第15話

唇に触れた、柔らかくて温かい感触。

それが馨先輩のものだったと私の脳が完全に理解するまでには、永遠のような時間が必要だった。


屋上の夕日はもうほとんど沈みかけていて、空は深い藍色とオレンジ色が混じり合った不思議な色に染まっている。強い風が私の髪をめちゃくちゃに揺らしていく。でも、そんなことはもうどうでもよかった。


目の前には、見たことがないくらい優しくて、少しだけ照れたような顔をした馨先輩がいる。


「……これからも、俺のそばにいろ」


その言葉が、私の心の中で何度も何度もこだまする。


それは命令ではなく、お願いのようだった。いつも自信に満ち溢れ、私を「実験体」と呼んでからかっていた先輩とはまるで別人みたいだ。


「……は、はい」


返事をするので精一杯だった。声がちゃんと出ていたかも分からない。

心臓がうるさくて、うるさくて。自分の身体から今どんな匂いが漏れ出しているのかなんて、もう考えることもできなかった。きっと嬉しさと恥ずかしさと戸惑いがごちゃ混ぜになった、とんでもなく甘くてパニックのような匂いがしているに違いない。


先輩はそんな私を見て、ふっと本当に優しく笑った。その笑顔は、夕日よりもずっと私の心を温かく照らしてくれた。


「……帰るぞ」


気まずそうに先輩が言った。その耳がほんのり赤く染まっているのを私は見逃さなかった。


私たちはどちらからともなく屋上を後にした。ぎしぎしと音を立てる古い階段を、さっき上ってきた時とはまったく違う気持ちで下りていく。


先輩の少し前を歩く私の足はなんだかふわふわしていて、地面にちゃんと着いていないみたいだった。

隣を歩く先輩のこともまともに見ることができない。時々視線が合うと、お互いにサッと目を逸らしてしまう。


沈黙が気まずい。でも、嫌な気まずさじゃなかった。甘酸っぱくて胸がきゅっとなるような、心地よい沈黙。


香術部の前に着くと、先輩は「じゃあな」と短く言ってさっさと部室の中に入ってしまった。私はその背中に「さようなら」と声をかけることしかできなかった。


一人きりの帰り道。さっきまでの出来事が夢だったんじゃないかと思う。

でも、唇に残る微かな感触と、先輩から移った雨上がりの森のような澄んだ香りが、それが現実だったと教えてくれる。


私は自分の唇にそっと指で触れてみた。


(……キス、しちゃった)


その事実を改めて認識した瞬間、顔から火が出そうなくらい熱くなった。

家に帰ってベッドに倒れ込んでも、心臓のドキドキは一向に収まってくれなかった。


文化祭は終わった。綾辻さんとの勝負にも勝った。私の居場所は守られた。

そして、私は馨先輩と……。


(私たち、どうなっちゃうんだろう)


「付き合ってください」といった言葉はなかった。でも、あのキスと「俺のそばにいろ」という言葉。それを信じてもいいのだろうか。


ぐるぐると同じことばかり考えているうちに、夜は更けていった。


次の日、学校に行くのがすごく緊張した。教室で先輩に会ったらどんな顔をすればいいんだろう。

でも、先輩は普通科の私とは違う理数科のクラスだ。それに二年生だし、教室でばったり会うことなんてそうそうない。


そう思っていたのに。


下駄箱で靴を履き替えていると、すぐ近くで聞き覚えのある声がした。


「よお、馨。昨日はすごかったらしいじゃん、屋上の決闘」

「……別に」


ハッとして顔を上げると、そこに馨先輩がいた。隣には髪を明るい茶色に染めた、チャラっとした雰囲気の男の人がいる。


「なんだよ、つれねえな。相手、あの綾辻だろ? さぞ綺麗な香りだったんだろうなー」

「……うるさい」


先輩は心底面倒くさそうに、その人をあしらっている。

その時、先輩の視線がふと私を捉えた。


どきっ。


目が合ってしまった。

先輩は少しだけ驚いたような顔をして、それからすぐにぷいっと顔を背けてしまった。


(……避けられた?)


その事実に、私の心臓がちくりと痛んだ。

昨日のことはやっぱり気の迷いだったんだろうか。私だけが舞い上がって、勘違いして……。


ズキッ。


胸の奥が冷たくなっていく。

自分の身体からまたあの嫌な匂いが漏れ出してしまいそうで、私は慌てて俯いた。


「あれ? 如月、知り合い?」

先輩の隣にいた人が私に気づいて声をかけてきた。


「……ただの後輩だ」

先輩はぼそりとそう言った。


ただの後輩。

その言葉が、重たい鉛のように私の心に沈んでいく。

そっか。そうだよね。私はただの後輩で、元・実験体で。それ以上でもそれ以下でもないんだ。


涙が滲んできそうになるのを必死で堪える。


「ふーん? でも、なんかすげえ甘くて切ない匂いがするぜ、この子から。まるで……」

茶髪の人はくんくんと鼻を鳴らすと、にやりと笑って言った。

「失恋したて、みたいな匂いだな」


「……っ!」


図星だった。


「行くぞ、和泉」

先輩はそれ以上は何も言わずに、和泉と呼ばれた人の腕を掴んでさっさと昇降口の方へ歩いて行ってしまった。


一人その場に取り残された私は、もう涙を堪えることができなかった。

ぽろぽろと地面に落ちていく涙。

私の初恋は、たった一日で終わってしまったのかもしれない。


その日の授業はまったく頭に入ってこなかった。

ぼんやりと窓の外を眺めながら、ずっと先輩のことを考えていた。

どうしてあんなに冷たい態度をとったんだろう。どうして「ただの後輩」なんて言ったんだろう。


(……もしかして、私が日記を見つけたから……?)


胸の中にずっと仕舞い込んでいた罪悪感が、黒い煙のようにからもくもくと湧き上がってくる。

そうだ、きっとそうだ。先輩は私が自分の過去を知ってしまったことに怒っているんだ。だから私を遠ざけようとしている。


そう考えたら納得がいった。そして同時に、絶望的な気持ちになった。

私が、先輩との関係を壊してしまったんだ。


放課後、私の足は自然と旧校舎へと向かっていた。

香術部に行っても、先輩はもう私と口を利いてくれないかもしれない。追い出されてしまうかもしれない。

怖い。でも、行かなきゃ。謝らなきゃ。

私が先輩の大切な秘密を、勝手に暴いてしまったことを。


香術部の扉は少しだけ開いていた。中から静かなラベンダーの香りが漂ってくる。

私は意を決して、扉をそっと開けた。


「あの……先輩……」


部屋の中では馨先輩が一人、窓辺の椅子に座って静かに本を読んでいた。昨日と同じ光景。でも、部屋を包む空気は昨日とはまるで違っていた。

重たくて、息が詰まりそう。


先輩は私の声に気づいても、顔を上げようとしなかった。


「……何の用だ」

本から目を離さないまま、低い声で言った。その声は氷のように冷たかった。


「あの……私……」

謝らなきゃ。そう思うのに、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこない。

私の身体から罪悪感と悲しみが混じり合った、淀んだ匂いが立ち上るのが自分でも分かった。


「……その匂い、不快だ。帰ってくれないか」

先輩の言葉が鋭いナイフになって、私の胸を突き刺した。


「……っ」

やっぱり、ダメなんだ。もう先輩は私を許してくれない。

涙がぼろぼろと溢れ出してくる。


「ごめんなさ……っ」

私がしゃくりあげながらそう言いかけた、その時だった。


「……嘘だ」

先輩がぽつりと呟いた。


「え……?」

「今のは、嘘だ。……帰るな」

先輩はぱたんと本を閉じると、ゆっくりと顔を上げた。その顔は苦悩に満ちていて、今にも泣き出しそうに見えた。


「……すまない、星野。今朝はああいう態度をとって」

「先輩……?」

「和泉……さっきの男は俺の数少ない友人だが、口が軽くて面倒なやつなんだ。あいつの前でお前とのことを話せば、あっという間に学校中に広まる。……それが嫌だった」

「嫌……?」

「お前が好奇の目に晒されるのが。俺のせいで、お前がまた傷つくのが」


先輩の言葉に、私は息を呑んだ。

避けていたんじゃない。冷たかったんじゃない。

先輩は私のことを、守ろうとしてくれていたんだ。


「……でも、一番の理由は俺が臆病なだけだ」

先輩は自嘲するようにふっと笑った。

「お前といると調子が狂う。今まで完璧にコントロールできていたはずの感情がぐちゃぐちゃになる。……怖いんだ。お前のその真っ直ぐな温かさに触れるのが」


先輩の正直な告白。その一つ一つが私の心に温かく染み込んでいく。


「昨日、お前にキスをしたのも……俺の衝動だ。理性が感情に負けた。……最低だな」

「そ、そんなことないです!」

私は思わず叫んでいた。

「最低なんかじゃないです! 私は……嬉しかった、から……!」


言ってしまってからハッとした。顔が一気に熱くなる。

先輩は私の言葉に少しだけ目を見開いて、それから困ったように眉を下げた。


「……お前は、本当に厄介なやつだな」

そう言いながらも、その声はどこまでも優しかった。


部屋を包んでいた重たい空気が少しだけ和らいだ気がした。

でも、一番大事なことはまだ言えていない。


「あの、先輩」

私は意を決して口を開いた。

「私、先輩に謝らなければいけないことがあります」

「……なんだ」

「私……文化祭の準備の時に、体育館裏の倉庫で……先輩の日記帳を……」


そこまで言った時、先輩の表情がすっと凍りついたのが分かった。


「……見て、しまいました。ごめんなさい……!」

私は深々と頭を下げた。

もうどんな風に罵られても仕方がない。私が悪いんだから。


長い、長い沈黙。

私の心臓の音だけがやけに大きく部屋に響く。

やがて、先輩の深いため息が聞こえた。


「……やはり、気づいていたか」

その声は怒っているというよりは、何かを諦めたようなひどく疲れた声だった。


「顔を上げろ、星野」

私はおそるおそる顔を上げた。

目の前の先輩は、今まで見たことがないくらい悲しい目をしていた。


「……お前が開けてしまったのは、パンドラの箱だ」

先輩は静かに言った。

「もう元には戻れない。……いいか。それでも、お前はその中身を知りたいか?」


その問いは、まるで私の覚悟を試しているようだった。

知りたい。知って、先輩の力になりたい。

でも、知ってしまったら私は本当に後戻りできなくなる。


どうすればいいの?

答えが出ないまま、私は先輩の深い悲しみを湛えた瞳をただ見つめ返すことしかできなかった。

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