13
漸之助は紛れもなく黛西寺の跡取りであったが、真面目な男ではなかった。
とてもではないが親しくはなれないだろうと、初めて会った時には思ったものだった。
一方の條謙は、東北の小さな貧乏寺の跡継ぎで、人生において己の為すべき本分をよく理解していた。
縁があり、幼くして黛西寺に修行に出された。そこで仏法の研究と拳法の稽古に打ち込み、立場に相応の人間性を養って故郷へ帰り、生涯を全うする。己の命はそのために使うものだと、幼くして彼は心得ていた。
勤勉な精神に見合うように、彼の肉体は頑健であった。厳しい稽古にもよく励んで、條厳にも目を掛けられる弟子に育った。
そんな條謙が寝食を共にしていた漸之助は、とにかくいかに修行を怠けるかに青春の全てを懸けていた。
大量の漫画雑誌やアダルトビデオをどこかからまとめて仕入れてきては若弟子たちを相手に貸本屋を始めてみたり、「苦しみを自らの手で積み重ねて己の心と対峙する、是即ち仏道修行者の本懐である」と声高に宣いながら流行のゲーム機を本堂に導入する運動を起こしたり、延々とそんなことばかり繰り返していた。
容貌もどこか庇護欲をかき立てる垂れ目の美少年で、女遊びで折檻を受けたのも一度や二度ではなかったはずだ。
十代も終わりに差し掛かった頃だったか、夜、條謙は漸之助を外に連れ出したことがあった。それもきっと夏だった。
お前はどうしてそうなのだ、と。
酒だか煙草だか女だか博打だか、きっかけはもう思い出せない。彼の素行には、怒られる筋合いばかりがあった。何かトラブルがあった日の夜に、條謙は漸之助と腹を割って話したかったのだ。
説教がしたいというわけでもない。
ただ、何がそんなに不満なのかと。俺が力になれることならなりたい、同じ釜の飯を食っている兄弟も同然の仲ではないかと。
そう語りかけた條謙に、漸之助は不満を顔に出すことすらせず薄く笑った。
『お前さ、僕に物語を求めるなよ』
剃られたての頭が、月を映して見えていたのは覚えている。
『尊敬する親父の息子の僕がこんなんだってことに、お前が、自分で整理をつけられてないだけだろ。それを僕のせいにするな。僕が何かを抱えているに決まっていると、他人の内側を決めつけるな』
その畳み掛けるような言葉は、普段の明るくおどけた漸之助の姿からは全く想像できなかった。
『僕に事情なんかないよ。ただこういう人間だってだけだ』
『……』
『みんながお前みたいには、なれないんだぜ。お前に、僕に近付いてくれだなんて、僕が願いもしないようにね』
『近付こう』
條謙の即答に、背中を向けていた漸之助が、目を瞠って振り返った。
『俺にはお前がわからない。だが、日夜すぐ傍で共に生きる人間を知ることすら諦めるなら、仏の道を探る俺たちの修行にもう意味などなくなるだろう』
それから数年。
漸之助は、くだらないことを思いついた時、ひとりで勝手に進めるのではなく事前に條謙に話すようになった。
條謙はその都度止めようとしては、止められたことなど一度もないのだった。
ただ一度、漸之助が意味のわからない量の日本酒を買い込んできたことがあった。その時だけは條謙も何も聞いていなかったので、叱ろうにもさすがに言葉が出てこず、口をあんぐり開けたまま馬鹿のように固まっていた。
その酒をなみなみ注いだ猪口を、條謙は、ほんのひと口だけとぶつくさ言いながら漸之助の手から受け取って、飲んだ。
條謙に酒を飲ませて話したいことがあるのだろうと、察しがついたからだった。
町に朝日奈釉子が来て、漸之助は、上の空でいることが増えた。
月の出ていない夜空の下で、その答え合わせをした。
『仏門に身を置きながら言うことではないが――俺は、どこか嬉しくもある心地だよ』
見下ろす町は光が乏しい。田舎の夜は早いのだ。
点々としているうちのどれかは、朝日奈釉子が灯したものなのだろう。
『漸、お前にも、本気になれるものがあったんだな』
『ふざけんな。またお前、僕を物語にしようとしやがって』
酒が進んで、漸之助の頬には紅がさしていた。
『いつだって本気で生きてらい。僕は』
『羨ましいな。俺もそうありたいよ』
漸之助と釉子であれば、実際、似合いの夫婦になるかもしれないと。
條謙は、そう思っていた。
そう、思おうとしていた。
「何故、條漸を殺した?」
境内で、本堂へ続く石畳の道の上で、條謙は朝日奈釉子に問うた。
「黛西寺流の遣い手だから?」
「……質問を変える。何故、條漸からだったんだ」
釉子が、黛西寺流を憎む理由を――彼女の出自を、條謙は知らない。ただ、想像できる彼女の立場に歩み寄ったとして。
「あいつが何かしたのか。……いや、女を襲うような男ではなかった」
大師範の條厳すら、拳の届く距離で指導に立っていた。より強い弟子もより弱い弟子もいくらでもいる。黛西寺流を崩すなら、最初が條漸――漸之助である必要など、皆無であるはずだ。
黛西寺流を象徴するのに、最も相応しくないような男なのだ。
「あいつは――お前を、本気で愛していたはずなんだ」
幾度も、幾度も、悔やみながら巻き藁を突いた。
何故、漸が惚れたのは、あの女だったのだ。
何故、この大馬鹿者は己を殺して、あの女に現を抜かす漸の背中を押すようなことを言ったのだ。
「……だから、なんだけれどね」
釉子は長い息をして、髪を掻き上げた。
「あんなに純粋な子が、余計なことを知らなくて済むように」
漸之助は、小僧たちなどに比べればよほど女慣れしていたはずなのだが、それでもあの夜、釉子を見かけて呼び止めた彼の声は、愛おしいほどに上擦っていた。
その言葉を、熱を帯びた視線を、断ち切るようにかぶりを振って、あの夜、釉子は指を二本折り曲げて、漸之助の腹に押し当てた。
腹筋が思っていたよりもずっと堅くて、腹違いの弟は、誰にも見せない顔で意外ときちんと稽古に励んでいたのだろうと、釉子にはわかった。
「って言ったら、きみは納得する?」
「……確かにな。詮無きことか」
條謙は顔を上げる。
夏の陽射しの下で、久しぶりすぎて強張っている笑みの形を取った口元に覗いた歯が、あまりに白く光った。
彼の青春が、その時、やっと終わったのかもしれなかった。
「来い! 朝日奈釉子! 黛西寺流、早乙女謙志郎【さおとめけんしろう】が参るぞ!」
「ええ、その意気や良し! 応とも!」
條謙と釉子は、同時に地を蹴った。
互いに必殺の手。合う。弾く。繰り返す二、三。
蝉の声だけが永遠のように響き続けるこの山寺で、條厳に叩き込まれた無数の型を、他ならぬ彼の大僧正の血に人生を狂わされた男と女が、何度も何度も交わし合った。
当然、純粋な筋力では條謙の鋼の肉体が勝る。それを、釉子は技量と加速する思考、さらに加えてとびきりの執念で巻き返して、ふたりの力は完全に拮抗していた。
千日手のような応酬がしばらく続いた。互いに、瞬きの間ほども手を休めることなく型を打ち続けた。その三十秒は、三千年のようでもあった。
釉子は何度も『眉墨殺し』を繋げようと試みたが、その悉くを條謙が打ち墜として阻止した。あまりに強く噛み締めた奥歯が微かに欠けたらしく、釉子の口の奥で砂利を噛んだような感触があった。
條謙の左拳を、右の手の平で受けた。すぐさま、どっしりと落ちた重心による体の捻りを使って、右の拳が飛んでくる。
それを、釉子は弾かなかった。何をも恐れることなく一歩踏み出し、若く猛々しい修行僧の懐に迫った。
條謙は忽ちにして、この絶頂の時間の終わりを悟った。
――すまんな、漸。仇は討てなかった。
――だが、今更やっと、お前の背中に触れたよ。
――お前は、空も飛べそうなこんな自由の中にずっといたいと、そう思って生きていたのだな。
釉子の発した勁が、腹に押し当てられた指関節で炸裂した。
たった一手、友の肉体を蹂躙した手である『帷子揺し』を、條謙はついに防ぎ損ねた。
どこからともなくこみ上げる血の塊が口からぼとぼとと零れる。男は膝をついて目を閉じた。それからゆっくりと、玉砂利の上に倒れ伏した。
「……」
言葉は既に、拳の形で十分に交わした。朝日奈釉子は、友の待つところへ旅立った男に黙礼をすると、しずしずと本堂へ向かった。
程なくして、大きな音が山を微かに振動させ、木々の枝から鳥が飛び立っていった。
本堂を出て山を下り、何事もなかったかのようにバイクに跨って町を去った朝日奈釉子は、夕食に山盛りのシーザーサラダとラザニアを食べ、コンビニでライターを買って、そのまま東京へ向かった。
町の人々は、警戒令を受けて部屋の中に篭っていたので、しばらくは誰も、黛西寺が燃えていることに気付かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます