【先生】先生はいつだって偉い。これは生徒のための考え方である

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

あなたの先生は偉いですか?あなたは先生を偉いと思えていますか?

「先生は偉い!」


この言葉を聞いたとき、多くの人が違和感を抱くだろう。「偉そうにするな」「権威主義は時代遅れだ」といった声が頭に浮かぶかもしれない。だが、この言葉にはもっと深くて、実は生徒自身の成長を促すための、極めて重要な意味が含まれている。それは、教育という営みにおける“前提条件”のようなものだ。


先生が偉いのではない。先生を「偉い」と思えることが、生徒にとって必要なのである。人は自分が敬意を持っている相手からしか、心から学ぼうとしない。知識も、技術も、生き方も、相手を尊敬していなければ、その言葉や振る舞いは心に入ってこない。だからこそ「先生は偉い」という認識は、生徒にとっての“学びの装置”なのだ。


これは決して、先生に威張らせるための言葉ではない。生徒が先生から最大限の学びを得るために、自らの心の姿勢を整える呪文のようなものだ。「先生の言うことには意味がある」「この人には自分にはないものがある」。そう思えるかどうかで、同じ内容を学んでも吸収率がまるで違ってくる。


これは子どもだけの話ではない。大人になっても、私たちは無意識のうちに「この人は自分よりすごい」と思える人から学びを得ている。本を読むときでも、話を聞くときでも、「この人には価値がある」と思えた瞬間に、私たちの心は開き、受け取る姿勢になる。そしてその姿勢こそが、学びの本質であり、能力や知識の成長につながっていくのだ。


逆に「こんな人からは学べない」と思ってしまったら、その瞬間に学びの扉は閉じてしまう。いくら素晴らしい教えが目の前にあっても、それはもう自分に届かない。先生の人格や地位とは無関係に、自分が相手をどう認識するかがすべてを決める。学びの可否は、生徒の認識のあり方次第なのだ。


もちろん、だからといって先生は何をしてもいいわけではない。生徒に「この先生は偉い」と自然に思わせるような態度、実力、誠実さが必要だ。つまり、先生自身が“偉い”存在であろうと努力することも、また大切なのだ。教える者は常に、自分が他者から学ぶに値する人間かを問い続けなければならない。そうでなければ、「偉い」と思ってもらうことはできず、学びの流れも生まれない。


学びとは、一方通行では成立しない。先生が教え、生徒が受け取る――その構図の中で、信頼と尊敬という無形の絆が成立して初めて、学びは深く豊かなものになる。その意味で、「先生は偉い」というのは、学びを受け取る側の“覚悟”でもある。自分の中の傲慢さを捨てて、素直に耳を傾けようという決意の表れだ。


学びにおいて、素直さと謙虚さは最強の武器である。たとえ教わっている内容が知っていることであっても、「自分はまだまだ知らないことがある」という謙虚な気持ちがあれば、そこから新たな発見が生まれる。逆に「自分はすでに知っている」と思い込んでしまえば、その瞬間から成長は止まる。学ぶ者は、いつまでも“学ぶ姿勢”を失ってはいけない。


これは学校教育だけに限らない。音楽、スポーツ、ビジネス、人生のすべての場面で通用する普遍的な真理である。どんな分野でも、一流と呼ばれる人ほど、他者から学ぶ姿勢を崩さない。どんなに実力があっても、謙虚で、耳を澄まし続ける。だからこそ、一流は一流であり続けるのだ。


「先生は偉い」と口に出すことは簡単だ。しかし、それを心から思えるようになるには、自分自身の中の壁を取り払わなければならない。プライドを捨て、自分より上の存在を認める勇気がいる。けれど、その壁を越えた先に、本当の学びが待っている。


だから私は言いたい。「先生は偉い」と思える生徒になろうと。


それは相手を持ち上げるための言葉ではなく、自分自身の可能性を最大限に引き出すための、魔法の合言葉なのだ。


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