第三十話

川面を渡る涼やかな風が途切れ、代わりに甲高い声が耳を突いた。


「ーーーー」「ーーーー!」


何やら騒がしい。

人が気持ちよく眠っているというのに。


もうひと眠りしたいがリサとエリルの声だ。

眠気は音を立てて崩れ去り、頭の中に冷たい水が流れ込むように意識が冴えていく。


瞼を持ち上げれば、真夏の太陽が容赦なく視界を刺す。

思わず顔をしかめたところで、待っていたかのような声が降ってきた。


「……よう、ミズキ様。エリルの太腿は気持ちよかったか?」


寝起きで頭はまだ完全には回っていないが、返事は簡単だ。


「ああ、気持ちよかったぞ」


川辺の石に両手をつき、背中を伸ばすように上体を起こす。

石肌は日差しを受けて温もりを帯び、掌にじんわりと熱を伝えてくる。

視線を向ければ、エリルがこちらを見ずにわずかに俯き、頬に淡い朱を宿している。

嬉しいのか、恥ずかしいのか――その中間に揺れる複雑な表情だ。


「リサ、何か採れたのか?」


リサは肩を軽くすくめ、口元に自信ありげな笑みを浮かべた。

まるでこの瞬間を待っていたかのような表情だ。


「かなり取れたぜ。魚が釣れなくても腹を満たせるぐらいな」


その腕に抱えられているのは、瑞々しい山菜や香りの強い野草。

どれも小ぶりながらも色鮮やかで、摘みたての瑞々しさを残している。


「流石だな。魚は釣れたのか?」


視線を向けると、エリルがわずかに肩をすくめ、小さく首を横に振った。


「まったく釣れてないよ」


まあ、そうだとは思っていた。

この場所は釣りには向いていないのだろうか。


「そうか。どうする、まだするか?」


二人の顔を順に見やると、リサは間を置かず即答した。

その瞳は、まだ獲物を狙う猟犬のように生き生きと輝いている。


「もう少しだけ粘ろうぜ」


その表情に諦めの色はなく、むしろこれからが本番だとでも言いたげだ。


「分かった。もう少しやるか」


俺が同意を口にすると、横で聞いていたエリルがわずかに眉をひそめる。

声も仕草も露骨に気乗りしない。


「まだやるの?釣れないと思うよ」


「悪いな、もう少しだけ付き合ってくれ」


そう言うと、彼女は深くため息をつき、肩をすくめた。


「……しょうがないな」


そう言うなり、エリルはすっと俺の横へ寄ってきた。

足音も気配も軽やかで、気づけば腕が触れ合うほどの距離だ。

次の瞬間、甚平の合わせ目から白い指が忍び込み、直接肌へと触れてくる。

ひやりとした感触が腹の横を撫で、妙にくすぐったい。


俺は何も言わず、されるがままだ。

先ほど俺とリサの冗談を咎めていた少女と同じとは思えない。

やはりエリルも一人の女性といったところか。


……それよりもだ。

この手つき、もしかして肉付きや筋肉の付き方を探っているのではないか?

「太ってる」だの「筋肉がない」だの、心の中で幻滅されたら嫌だな。


俺とエリルがそんなふうにじゃれ合っている間、リサは竿を握り、腰を落として川面と向き合っていた。

陽光を浴びて水面はきらきらと揺れ、川底の石が透けて見える。

竿先がかすかに震えるたび、リサの肩がわずかに動く。


「リサ、釣れそうか?」


声をかけると、リサは振り返らず、背中越しに短く答えた。


「難しそうだ」

「ただ、奥の方に魚の影が見えた気がする」


陽光を受けた水面がきらきらと輝き、その奥に何かがすっと横切ったようにも見える。

リサの視線はそこに釘付けだ。

肩越しに見える横顔は真剣で、普段の冗談っぽさはどこにもない。


「頑張って釣ってくれ。俺たちの夕食になるんだ」


「はいよ」


短くも力のある返事。

その声に合わせるように、リサの指先が繊細に糸を操る。

水面がかすかに揺れ、陽光の反射が細い波紋に踊る。


――と、その時。


腰のあたりで小さな感触が走った。

俺の甚平の結び目が、するりとほどけていく。

布がゆるみ、胸元から腹にかけてゆっくりと開いていき、涼しい風が素肌をなぞった。

川辺の水音と相まって、そのひやりとした感触が妙に際立つ。


流石に少し恥ずかしい。


「エリル、やり過ぎだ」


視線を向けると、エリルは俺の隣で小さく肩を上下させていた。

吐息がかすかに荒く、瞳には淡い光が宿っている。

その表情は、いつもの無邪気さや可愛げというより、熱を帯びた色になっている。


俺の肌を触っている手をゆっくりとどけていく。

エリルが少し寂しそうな顔をするが踏み込み過ぎたお前が悪い。


その穏やかな時間が破られたのは、突然の出来事だった。

リサが手にしていた釣り竿が激しくしなり、竿先が不自然に動く。


俺は反射的に立ち上がり、リサの隣まで駆け寄った。


「食いついたか?」


俺の問いかけに、リサは一瞬だけ目を細め、集中した表情を浮かべた。

そして、力強く答えた。


「ああ、多分でかいぜ」


彼女の声には緊張と興奮が混じっている。

彼女の手さばきは慣れていて、糸の張り具合を微妙に調整しながら、魚の動きをいなしている。

その手元からは迷いや焦りの色はまったく感じられなかった。


魚は激しく暴れ、川面に波紋を描く。

リサはゆっくりと竿を引きながら、絶妙なタイミングで糸を巻き上げていく。


やがて、魚の姿が水面に浮かび上がる。

思っていたより大きく、身の厚さが分かるその魚は、三人で食べるのに十分な量に見える。


リサは満足げに頷き、両手で丁寧に魚を掴みあげる。


「これなら、今夜の食事には困らないな」


彼女が微笑みながら言った言葉には、確かな安心感が含まれている。

長い一日の努力が報われた瞬間だった。


俺がふと疑問を口にすると、リサは肩をすくめ、からりと明るく答えた。


「食える魚なのか?」


「それは知らん。まあ、食えるだろ」


無造作ながらも頼もしさを感じさせる言葉に、少し笑ってしまう。

何度も野外での暮らしを経験してきた彼女にとっては、これくらいのことは何でもないのだろう。


「結局、食材はお前が全て取ってくれた事になるな」


「感謝してもいいんだぜ」


リサは誇らしげに胸を張り、少しだけ笑みをこぼす。

その目には冗談めかした自信が宿っていた。


魚を抱えたリサは満足げに笑みを浮かべながら、川辺の岩に腰を下ろした。

俺もそっと隣に腰をおろし、冷たい川風が汗ばんだ肌を撫でるのを感じた。


「エリルの奴、ずっと動かないがどうしたんだ」

「ミズキ様、ちょっかいかけたんだろ?」


リサの声には、からかうような響きが混じっている。

エリルのことをよく知っているからこそ、そう断言できるのだろう。


俺は軽く首を振りながら答えた。


「いや、逆だ」


その一言にリサは小さく息を吐いた。

短い間だったが、彼女の目が少しだけ笑っているのが分かる。


「なるほどね」


リサの返事には、苦笑まじりの納得が含まれていた。

彼女の目が軽く細まり、空気がふっと和らぐのを感じる。

遠くからは川のせせらぎが静かに響き、夏の午後の穏やかな時間がゆっくりと流れている。


「それより、焚き火に火を付けるか」


俺は声をかけながら、先ほど集めた枯れ木を手早く焚き火の囲いへと入れていく。


「火種を作る魔道具、使ってみるか?」


リサは素早く枯れ木の配置を調整し、燃えやすくなるように組み直す。

無駄のない動きは、何度も火起こしを経験してきた証だろう。


「ああ、使わせてくれ」


俺がそう答えると、リサは手早く魔道具を差し出してくる。

彼女から見せてもらって以来、ずっと試してみたいと思っていた道具だ。


「中に枯れ草を入れて少し放置したら、火種ができてる」


リサが改めて簡潔に説明してくれる。


俺は慎重に魔道具の蓋を外し、細かく砕いた草や木くずを中に詰めていく。

思いのほかあっけなく、やることは少ない。

火種ができるまでの間、少し拍子抜けした気分になるのも否めない。


「よし、後は火種から火を移すだけだな」


リサは焚き火の囲いの中に整えた枯れ木を最後に手直しし、そっと膝の横から包みを取り出した。

包みを解く指先には静かな緊張が宿っている。


「その布を燃やすのか?」


問いかけると、彼女は少しだけ笑みを浮かべて答えた。


「ああ、魔物由来の布だ。かなり燃えやすくて消えにくい」

「ここからは危ないから任せてくれ」


そう言いながら、リサは俺の手から魔道具を受け取り、慎重に蓋を開けて中の火種を掬い取った。白く煙る火種は繊細に揺れ、まるで命を宿しているかのようだ。


その火種を布の上にそっと置くと、瞬く間に布の繊維が赤く染まり、ぱちぱちと小さな音を立てながら燃え始めた。

リサはすかさずその燃え盛る布を焚き火の囲いに投げ入れる。

パチパチと弾ける火の音が周囲に響き渡り、冷んやりとした川辺の空気が一気に暖まり始めた。


しばらくすると、火は次第に大きくなり、赤々とした炎が安定した。

枯れ木がじわりと音を立てて燃え、火の温もりが川辺の冷たい風と調和し、心地よい空気が広がっていく。


「ついたね」


エリルが俺たちの隣まで歩いてきて呟く。

時間をかけて気持ちを落ち着かせてきたのだろう。

普段のエリルに戻ている。


「この後、料理を始めたら夕食にはちょうどいい時間になるだろうな」


リサがそう言いながら、先ほど釣る上げた魚に視線を落とした。


「ミズキ様、料理できる?」


エリルがこちらを見上げ、少し不安げに問いかけてきた。


「あまりしたことはない」


前世では一人暮らしだったので多少の経験はあるが、下処理された肉や魚を炒める程度だ。

魚を捌いたりはしたことがない。


「まあ、貴族様だしな」


リサが軽く笑いながら言う。


「私たちで作ろぜ」


彼女はエリルに向けて言葉を送る。


「そうだね。ミズキ様はゆっくり休んでていいよ」


エリルも小さく頷き、優しい笑みを浮かべた。


少し申し訳ないが、どのみち力になれないだろうしな。

俺は二人の後ろで待っておくとするか。

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