天拳
穏座 水際
1
半夏生の頃だった。
早朝、珍しいほどにすきっと張り詰めた冷気が一帯に降りている。空には煙のような雲がひとつふたつ流れているばかりで、昼過ぎにはまた次第に暑くなるであろうことを予感させた。
日本海に面した、小さく寂れた町である。県庁のある地方都市へ出るのにすら、鉄道を二回とバスを一回乗り継がなければならない。かと言って過疎の村として話題に挙がり面白がった観光客や移住者がやって来るでもない、ただただ時代に取り残されてゆっくりと終わっていくだけの町であった。
町議選の看板には老人の笑顔ばかりが並び、自販機は錆びついて中の見本が褪色していた。
がらがらの駐車場の入り口脇に植えられ数本が高く突き出ているのは恐らく向日葵だが、まだ開花を待つ日々にあって青々と見えている。
もとより活気があるわけではない町だが、その日はまるで誰も彼もが密やかに息絶えたかのように静まり返っていた。
町に、天狗が出る――
山から追いやった大天狗・弓塚山旭天坊【ゆみづかやまきょくてんぼう】を、黛西寺【たいさいじ】の勇敢なお坊さんたちが退治する――
そんな噂を、どれだけの人がまともに信じていただろうか。
それはともかく、黛西寺住職・條厳【じょうがん】の提案を聞き入れる形で、町会が住民に外出を控えるよう呼び掛けていた。
きっと熊でも出たんだろう、と老人は言った。
指名手配犯かテロリストが潜伏しているんだ、と学生は言った。
そして誰もが、修行僧たちに任せておけば安心だろうと、その点だけは疑わなかった。
錆びたトタンの海沿いで、風だけが音もなく遊んでいる。
梢【こずえ】は、ひとりでそこにいた。
分厚いレンズ越しに、神経質そうな一重瞼の目はぎょろぎょろと律儀に周囲を見張っている。脂っ気のやや多い黒髪は焦げ茶色のゴムで雑にひとつに結ばれ、前髪の間に覗く額にはぷつぷつと赤いにきびが浮いていた。
いつも通りの野暮ったい制服姿で、海から吹く強い風に、苛立たしげに顔を顰める。
彼女は、この町に何が迫っているのか――本当のことを知っている数少ないひとりであって、それ故にこそ、張り詰めたその空気をどこか他人事のように感じていた。
――あの優しかった朝日奈釉子【あさひなゆうこ】が人を殺したとは、とても信じられなかったから。
「梢」
作務衣姿の青年が、通りの向こうから声をかけてきた。
「異状ないか」
テレビで持て囃されるような一線級のアスリートを思わせる精悍な顔立ちだが、剃髪している。條謙【じょうけん】は若手の修行僧たちをまとめ、稽古を取り仕切る頭役であった。
「……はい」
「そうか。……保竹【やすたけ】先生たちがじき到着するらしい。山門の方へ、お前もお迎えに上がってくれるか」
「……わかりました」
梢は頷き、ぼそぼそと乾いてひび割れた唇の中で言葉を返す。
唇を結んだ條謙の作務衣の袖から、よく張って血管の浮いた筋肉が見える。
條謙のことは、割と苦手な方だった。中学生の身で、それも女子でありながら稽古に交じる梢に対して、彼は何かと気を配っていた。梢のような気性の人間には、それが有難くも煩わしいのだ。
「……あの」
ごつごつしたコンクリートの階段を登り、ガードレールの内側から、梢は振り返った。
「……見回りは、大丈夫ですか……」
「ああ。案ずるな、俺がひとりで見ておく」
小さく頷いた條謙は、朝の陽が湿ったアスファルトに落とすまだ薄い影を、静かに見下ろしていた。
親友であった條漸【じょうぜん】――大師範・條厳のひとり息子である漸之助【ぜんのすけ】が死んで、條謙はほとんど笑みを浮かべなくなった。
元々口数の多い男ではなかったが、他の何にも興味を示さず禁欲的に稽古に励むようになった。まるで、何も掴めなかった拳を痛めつけるかのように。
「客人方が集まったら、携帯に連絡をくれ。俺も戻ってご挨拶をしておきたい」
「……わかりました」
「そうしたら、お前は帰って構わないぞ。そもそも俺たちの問題だというのに、支度が済むまで見回りを引き受けてもらっただけで、十分有難い。親御さんが心配しているだろう」
「いえ……母なら……」
黛西寺のために自分が死んだら、母親は何を思うのだろうか。
水泳を辞めて母と共に頭を下げに行き、黛西寺流を習い始めたのも、兄の代わりだった。兄は東京で医者になって、きっとこの町に帰ってくることはないのだろう。兄を恨むつもりはない。彼は正しい選択をしたと思うし、いつか、彼を利用してやろうと考えている。
母が梢に期待していることはわかっていた。所詮は女である梢が黛西寺流を学ぶことなど端からどうでもよく、稽古を通して自然と、優秀な若弟子――條謙や條淡【じょうたん】あたりの嫁に貰われる成り行きができないかと、母は望んでいるのだ。
梢はこの町が嫌いだった。黛西寺を中心にずしりと空気の流れが重く歪んでいるようなこの町から、いつか這い出なければ、人間らしく生きていくことなどできないと思っていた。
――だから梢にとって、朝日奈釉子という女は、薄暗く腐れた沼地に射し込む一筋の光のようですらあったのだ。
隣にいた頃は、それがあまりに眩しくて、目を細めてばかりだったけれど。
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