第十三話
俺が歩調を整えながら前を向いていると、隣から気楽な声が投げかけられた。
「ご飯にしないかい?」
言ったのは隣の魔女だ。口調はいつも通りだが、ほんの少しだけ期待の色が混じっている。気がつけば、もう日も高い。
俺は立ち止まり、空を仰ぐ。
日差しは真上から降り注ぎ、影は足元にまとわりつくように短い。
正確な時刻を示すものはないが、十二時――昼刻を少し回った頃合いだろう。
「そうだな。飯にするか」
そう答えながら、腹の奥にわずかな空虚感を覚える。
それは空腹というより、長らく意識しなかった感覚が、ようやく顔を出したような、不思議なものだ。
「何が食いたい?」
俺の返事を聞いたリサが、小さく欠伸をひとつ漏らしてから、のそりとした足取りでこちらに追いついてくる。
「なんだよ、また奢ってくれるのか?」
「え、奢ってくれるの?」
エリルは嬉しそうでありながらも、どこか申し訳なさそうに呟いた。
「そのぐらいは出す」
そう口に出しながらも、俺の心の中では「そんなに高い店は選ばないしな」とささやいていた。
財布の紐は固く締めるつもりだが、俺の用事に付き合わせたのも事実だし、そのぐらいは恩返しするか。
路地を抜けると、強烈な日差しが容赦なく俺たちを包み込んだ。
石畳に映る影は短く、昼の暑さがまさにピークに達していることを知らせている。
汗が額を伝い落ち、乾いた風がわずかに心地よさを与えるが、そんな小さな慰めもすぐにかき消されるほどの熱気だ。
日陰を求めて周囲を見渡すものの、開けた通りにはほとんど陰がなく、店の中に入らなければ涼しさを得るのは難しそうだった。
俺は汗でぬれた額を手の甲でぬぐい、頭がふらつきそうになるのを抑えるために軽く首を振った。
強烈な日差しは判断力を鈍らせ、さっきまでなら絶対に入らないと決めていたような店にも、足を踏み入れたくなるほどだ。
高い店なら味は保証されているようなものだ。
店構えや評判に惑わされず、安心して飯を楽しめる。
俺が払うのだから、ここはひとまず妥協して、確実に満足できる店を選んでしまおうか。
目の前には、他の店舗とは明らかに異質な豪華な造りの店が控えている。
石造りの柱に細やかな彫刻が施され、扉は重厚で格式を感じさせる。俺はしばらく迷ったが、暑さに耐えかねて、店を探す手間を金で買う決心をした。
「……あそこでいいか?」
俺がそう問いかけると、二人の顔に視線を移す。リサは額の汗をぬぐい、少しだけ息を吐いた。
けれど、何よりも気になるのはエリルだ。
彼女は手で顔を仰ぎ、少しばかり熱を帯びた服装のせいか頬を赤く染めている。
日差しの下で体力を消耗しているのが見て取れた。
そんなエリルは、じっと俺の目を見ながら、かくかくと小刻みに頭を振った。
まるで「早く日陰に入りたい」とでも言いたげな素振りだ。
「入るか」
俺はそう言って、二人を引き連れながら店の扉を押し開けた。
中に一歩踏み入れると、外よりは幾分ましな空気に包まれる。
壁は厚く、窓も少ないため、直射日光が差し込むことはない。
だが、風が通らぬ分、籠った熱が肌にまとわりつくようにじんわりと残っていた。
涼しいとは言えない。だが、あの照り返す石畳の下に比べれば、天国のようなものだ。
「ふー……」と、リサが肩を落として一息つく。
エリルも静かに額に浮いた汗をぬぐい、目を細めて周囲を見渡していた。
店内は広々としていて、清潔感がある。
磨かれた木の床に重厚な机、そして品のいい布張りの椅子が整然と並べられていた。
壁には涼を演出するかのような薄青のタペストリーがかかり、天井ではゆっくりと羽根のような扇が回っている。
扉が静かに閉まると同時に、近くに控えていた店員がすっと歩み寄ってきた。
背筋を伸ばし、整った身なりに清潔感を漂わせた若い男性だった。
この世界では、接客業は主に女性が担うのが通例だ。
だが、このような高級店では例外が存在する。
“選ばれた”容姿の男性が、あえて店の顔として配置されるのだ。彼らは料理を運ぶだけではない。
言葉、所作、佇まいすべてが商品の一部であり、店の「価値」として計算されているのだ。
「三名様ですね。奥の窓際のお席が空いております」
案内された席は、通りに面した大きな窓のそばだった。
窓は開かれており、外気がわずかに入り込んでくる。
ぬるい風ではあるが、汗を乾かすには十分だった。
ただ、用意された席はどこか過剰にも思えた。
机も椅子も、まるで上流の客人を招く前提で用意されたような広さと重厚さがあり、俺たち三人ではどうにも落ち着かない。
金の勘定が頭をよぎる。料理だけでなく、空間そのものに値段がついているような店だろう。
だが、ここまで来て引き返すのも野暮というもの。
まあ、足りなければ、ネフェリウス家に請求するように言えばいいだけだが。
とにかく、少しでも風の通り道である窓際付近に腰を下ろす。
木製の椅子の感触が、熱を帯びた背中をゆっくりと受け止めた。
そのすぐ後、リサが俺の右隣に滑り込むように座ってきた。
その距離はあまりにも近く、肩と肩がかすかに触れ合うほど。
不意に押し寄せる体温に、反射的に顔を向けると、リサはまるで何も気にしていない様子で椅子の背にもたれ、腕を組んでいた。
その顔には、涼しい顔を装いながらも、どこか勝ち誇ったような薄い笑みが浮かんでいる。
「リサ、ミズキ様と距離が近すぎるよ。不敬だよ」
席に着こうと歩み寄っていたエリルが、ピタリと足を止めて小さく眉をひそめた。
彼女の言葉は咎めるというより、驚きと戸惑いが入り混じったものだった。
「しょうがねえだろ。風が来るのはこの付近だけなんだ」
リサは軽く肩をすくめながら、悪びれもせず返す。
確かに、店内の空気の流れは限られていて、窓際からわずかに流れ込む風は、この位置をほんのりと撫でる程度だ。
他の席ではほとんど動きを感じないだろう。
「でも、もう少し距離は開けたほうがいいんじゃないかな」
エリルが一歩近づき、気まずそうに視線を彷徨わせながらも、毅然とした声音で言い直した。
俺も、内心ではまったく同じことを思っていた。
たとえ風が多少涼しくても、リサの体温が隣でじわじわと伝わってくる。
せっかく風で涼めても、これだと台無しだ。
「……エリル、まだ左側が開いてるぜ」
そう促すと、エリルはわずかに瞬きをしてから、目線を泳がせつつ俺の左側に回り込んでくる。
小さく唇を動かしながら、ためらいがちに腰を下ろす。
「……お邪魔します」
その言葉は、声というより息に近かった。
そして気づけば、彼女の肩もまた、俺にかすかに触れている。
リサほど図々しくはないが、距離は似たようなものだ。
まあ、この世界の女性は男性に近づきたいというのは理解している。
こいつらが俺に対して多少の下心があることも分かっている。
それはいいんだが、暑いときは勘弁してくれ。今日は暑さに耐えられない。
「そこまで風が欲しいなら譲ってやるよ」
俺は二人を傷つけないよう、一言つぶやいてから席を変える。
風を欲しがったふりで近づいてきたのだ。これなら移動しにくいだろ。
俺は窓から少し離れた椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預ける。
天井の扇が回る音だけが、静かに空間に溶けていた。
ここは風が通らない。けれど、両隣の“発熱源”がいないだけで、だいぶマシだ。
それに、少し一人になりたかった。
考えることがある。
――騎士たちへの褒美。どうするか。
暑さでぼんやりした頭を一度リセットするように、目を閉じる。
心の中で一つずつ案を並べては、静かに弾いていく。
ふと、かすかに笑い声が耳に届く。
目を開けずとも、わかる。リサとエリルだ。
俺が離れたことを気にする様子もなく、二人で楽しそうに話している。
きっと、さっきまでの席取り合戦などなかったかのように、くだらない冗談を言い合っているのだろう。
「失礼いたします」
タイミングよく、男性店員が盆を片手に静かに現れた。
磨かれた銀のトレイの上には、薄く曇ったガラスの水差しと、滴を纏った三つのグラス。
卓上に置かれたそれを手に取り、一口。
ひんやりとした水が喉を通り、熱のこもった体の芯へとじわりと染み込んでいく。
そういえば、冷房はないのに飲み物を冷やす技術はあるのだな。
どこかに少量の氷でも保存しているのだろうか。
思考の隙間に生まれた小さな違和感を、ぽつりと口に出す。
「おい、この水どうやって冷やしているか知っているか?」
二人の会話に割り込むように問いかけると、リサがこちらに顔を向けた。
エリルは少し驚いたように瞬きをして、すぐに呆れたような微笑みを浮かべる。
「えー、そんなことも知らないのかい?」
口調はやわらかいが、その視線には「常識だよ」とでも言いたげな色が滲んでいた。
「知らん、教えろ」
あっさりと返すと、彼女は肩を落としながらも小さく息を吐く。
そして、まるで教師にでもなったように、手振りを交えながら説明を始めた。
「魔道具だよ。飲み物を冷やす造りの箱があるんだ。厨房の奥とかに置いてあってね、魔石の力で内部の温度を下げるの。魔冷箱て言うんだよ」
なるほどな、そんなものがあったのか。
だったらエアコンのような魔道具はないのだろうか。
「だったら、部屋全体を冷やす魔道具はないのか?」
何気なく口にしたその問いに、エリルはすぐさま首を横に振った。
「それは無理らしいよ。魔石の出力じゃ全体を冷やすのは難しいんだって。部屋が広ければ広いほど、魔力量が足りなくなるみたいで……」
魔石――それは高位の魔物から採れる魔力の結晶。
この世界で言うところの、充電式の高性能バッテリーみたいなものだ。
ただし、充電には魔力が要る。まあ、充電は慣れたら誰でもできるらしい。魔力は多少なりとも体内にある。
それよりも重要なのが、出力できるほどの魔石は高価で滅多に手に入らない事だ。
つまり、現代でいう冷房のような快適装置は、技術的にもコスト的にも、庶民はおろか貴族でさえ手が届かない贅沢品というわけだ。
……いや、自分で言うのもなんだが、大貴族であるネフェリウス家にさえ存在しないのだ。
そうである以上、この世界にはまだ“発明されていない”と言っても過言ではないのだろう。
「夏から逃げることはできんのか……」
思わずこぼれた愚痴のような言葉。
窓の外に目をやると、照りつける日差しが石畳を白く焼いている。
流れる風さえ、どこか熱を帯びている気がした。
俺はグラスに残った水をゆっくりと口に含む。
ぬるくなりかけたその一口が、喉を過ぎてもなお冷たさを想起させた。
――待てよ。
思考がそこで跳ねる。
訓練場は、日陰が少なく、地面は土。夏の熱が地面からも容赦なく跳ね返る。
騎士たちは日々、汗と土と鉄のにおいにまみれて剣を振るっている。
飲み物を冷やす魔道具。
それがあれば、彼女たちの疲労は少しでも和らぐはずだ。
いや、それどころか、士気すらも上がるかもしれない。
褒美はこれにしよう。
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