第4話 水泳部「水音の記録」
汗ばむ陽気のなか、仮設の屋外プールの前に立った俺は、何度もスマホの画面を見直していた。
《文化祭特別任務:記録係。次の訪問先:水泳部パフォーマンス展示》
メッセージの下に、あのアイコンが浮かぶ。
深紅の目をした狐のマーク
俺だけが知っている“催眠アプリ”の起動画面だった。
「あ、あのもしかして、記録係の人ですよね?」
急に声をかけられ、反射的に顔を上げると、そこには水泳帽をかぶった女子生徒がいた。
タオルで髪を拭きながら、すこし警戒しながらも、笑顔を向けてくる。
「はい。文化祭の記録係で来ました。写真と、展示の説明を伺えればと」
「じゃあこっちです。展示っていっても、部員紹介と水中演技の記録映像くらいしかないですけど」
彼女に案内されながら、男子禁制と書かれた控室のようなテントへと入ると、内部には水着姿のまま談笑する女子たちの声が満ちていた。
だが俺は、記録係としての任務に集中するべく、カメラを手に構える。
「撮るならこっちのパネルの方がいいですよ。先輩たちが何か張り切って作ってたんで」
彼女が案内したのは、水泳フォームやタイム記録が整理された部員紹介パネルだった。
その横には、手書きの感想コーナーや写真が並んでいる。
きっと、生徒たちが「自分たちの部活を見せる」ことに真剣に取り組んだ跡だ。
「…みんな、いい表情してますね」
俺は、思わず口に出していた。
「そりゃ、がんばってますからー!」
彼女は一瞬驚いた顔をして、それから照れたように笑った。
その後、展示記録を一通り撮り終えたあと、彼女はふと、自分のバスケットに視線を落とした。
「あの…もしかして道具直したりできたりします?」
「道具?」
「ほら…これ。私のゴーグルなんだけど、ここのパーツ、ちょっとぐらついてて」
差し出されたのは使い込まれたゴーグル。バンドとフレームの接合部が少し緩くなっていた。
小さなドライバーを受け取り、静かに締め直していく。
「…ありがとう。私、不器用だから、いつもこういうの誰かに頼っちゃって」
「いや、いいんだよ。手先はわりと器用なんだ、昔から」
そう言いながら手を動かしていると、彼女はすこしだけ目を伏せた。
「君って、誰かの役に立つの、好きそうですよね」
その言葉に、ふと胸を突かれた。
僕はこの文化祭で、記録係として、いろんな部を回って。
ただ、見て、記録して、それで満足していたはずなのに─
「それ、褒め言葉と受け取っていいの?」
「もちろん!だって、助かりましたもん」
彼女は、直ったゴーグルを嬉しそうにのぞき込み、
「じゃ、戻って演技の練習してきますね!」と小さく手を振ってプールへと駆けていった。
ほかの生徒たちも自分の演技に集中するために皆が控室を出て行った。
その背中を見送りながら、俺はふと、ゴーグルの感触が手に残っているのを感じていた。
目の前には無造作に置かれた彼女たちのタオルや私物があった。
少しだけ、胸の奥に、湿った水音が広がる。
水泳部は、ちょうど通し練習に入るところだった。
さっきゴーグルを直してあげた彼女が、スタート台の上で仲間と談笑している。
その横で、顧問の先生が片手に声を上げる。
さっきの控室とは違う、競技者としての引き締まった表情。
「はい、それじゃあ今回の文化祭用の演技、通しでいきますよ!」
部員たちが一斉に泳ぎ出し、プールは一瞬で水のダンスホールと化した。
俺はシャッターを切りながら、不思議と胸の奥が軽くなっていくのを感じた。
ただの記録係のはずなのに…
あの日までは他の部を回っているときは淡々としていたのに
どうしてこの部だけ、こんなに目が離せないのかを自問自答して自分を正当化する理由を探す
彼女がターンでこちらを向いた一瞬
視線がぶつかった気がした
ほんの一瞬だ
それでも、胸に広がった感触はやけに鮮明でどこか懐かしさもあった。
演技が終わったあと、彼女が息を弾ませながら駆け寄ってきた。
「どうでした? 文化祭っぽく見えました?」
「すごく。みんな本気だな」
「もうすぐ文化祭終盤ですからね、気合も入ってますよっ!」
太陽の光に濡れた髪がきらめき、その笑顔はさっきよりもずっと自然だった。
「…あ、そうだ。さっきのお礼、ちゃんと言ってなかったです」
「さっきって、ゴーグルのこと?」
「はい。あれ、練習の途中でずっと気にしてて……今日の通し練習、ちょっと不安だったんです」
彼女は照れたように笑い、胸の前で両手を握る。
「でも、直してもらえたから…ほんとに助かりました」
その一言が、なぜか妙に重たく響いた。
俺は記録係。
ただの裏方。
なのに誰かの“役に立てた”という事実が、じわりと胸を締めつける。
そのとき、部長らしい先輩が彼女を呼んだ。
「ほら、次のリハだよ。行くよ!」
「あ、はい! じゃあ、またあとで!」
今度は、はっきりとした笑顔で手を振ってくれた。
彼女の背中が水面へ戻っていく。
再び、ひとりになったプールサイドで、俺は胸ポケットの重みを確かめた。
スマホ。
狐のアイコン。
文化祭の任務は続く。
けれど今日の俺は、ひとつだけ確信していた。
——誰かの努力を記録することは、思っていたよりもずっと“大事な仕事”だ。
文化祭のざわめきはまだ遠く、水音だけが静かに響いていた。
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