第二十九話

枝を抱え、二度ほど往復したあたりで、腰の辺りにわずかな疲労を覚えた。

集めた枯れ木は焚き火には十分だろう。

というか、暑くてこれ以上動きたくない。


視線を巡らせ、二人の様子を探る。

エリルはまだ夢中になって川辺近くの茂みに手を伸ばしていた。

細い枝を掴み取るたび、彼女の肩が小さく上下し、息遣いが浅く速いのがわかる。

リサはその少し後ろ、護衛のような位置で枝を肩に担ぎ、時折周囲を見回していた。

二人とも、額やこめかみに汗が滲み、その雫が陽光を受けてきらりと光る。

夏の川面を渡る風がわずかに吹き抜けるが、熱を払い切るには力不足だった。


「枯れ木はもう終わりでいいだろ」


少し声を張って呼びかけると、川面の反射光がエリルの横顔を白く照らした。

その手はまだ茂みに伸びており、指先が細い枝をつかみかけている。


振り返った彼女は、ほんのわずかに眉を寄せた。

まだ作業を続ける気でいたのだろう。


「え、もう? もうちょっと集められそうだけど」


小首を傾げながら、枝を手元へ引き寄せる。


俺はその手を止めるように、淡々と理由を告げた。


「魚を焼くときに使うだけだ。足りると思うぞ」


少し間があった。

エリルは枝を握ったまま、目線を川へと流し、やがて小さく息をついて手を離した。


俺の言葉に、リサは迷いなく頷く。

肩に担いだ枝の束を軽く持ち直しながら、口元に笑みを浮かべた。


「そうだな。このぐらいあれば、十分だ」


夏の空気はじっとりとまとわりつき、汗が背中を滑る。


「それじゃあ、お昼にしようか」


エリルが微笑み、倒木まで軽やかに歩みを戻す。

腰を下ろすと、付近に置いていた荷の奥から布包みを取り出し、慎重に膝の上でほどいた。


現れたのは、小ぶりで丸いパン、彩りを添える野菜、そして香り高い燻製肉。

素朴な見た目ながら、ひとつひとつが丁寧に整えられている。


俺とリサも倒木に腰を下ろすと、エリルが包みの中から小さなパンを差し出してくれた。

手に取ると、屋敷で食べるふかふかの白パンよりもわずかに硬く、噛めば味もどこか粗い。

だが、こうして外で、仲間と腰を下ろしてかじるパンは、いつもと違った味がある。

それに、乱雑な味だからこそ、作った人の時間と気持ちがそのまま染み込んでいるようで、妙に胸に残る。


「どう? ちょっと固いけど」


エリルが心配そうにこちらをのぞく。


「うまい」


短く答えると、彼女は安堵したように息を吐き、頬に穏やかな笑みを浮かべた。


量の少ない食事を終える。

おそらく、夕餉に魚を焼くことを考え、腹を満たしすぎないよう加減してくれたのだろう。


川の流れが視界の端で揺れている。

水面にはときおり小さな波紋が広がり、陽光を反射して淡く煌めく。

魚が跳ねているらしい。


「……釣るか」


俺が呟くと、リサは手にしていた枝を軽く弾き、唇の端を吊り上げた。


「よっしゃ、それじゃあ釣り竿を出すとしますか」


エリルも目を輝かせ、手のひらに残ったパンくずを払って立ち上がる。

夏の川辺は、静かな休息の場から次の遊び場へと姿を変えようとしていた。


リサは荷の紐をほどき、三本の釣り竿と釣り餌を取り出す。

竿の方は、木の節や削り跡が残っており、既製品ではないとすぐに分かった。


「竿は手作りか?」


「まあな。強度は高いから安心していいぜ」

「餌は買ったものだから多分釣れるだろ」


リサはそう言いながら、釣り糸を指で引き、結び目の締まり具合を確かめた。

糸が陽に透け、淡く輝く。


リサから渡された竿を手に取り、握り具合を確かめる。

樹皮の感触と手のひらの温もりが馴染んでいくのを感じる。

軽く振ってみると、節の位置がしっかりと力を受け止め、竿全体がしなやかに応えた。


流石、冒険者。

いい素材を持っている。


背後から、風が草を撫でる音が届く。

魚影はまだ見えないが、川の奥からは一定の水音が途切れず、耳に心地よく響いている。


川辺には腰を下ろせる石や倒木もなく、座るなら地面しかない。

陽に乾いた石の匂いが漂う中、ふと鼻をつく異臭が混ざった。


臭いの元はすぐに分かった。

リサが釣り針に付けようとしている餌だ。

箱の中では、湿った塊がゆっくりと蠢き、その存在感を強烈に放っている。


「ほらよ、ミズキ様」


餌箱を差し出される。


はっきり言って触りたくない。

匂いもそうだが、見た目も結構気持ち悪い。


「……なんだよ、触りたくないのか?」


リサが面白がるように片眉を上げて問いかけてきた。

その口元には、わずかな悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。


「ミズキ様、早くしてよ」


エリルまで同じ調子で背中を押してくる。

涼しげな声とは裏腹に、その目は明らかにこちらの反応を楽しんでいた。


箱の中身がじっと視界の端で蠢く。

その湿った音と形が、皮膚の奥を這うような感覚を呼び起こす。

気合を入れて指先を伸ばすが、指の節が空中で固まり、どうにも悪寒が抜けない。


前世から虫は苦手だ。

日本人の特性でもあると思う。


「……触れん。虫は苦手なんだ」


リサは肩をすくめ、エリルは口元を押さえて笑いをこらえている。

わかってはいた。

この世界で虫が苦手な人は少ない。

平民の家なら、隙間から虫が入り込むのは日常茶飯事だ。

慣れてしまっているのだ。


だが、俺は貴族だ。

屋敷に虫が侵入することは滅多にない。

たとえ紛れ込んでも、使用人がすぐに追い払ってくれる。


リサは肩をすくめる。


「ったく、貴族様はこれだからな」


その声音には呆れが混じっていたが、視線の奥にはくすぶるような愉快さがあった。

からかう種を見つけたときの、あの小悪魔じみた光だ。


一方、エリルは笑いをこらえきれず、肩を小刻みに揺らしている。

川面から吹き上げる涼しい風が彼女の髪を揺らし、陽の光を受けてきらりと光った。


「もう……しょうがないなぁ、ミズキ様」


その声色は、あきれよりもむしろ優しさを含んでいる。


そう言って、俺の手から餌箱をひょいと取り上げると、ためらいなく指を虫へ伸ばした。

器用に釣り針へ刺していく手つきは、慣れた動作そのものだ。

彼女の白い指先がわずかに動くたび、針が陽を反射して鋭く光る。


こいつらは、なんだかんだ言って俺のことを甘やかしてくれる。


「始めるか」


リサの軽快な声が、川辺の静けさを切り裂いた。

その一言で、場の空気は一気に釣りの楽しみに切り替わる。


彼女の言葉に背中を押されるように、俺は気持ちを切り替える。

俺が一番大きいのを釣ってみせる。



どれほどの時間が過ぎたのか、正確には分からなかった。

釣り竿は川辺の石に立てかけたまま、俺たちはほとんど会話に費やしていた。


「釣れないね」


エリルがため息混じりに言う。

釣り竿には一度も魚の感触が伝わってこない。


リサは少し前に、待ちきれずに目の届く範囲をふらついている。

キノコや山菜を採ってくると言って、元気よく歩いていったのだ。


「釣れんな。少し疲れてきた」


俺はゆっくりとため息をついた。座っているとはいえ、同じ姿勢でじっとしているのは意外と体力を消耗するものだ。腰から背中にかけてじんわりと重みがのしかかり、筋肉が固まっていくのを感じる。太陽はまだ高く、夏の午後の熱気が肌をじりじりと焼いていた。


エリルは、俺の言葉に首をかしげた。


「座ってるのに疲れたの?」


その問いには少し驚いた。

どうやら彼女はまだ疲労の色が見えず、元気そうだった。

俺の感じている疲れが伝わっていない。


「背もたれがないと辛い」


そう返すと、エリルは微かに笑みを浮かべた。

少しからかうような声で、軽やかに言う。


「軟な体だね」


まあ、それはそうだ。

だが――


「それが貴族だ」


そう言い放つと、エリルは微かに顔を赤らめながらも、嬉しそうに目を細めた。


「そうだね。それじゃあさ……」


彼女の声には、少しの恥じらいと、期待が混ざっていた。ほんの少しだけ戸惑うような困った表情も見え隠れする。


「私の足、枕にしていいよ」


俺はエリルの足に視線を落とす。

黒い魔女風の衣装に覆われていて、その全貌は見えにくいが、細くしなやかなラインがうかがえる。

きっと、触れれば柔らかくて心地よいに違いない。


ためらわずに、俺はそっと彼女の太腿に手を伸ばした。

手のひらに伝わるもちもちとした感触は、まるでふかふかのクッションのようで、じんわりとした温もりが伝わってくる。


その瞬間、エリルの体が少しだけ震える。


「うっ、ふぅー」


魔道具屋でエリルの頭を撫でた時と同じような声を漏らしている。

どうやらエリルは体を触られると変な声を出す様だ。


膝枕をしてもらうと、そんな声が頭の上でずっと続くのかと思うと、俺の目の色がほんの少し鋭くなったのかもしれない。


「ち、違うよ。今の声は……」


エリルは恥ずかしさで顔を赤らめ、慌てて言い訳を始める。


何が違うのかは分からないが、別に何とも思っていない。

ただ、うるさそうだなと思っただけで。


「気にしてない」


そう告げて、俺は遠慮なくエリルの太腿を借りる。

背中は川辺の石に当たり、少し痛むが、地べたに直接座っているよりずっと楽だ。


エリルは声を出さないように気を使っているのか。

それとも触れられると分かっていれば声は出ないのか。

どっちでもいい。


夏の日差しを感じながら、川のせせらぎを聞く。

ずいぶんな贅沢に感じる。

このまま少し寝てしまおうか。

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