第14話

夕暮れの屋上は、二つの対極的な香りの意志がぶつかり合う静かな戦場と化していた。


一つは、綾辻玲奈さんが放つ技術の粋を集めた完璧な『魅了』の香り。それは、誰もがひれ伏す絶対的な美の化身。


そしてもう一つは、馨先輩の冷たい『盾』と私の温かい『祝福』が寄り添い響き合う、不完全で、でもどこまでも正直な魂の香り。


玲奈さんの表情から、いつもの余裕が消えていた。その美しい瞳が信じられないものを見るように、私と先輩の間を何度も往復している。


「ありえない……どうして……」


彼女の唇から、か細い声が漏れた。


「どうして、あなたのその出来損ないの香りが、馨様の完璧な盾と混じり合うのです……!?」


その言葉に、私は心の中で静かに首を振った。


(違うよ、綾辻さん。混じり合ってるんじゃない。ただ、寄り添っているだけ)


私の香りは、馨先輩の心を無理やり変えようとはしない。ただ、その凍てついた悲しみの隣にそっと座って、「一人じゃないよ」と語りかけているだけだ。


私の温かい香りは、玲奈さんの心にも静かに、でも確実に作用していた。


完璧な技術で構築された彼女の香りは、言わば分厚い鎧だ。名門・綾辻家としての重圧、誰にも負けられないという気負い、そして馨先輩に認められたいという歪んだ渇望。その全てから彼女の脆い心を守るための、嘘で固められた鎧。


でも、私の不器用で正直な香りは、その鎧のほんの小さな隙間から彼女の心の奥底へと染み込んでいく。


(……本当は、私も)


玲奈さんの脳裏に、忘れていたはずの記憶が不意に蘇っていた。


それは、彼女がまだずっと幼かった頃の記憶。


初めて自分の手でラベンダーのポプリを作った日。不格好だったけど、その優しい香りを嗅いだお母様が、「まあ、玲奈。なんて素敵な香りなの」と頭を撫でてくれた。嬉しくて、誇らしくて、胸がいっぱいになった。


あの頃は、ただ香りを作ることが楽しくて仕方がなかった。誰かと比べることもなく、完璧である必要もなかった。


(いつから、私は……)


いつから、香りを作ることは楽しいものではなくなったんだろう。いつから、それは誰かに勝つための、自分を証明するための「道具」になってしまったんだろう。


玲奈さんの瞳が微かに揺らぐ。その瞬間、彼女が放っていた完璧な香りの調和に、ほんの一筋、不協和音が混じった。


それは、彼女の心の奥底に封じ込められていた「本当の気持ち」が、嘘の仮面を破って顔を覗かせた証拠だった。


その変化は、私だけでなく馨先輩にも起きていた。


私の香りに包まれながら、先輩は自らの心の奥底にある凍てついた湖を見つめていた。妹・咲良を救えなかった後悔と、自分を責め続ける罪悪感。その湖は長い間、分厚い氷に閉ざされ決して溶けることはなかった。


でも、雫の香りは、その氷の上に温かい陽だまりを作ってくれるようだった。


(……過去は、変えられない)


そうだ。何度悔やんでも、あの日に戻ることはできない。咲良は、もういない。


(だが……)


先輩の心に、新しい光が差し込む。


(未来は、まだ俺の手の中にある)


目の前にいる、この不器用で、温かくて、そして誰よりも強い魂を持つ少女。彼女と共に歩む未来。


その未来を、俺はもう一度信じてみたい。


そう思った瞬間。


馨先輩の放つ『盾』の香りが、静かにその質を変えた。


ただ冷たくて全てを拒絶する香りじゃない。その氷のような透明度の奥に、春の雪解け水のような清らかで優しい響きが生まれたのだ。


それは、私の『祝福』の香りを完全に受け入れた証拠だった。


二つの香りが、完全に一つになった。


それはもう、盾でも祝福でもない。


絶望の冬を乗り越え、新しい希望の春を迎える生命そのもののような、力強くて優しい香りだった。


その香りを前にして、玲奈さんの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。


彼女の放っていた完璧な香りは、もうその力を失っていた。分厚い鎧は砕け散り、その下から現れたのは、傷つき、迷い、助けを求める一人の女の子のか弱い魂だった。


「……勝負、あり」


橘先生の、静かで厳かな声が屋上に響いた。


「勝者、如月馨、そして……星野雫」


先生は私たちの方を向いて、深く頷いた。


「綾辻くんの香りは、技術の極致だった。だが、人の心を、魂を揺さぶったのは……」


先生は言葉を切ると、優しい目で私たちを見つめた。


「二人の魂が共鳴し生み出した、この新しい希望の香りだ」


その言葉が、私の胸に温かく染み渡っていく。


勝ったんだ。私と、先輩の香りが。


玲奈さんは呆然と立ち尽くしていた。その頬を伝う涙を拭おうともしない。


やがて彼女は、悔しそうに唇をぎゅっと噛み締めると私を睨みつけた。


「……覚えてらっしゃい、実験体さん」


その声は震えていたけれど、以前のような冷たい響きはなかった。


「今日のところは、あなたの勝ちですわ。でも、わたくしは諦めませんから……!」


そう言い残して、玲奈さんは踵を返し屋上から去っていった。その背中は、少しだけ小さく見えた。


屋上に、私と馨先輩、二人きりが残された。


燃えるような夕日が、世界をオレンジ色に染めている。


「……ありがとう、星野」


不意に、先輩がぽつりと言った。


初めて聞く素直な感謝の言葉。私の心臓が、きゅん、と甘く音を立てる。


「お前のおかげで、俺は少しだけ前に進めそうだ」


先輩はそう言うと、気まずそうに視線を逸らした。その頬が、夕日のせいか少しだけ赤く染まっているように見えた。


「あの、先輩……」


私はずっと胸の中にあったことを、打ち明けるべきか迷っていた。倉庫で日記を見つけてしまったこと。


でも、言葉が出てこない。


すると先輩が、ゆっくりと私の方に向き直った。そして、その黒い瞳で私を真っ直ぐに見つめる。


「星野」


「は、はい!」


「お前は、もう俺の実験体なんかじゃない」


先輩の手がゆっくりと伸びてきて、私の頬にそっと触れた。


どきっ。


心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ねる。


「お前は、俺の……」


先輩が何かを言いかけた、その時。


彼の顔がゆっくりと近づいてきて。


私の視界は、先輩の綺麗な顔でいっぱいになった。


そして。


唇に、柔らかくて温かいものがそっと触れた。


え……?


え、え、えええええええ!?


何が起こったのか理解できない。頭が真っ白になる。ただ、先輩から香る雨上がりの森みたいな澄んだ匂いだけが、やけにリアルに感じられた。


唇がゆっくりと離れていく。


目の前には、見たことがないくらい優しくて、少しだけ照れたような顔をした馨先輩がいた。


「……これからも、俺のそばにいろ」


その言葉は命令じゃなくて、お願いみたいに私の心に響いた。


夕日の中で、私たちはただお互いを見つめ合っていた。


私の呪われた人生が、先輩との出会いで色鮮やかな祝福に変わったように。


私たちの止まっていた時間が、この瞬間、きっと新しく動き始めたんだ。


この胸の高鳴りの正体を、私はもう知っていた。


これは、紛れもなく、恋だ。


私の初恋は、世界で一番優しくて、切なくて、そして希望に満ちた香りがした。

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