


実家でも私は邪魔者扱いだった。


母と父は政略結婚。私を産んで亡くなった母。その後再婚した父と義母に疎まれていた。


物置部屋の冷たい床にすわりながら、アグネシアはひとつ、大きく息を吐いた。昨日もまた、食事はろくに与えられず、残飯だけが皿に乗せられていた。けれど、もう慣れた。

 そっと右手をのばし、空間に指先で輪を描く。「コップ一杯の水」と小声で呟けば、淡い光の粒が舞いながら、コップになみなみと澄んだ一杯の水が現れる。アグネシアは小さく微笑み、その水で喉の渇きを潤した。

 「次は……お風呂、かな。」

 壊れかけの棚の奥に手を伸ばすふりをして、【錬金魔法】で浴槽とふかふかのバスタオルを作り出す。外からは見えないように、部屋ごと【生存魔法】で目隠しし、薄い結界で覆った。

 手のひらをお湯につければ、好きな温度に調整でき、甘いハーブの香りもふわりと立ちのぼる。肩までお湯に沈みながら、小さな満足をかみしめた。

 食事は屋敷の者が持ってくるものを、もう拒否することにした。どうせ、食べられるものなど無いのだ。床の片隅に自分だけの小さな魔法菜園を設け、トマトやハーブを摘み取り、錬金魔法でパンやチーズも作る。コップに注いだミルクも、魔法の仕業。誰も知らない、誰も気づかない。だから、誰の干渉も受けることなく生活できる――アグネシアはそう思いながら、静かに食事を終えた。

夜になると、物置部屋の天窓(これは後から魔法で開けたものだ)に星明かりが差し込み、柔らかな光がベッド――ふかふかの羽根布団と大きなクッションも、もちろん魔法で整えたもの――を照らす。窓際には、錬金魔法で作った小さな花瓶。野の花が一輪、揺れていた。

 眠る前、心細さが押し寄せる。けれど【生存魔法】が部屋全体に結界を張り巡らせ、不安を追い払うメロディを静かに流してくれる。その音色に包まれて、アグネシアは「明日こそは、もう少し上手く魔法を使いこなそう」と心に決めるのだった。


翌朝、物置部屋を出る。廊下に出た瞬間、例の執拗な視線――家令や数人の使用人たちだと、すぐわかる。そのたびごとに透明の防壁をまとい、視線と悪意を何も感じないふりでかわしていく。

彼らがわずかに戸惑う様子を、アグネシアは音もなく観察していた。

手荒な仕草でメイドが、無言で突き飛ばしてきても、今はすり抜けるように衝撃を受け流し、アグネシアにかすり傷ひとつ負わせることはできない。密かに防御魔法に守られているからだが、屋敷の誰も気づかないままだった。


冷たい蔑みの日々の中で、誰にも負けない強さを身につけていく自分に、アグネシアは心の底で密かな誇りを抱くのだった——。


何者にも邪魔されない、自分だけの世界。

残飯だけの食事は、アグネシアが手を出さなくなってから、いつのまにか届かなくなっていた。もちろん、新たな食事もない。物置部屋には誰も入ってこない。


それも、アグネシアのオリジナル魔法無干渉によるものだった。

屋敷の者たちは、誰ひとりとして物置部屋に入れないという事実に気づいていない。だが、アグネシアもこのままで良いとは思っていなかった。


前世の記憶を取り戻した今、使用人たちや、夫である侯爵の態度が許されるものではないと、強く思ったのだ。特に、使用人たちのアグネシアを侮る態度は、絶対に看過できない。


「……許さないわ」

地を這うような低い声で、アグネシアはつぶやいた。


まずは、王宮を《様子見魔法》で覗きに行くことにした。

すべての元凶は王宮にある——アグネシアはそう確信していた。


アグネシアは魔法で物置部屋から気配を隠し、王宮の奥深くを覗き込む。

この「様子見魔法」は、結界があっても、その結界をまるで透明ガラスのように見通すことができるのだ。


息を潜め、結界越しに王宮の大広間を見つめていると、見慣れない女が中央に座していた。

艶やかな髪、妖艶な微笑——間違いない、子爵令嬢だ。

その周囲には、王太子や側近たちが侍り、無心に仕えている様子が滑稽なほどだった。


(どうして……? ジルベール……)


しかし、じっと観察を続けるうちに、アグネシアはある違和感に気付いた。

王太子とジルベールだけが、子爵令嬢に一切視線を向けていないのだ。

周囲が彼女に夢中で傅く中、二人は静かに状況を監視し、ときおり目配せを交わしている。

アグネシアの心がざわついた。


——この場に漂う魔力。これは⁉︎


正体は、強力な魅了の魔道具から流れる魔力。アグネシアの魔法の知識が、瞬時にそれを見抜いた。


そして、魅了の魔力が広がる瞬間、王宮の結界に浮かび上がる王家の紋章!

記録している? 王家の紋章を使える者は、王しかいない。


これほどの結界、……ジルベールが戻らぬ理由も、そして何事があっても沈黙している現状。すべては“王命”ゆえ——そう、間違いない……!


そして、断片的な情報がつながっていく。

王宮の権力者たちが次々と王太子の即位を推進し、国王と王妃はほとんど姿を見せない。

侯爵家の家令がいつの間にか交代し、使用人たちが下卑た様子を見せるようになった時期と、王宮の異変は奇妙に一致していた。


(そういうことだったのね……まさか……本当に、敵国の手先だったなんて)


子爵令嬢の家には、かねてより敵国とのつながりが噂されていた。

でも、まさか令嬢がスパイだったとは思ってもみなかった。いや、子爵令嬢だけではこれはどの事は行えないだろう。


令嬢が持っている魅了の魔道具ひとつにしても、普通には手に入らない代物である。

それに、ジルベールの屋敷に干渉できる金と力は、並大抵ではない。


子爵令嬢は、王太子の側近全員を魔道具で操っていた——。


アグネシアは、背筋が凍るような感覚に襲われた。


けれど、ひとつだけ救いがあった。

王太子には、幼いころに授けられた特別な魔法があったのだ。


『絶対防壁』——いかなる魔術も、精神干渉も通じない。

そのため、王太子は操られていないはずである。


そしてジルベール。彼もまた、なぜかその魔道具の影響を受けなかった。


そのため、王太子はわずかに残った忠実な側近であるジルベールを呼び寄せ、密かに国王の密命を託した。


「敵の企みが白日のもとにさらされるまで、敵に従うふりをして実態を暴き、国に潜むスパイを一網打尽にせよ」と。


そして、ジルベールには一切の私的接触や手紙のやり取りも禁じられた。

少しでも外部の者と通じたと悟られれば、己ばかりか、王太子、王家全体が危うくなる——そんな危険な任務だったのだ。


さらに、子爵令嬢の独占欲は激しかった。

新婚であるジルベールを妻から引き離し、自分の傍に置こうとした。

だが、肝心なところで“最後の一線”を越えることができないことに苛立ち、ジルベールに対しても執拗に「一切の連絡を絶つように」と強いていた。


そして、自らの手下を家令として送り込み、アグネシア自身も汚そうと目論んだ。

その結果、アグネシアの元には何の音沙汰も届かず——あらぬ噂だけが屋敷中を駆け巡ることとなったのである。


「真実を知れば……私は、あなたを―――許せないわね。はぁ?何ふざけた事してるの」


アグネシアの胸に黒く煮えたぎった思いが込み上げる。自分をほったらかしにしていた馬鹿な男に対する嘲りと怒りだった。


「王命だからと言って何でも許されると思うな!」


アグネシアは鋭い目で闇夜に向かって叫んだ。その声は静かな物置部屋の壁に響き渡る。


「今まで私が受けてきた仕打ちは、誤解や偶然の産物じゃない。冷たい仕打ち、無視、嘲笑、暴力……全てが計画された策略の一部だったとしても、だからといって私の痛みや孤独が帳消しになるわけじゃない。」


彼女の胸の内は沸点に達し、怒りが燃え上がった。数年間放置され、嘲られ、辱められた日々は決して忘れられない。たとえ国の未来を守るための苦渋の選択でも、アグネシアには断固として譲れないものがあった。


「ジルベール……あなたが王命に縛られても、私の心が置き去りにされる理由にはならない。私がどんなに苦しくても、助けを求めても、それさえあなた達は無視した。置き去りにされ初夜さえも無かった名ばかりの妻が周りからどの様に扱われるかさえも考えなかった。

ジルベール、あなたにとって私は何だったの?」


一目惚れだの、運命の相手だの――そんな甘い言葉を口にしておきながら、

あなたは2年間、私を一度も見に来なかった。

手紙ひとつ、視線ひとつ、くれなかった。


王命だからって、何でも許されると思ったの?

“分かってもらえるはず”だなんて、それはただの傲慢よ。


私は、あなたの王命の下で、打たれ、飢え、蔑まれていたの。

……それでもあなたは、何もしなかった。


それでもあなたが私を愛していると言うのなら――そんな愛、いらない。

 

「あなたは行動自体を制限されてはいなかった!その証拠にあの子爵令嬢の為に城下に買い物に行くこともあったと聞いてる。屋敷に立ち寄り言葉は無くともそれとなく気遣うことぐらいは出来たのではないか?家令が変わった事も知らなかったのかもしれない。」


拳を握りしめながら、彼女は自分自身に誓った。「このまま不当な扱いを受け続けたり、利用されたり、見捨てられたりしない。私にはもう、錬金魔法と生存魔法があるんだから。」


ゆっくりと開いた瞳には、これから始まる戦いの覚悟が宿っていた。かつての依存や悲しみは断ち切り、これからは己の力で、この屋敷で、そして王宮で渦巻く謀略と闘うのだ。国を守るため?私の苦しみや悲しみは仕方が無い事なの?私が辛いと弱音を吐く事は国の大事には足枷にしかならなかったの?

 「私を傷つけ、その犠牲の上で正義を掲げる全ての者たちに――今度は、私の裁きを与える番よ。」

それは復讐の宣言であり、強き令嬢の第一歩だった。アグネシアは静かに立ち上がり、窓の外に広がる薄明かりを見据えた。新たな物語は、今ここから始まる――。


 まずはこの屋敷の現状を全て記録しなければならない。

 アグネシアは小さく息を整えると、手元に呼び出した【記録魔法】の術式を指先に描き、空中に淡く光る魔法ノートを展開した。そのページには、魔法で可視化された映像と、彼女の言葉が自動で文字として刻まれていく。


「記録開始。屋敷内の構造、使用人の配置、交わされた言葉、目線、態度……全て残す」


 先ほどの食事、つまり“与えられなかった食事”。日々押し込まれる残飯と、床に撒かれた水。手荒な命令口調、あざ笑うような視線――そういった全てが、魔法によって鮮明に再現され、記録ノートに蓄積されていった。


 (証拠は必要。感情だけでは、世界は変えられない)


 アグネシアは瞳を細め、魔法の記録媒体を次々と空間に展開していく。使用人が彼女に対して投げかけた侮辱の言葉、門前払いされた王宮での様子、子爵令嬢の魔力に包まれた王太子たちの姿までも――。

1日だけでは証拠としては弱い。更に1年掛けて屋敷の証拠を記録した。例え、愛されない妻ではあっても正式に公爵家に嫁に来た妻である。使用人ごときが蔑ろして良い存在ではない。ましてや使用人は平民でアグネシアは貴族である。不敬罪で極刑になってもおかしくは無いのだ。それを完全にアグネシアを舐めきっていた。それもこれも元を正せば、ジルベールのせいなのだ。


 そして、ジルベールと結婚して3年目。その全てが揃ったとき、ようやくアグネシアは手を止めた。自分の中の、怒りと悲しみの濁流が、今や冷たい刃となって沈殿しているのを感じる。


 「よし……これで、言い逃れはさせない」

教会に3年間の白い結婚の事実を訴えて認められ離婚の申し立てをしたのだ。そしてその時にジルベールが屋敷に一度も帰らないので申し立ての書類は王宮に届けてほしいと伝える事も忘れなかった。


「もう書類は届いたかしら?」


そう呟いた次の瞬間――


 ドンッ! と扉が勢いよく叩き開けられた。


「アグネシア! 私と離婚したいと申し立てていると言うのは本当なのか⁈大体何故、こんなところにいるのだ!」


 響き渡る怒声とともに現れたのは、夫――なのかもわからないがジルベール・カーマイン侯爵だった。


 その顔には焦燥と困惑、そしてどこかに滲む動揺が混ざっている。彼の黒髪は乱れ、深紅の瞳がアグネシアをまっすぐに見据えていた。


 だがアグネシアは、その姿を見ても微動だにしなかった。ただ静かに魔法ノートを閉じ、結界の隙間から彼を見つめ返す。ジルベールは戸惑い理解できないでいる。

何故妻はこんな物置部屋にいるのだ?

何故こんなにみすぼらしいのだ?

何故、部屋に入れないのだ?結界?

魔法を使える者などやたらにいないはずだ!妻は使えると言うのか?

何故離婚なのだ?何故何故何故ばかりで全く状況が理解出来ないジルベール。家令もいつの間に身も知らない者に変わっていた。何が起こっているのだ?

とりあえず、アグネシアと話をすればわかるはずだ。何か誤解しているのかもしれない。とジルベールは話をしようとアグネシアに声をかけた。


「アグネシア……話を聞いてくれ。中に入れてくれないか?何故こんなところにいるのだ?全ては王命で――」


「――黙れ。」


その一言が、空気を凍らせた。


「今さら何を話すっていうの?あなたは私に今まで何も説明してくれなかったわ。だから私が独自に調べた。全部わかっているわ。それで?

 “王命だったから”? “仕方なかった”って? 

……ふざけるのもいい加減にして。」


ジルベールが言葉を失ったその瞬間、アグネシアは一歩、彼に踏み込んだ。

その目は、氷のように冷たく、火のように燃えていた。


「あなたが私を“妻”にしたその日から、

私は三年間、ずっと屋敷の物置部屋でゴミのように扱われたわ。

冷たい水を頭から浴びせられて、熱湯をかけられ火傷を負い、寒い雨の日に追い出されて、門を閉ざされ、風邪をこじらせて本気で死ぬところだった。」


「……っ」


アグネシアは記録魔法を煤けた部屋の壁に映し出した。


「見るといいわ。あなたの妻の生活を!食事は残飯。食べられたらマシ。飢えて、何度も意識を失いかけた。

痩せて、髪も肌もボロボロになった。それでも私は、あなたの帰りを信じて待った。

王宮に手紙を出し続けた。何十通も。直接行ったことだってあるのよ。

ボロをまとって、ふらふらになりながら、門前に立ったの。けれど誰も、あなたも、出てこなかった。」


アグネシアは歯を食いしばり、声を震わせながらも、決して泣かなかった。

涙を流すほどの情は、もう彼には残っていなかった。


「そして、この屋敷では――私は、貞操の危機にまで晒された。

“旦那に抱かれてないなら、俺が慰めてやる”と、使用人に笑いながら言われたのよ。

夜忍び込む使用人も居たわ。

……誰も、止めなかった。だって、侯爵様が“愛してない妻”を三年も放っておいたんだもの。

当然だって、皆が思ってたわ。

それが、あなたが私に残した“立場”だったのよ。ジルベール・カーマイン侯爵」


映し出される使用人たちの主人に対する態度とも思えない行動の数々に、ジルベールの顔から血の気が引いていく。

だが、アグネシアの言葉は、そこでは終わらない。


「私は、あなたの“沈黙”で何もかもを失った。

愛も、信頼も、尊厳も、命さえも危ぶまれた。それでも、あなたは“王命だったから”って言えば許されるとでも思ってるの?

全部終われば、説明すれば、謝れば――“分かってくれる”って?」


 彼女の声が、嗤うように低くなる。


「……都合良すぎて、吐き気がするわ。」


「アグネシア、それは……俺だって、辛――」


「辛い?」


その瞬間、アグネシアの怒りが頂点を超えた。


「あなたの“辛さ”は、誰にも命を狙われず、飢えず、汚されず、安全な場所で“黙っているだけ”の辛さでしょう?

それと引き換えに、私は生きていく為に必死だったのよ。

ただ生きるために、毎日戦ってたの。ねぇ?私が死んでしまってもあなたは王命だからしかたがないと言うのかしらね?」


 沈黙。ジルベールは、もう何も言えなかった。


「――あなたが私を守っていたんじゃない。

“自分が正しいと思いたかっただけ”なのよ。」


アグネシアは振り返る。背を向けるその姿に、哀れみも憐れみも、何一つない。


「私はもう、あなたの妻じゃない。違うわね、初めから妻では無かったわ。」


 「何故私と結婚したの?あなたが私を妻にしなければ私はこんな思いをすることはなかったのよ!私は“あなたの正義”に押し潰された被害者よ。」


 「そしてこれから、私はその正義の後始末をしてあげる。あなたが壊したものの責任を取らないなら――私がすべて裁く。それから当然、この記録は貴族院にも送ったわ。この屋敷の使用人を全て罪人として捕らえてもらうためにね。私は斬首を望むわ」


その言葉を最後に、アグネシアはゆっくりと歩き去っていった。

彼女の背中は、何よりも気高く、そして――誰にも、もう届かない場所にあった。


廊下の床が、氷のように冷たかった。

膝をついたジルベールの指先が震え続けている。


耳の奥に、アグネシアの声がこびりついて離れない。


『冷たい水を頭から浴びせられたり暑いお茶をかけられて火傷もした』

『食事は残飯。飢えて、意識を失いかけた』

『屋敷を追い出されて、門を閉ざされ、ずぶ濡れのまま風邪を拗らせ倒れ死にかけた』

『使用人に“慰めてやる”と囁かれ襲われかけた。誰も止めなかった』

『――それが、あなたの“妻”の三年間だったのよ』


胸の奥が、締めつけられる。呼吸ができない。

 いや、違う――これは壊れているのだ。心が。


(俺は……三年間も……)


 アグネシアを“見殺し”にしていた。


 いや、もっと悪い。見殺しですらない。最初から“視界にすら入れていなかった”。


(言葉も、手紙も、伝言も、ひとつも送らずに……それでも、彼女は俺を信じていた?)


記録映像のアグネシアの姿が思い浮かぶ。

あの細い体。虚ろな目。魔法で身を守り、作り出した生活。

誰にも頼れず、笑われ、辱められ、それでも誰にも助けを求められず――


(……俺のせいで)


 喉が裂けそうだ。心臓が破裂しそうだ。


 “俺のせいで、彼女は人間としての尊厳を奪われた”――


血の気が引き、眩暈がした。

手をついても、指先に力が入らない。地面に這いつくばったまま、ジルベールは呻いた。


「俺は……」


(夫だった? いや、彼女の言う通りだ。俺も夫では無かった。)


 アグネシアの“地獄”の三年間は、自分の沈黙が作った拷問器具だった。そして――自分が妻としたからだ。

彼女を閉じ込めた檻は、自分の“正しさ”の形をしていた。


そして彼女が、「初めから妻じゃなかった」と言ったとき――

ジルベールの世界が壊れた。


彼女を愛していた。心から妻に望んだ事はけして偽りでは無いのだ。なのに……なぜこうなった?


何をしても、もう戻れない。彼女の苦しみは消えない。


 “後悔する”ことすら、彼には許されていないのかもしれない。


(謝りたくても、もう遅い。信頼も、愛も、何もかも……壊してしまった)


王命があったから? そんなものは、ただの言い訳だった。

アグネシアを想っていた? ならばなぜ、行動ひとつ起こせなかった?アグネシアの言葉が頭の中でこだまする。

「私が死んでしまってもあなたは王命だからしかたがないと言うのかしらね?」


 彼女の苦しみと自分の“使命”を天秤にかけて――

 彼は迷いなく、“結婚したばかりで何もわからない彼女を切り捨てた”のだ。いずれは理解してくれるだろうと安易に思って。


気づいた時には、涙さえ出なかった。

自分が流すべき涙の“権利”すら、もうどこにも残っていなかった。



「……神よ、俺に罰を与えてくれ。

正義の名の下で、最も愛した人間を、俺は地獄に落としたんだ……」


 ジルベールのその声は、誰にも届かなかった。

 彼はもはや、王の側近でも、侯爵でもない。

 ただ一人、贖罪も許されぬ男――壊れた男として、己の地獄に沈んでいた。



屋敷の使用人たちは突然のジルベールの帰還に戸惑っていた。ジルベールに妻はどこだ?と聞かれ一瞬考えた。妻とは?そしてジルベールが怒りを含ませた声でアグネシアはどこだと叫んだ声で皆はハッと気がついた。そうだ彼女はジルベール様の奥様で貴族なのだと。今まで何をしていた?何故、あの様な事を続けていたのだ?使用人たちは全員が青くなった。逃げ出そうとする者も居たが何故か屋敷からは出る事は出来なかった。家令も逃げ出そうとした1人だった。その家令に使用人たちが初めて違和感を感じた。前の家令はいつやめたのだ?何故、見も知らぬ者が家令になっているのか?使用人たちと家令の間に冷たい空気が流れた。



家令のハリスは焦っていた。何故ジルベールが戻ってきたのだ?王宮で魅了に囚われているはずだ。予想もしていなかったジルベールの行動に危機感を覚え撤退を決めたのだ。

しかし、空間移動の魔道具が動かなかった。それだけでは無い。誰1人としてこの屋敷から逃げ出す事は出来なかったのだ――

まるで、この屋敷そのものが、彼女の意志に呑まれているかのように。



空気が冷たく研ぎ澄まされた刃のように尖っていた。音も、光も、ひとつ残らず。扉は開いているのに、どこにも通じていない。


「もう……俺たちは終わりだ」

誰かがそう呟いた。誰の声かは分からない。


それが何の終わりか、誰もわからなかった。

ただ一つ、誰もが確かに感じていたのは自分達に訪れる破滅。


剣呑な目で見も知らぬ家令を睨みつける使用人たち――そしてそんな使用人たちを馬鹿にするように見渡す家令。

すぐそこにまで貴族院の命を受けた兵士たちが迫っていた。


アグネシアの“これから物語が、今ようやく始まったのだ”

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