第十二話
歩き出した彼女の後ろ姿を追って、俺とリサも足を動かす。
市場の喧騒を抜けると、路地は次第に静かになっていく。
人の気配はまだあるものの、往来の活気は薄れ、どこか裏舞台に踏み込んだような空気が漂い始めた。
「表通りに出てないだけで、昔からあるお店。知ってる人は知ってるってやつだね」
エリルの声は振り返らずともはっきりと届いた。
案内慣れしているのか、歩幅も一定で迷いがない。
俺はふと、以前訪れたエリルの家を思い出す。
あれもまた、人目の届きにくい裏通りにあった。
……変わった奴は、変わった場所を好むのか。
そんなことを考えながら、俺は周囲を一瞥した。
やがて、通りのさらに奥。目立たぬ角をひとつ曲がった先に、その店は現れた。
木組みの外壁に囲まれた、やや低めの平屋。
見た目はどこにでもありそうな造りだが、扉の上にぶら下がった看板だけが、周囲と異なる雰囲気を放っていた。
「ここか?」
「うん、仕立て屋さん。名前は無いらしいよ。看板は昔からあのままだね」
俺は看板を見上げたまま、小さく息を吐く。
奇抜さはない。むしろ、地味ですらあるその佇まいに、逆に興味をそそられる。
「入ろうか」
エリルが扉に手をかける。
ギィ……と、控えめな軋み音が耳に届いた。
ゆっくりと開かれた扉の奥からは、布と木が混ざり合った、柔らかく懐かしい匂いがふわりと流れ出てくる。
一歩足を踏み入れると、外の喧騒がすっと遠のいた。
店内は静かで、整っている。
壁沿いには反物を巻いた棚が並び、所狭しと布地が積み重ねられていた。
色彩はどれも落ち着いており、派手さはない。だが、その一枚一枚に、確かな織りと質感へのこだわりがにじんでいる。
「……悪くないな」
俺がそう呟くと、リサが隣で少し驚いたように眉を上げた。
「てっきり、もっと奇抜な店かと思ってたぜ」
「失礼だな」
「いや、エリルの服見たら、誰だってそう思うだろ」
やれやれと言わんばかりにリサが肩をすくめる。
そのやり取りを聞きながら、エリルは口元に微笑を浮かべていた。
「私の服は特注だよ。普通のも、ちゃんとある」
そう言いながらも、どこか得意げな様子だった。
そんな軽いやり取りの最中――
奥にかかった薄いカーテンが、ふわりと揺れた。
そこから現れたのは、一人の女性だった。
銀髪をゆるく後ろで結い、くすんだ藍色の上衣に身を包んでいる。
装いは飾り気がないが、その一つ一つが丁寧に整えられており、何より所作に乱れがなかった。
静かな気配のまま、歩みを進め、俺たちの前で立ち止まる。
「いらっしゃいませ」
その声もまた、落ち着いた響きを持っていた。
穏やかで、芯のある声。店の空気と自然に溶け込んでいる。
「ミャトさん、お久しぶり」
エリルが穏やかに声をかける。
口調や立ち位置から察するに、どうやらこの女性とは顔馴染みのようだ。
――ミャト。
エリルが普段着ている、あの個性的な服も、この店で仕立てたものなのだろう。
「今回は大人数だね」
店主は、微笑を浮かべたままエリルを見やると、自然な流れでその視線をリサ、そして俺へと移した。
視線に含まれるものは好奇心でも警戒でもなく、ただ静かな観察と、わずかな興味――それだけだった。
「今回はどんな服を探してるんだい?」
「男性用。着心地がいいのが欲しいんだって」
エリルが手短に代弁する。
変に飾らず、まっすぐな言い方だった。
ミャトは少しだけ目を細めたあと、穏やかに頷いた。
「そうかい。……数は少ないけれど、見ていっておくれ。男性用はこっちだよ」
そう言いながら、ミャトさんはゆっくりと背を向け、店の奥へと歩き出す。
迷いのない足取り。後に続く俺たちに対して、振り返る素振りすらないのに、不思議と置いていかれる感覚はなかった。
途中、並んでいる女性用の衣装が目に入る。
一通り目をやってみたが、エリルのようなローブは置かれていなかった。
奇抜なものばかりを扱っている店ではない――どうやら本当に、仕立て屋として筋の通った店のようだ。
「ほれ、ここだよ。こんなのどうだい?」
案内されたのは、男性向けとおぼしき棚の前。
ミャトさんは到着するや否や、さっと数着の服を取り出してこちらに掲げてみせた。
素材は悪くない。仕立ても丁寧だ。
だが、色合いが派手すぎた。赤に金、緑に紫……
貴族の正装としてなら映えるかもしれないが、俺が求めているのはもっと落ち着いたものだ。
「……あまり好みじゃないな」
正直にそう告げると、ミャトさんは少しだけ首を傾げ、目を細めた。
「そうかい? 貴族様なら気に入ると思ったんだがね」
言葉に責めるような響きはない。ただ、事実として淡々と伝えるような口調だった。
やはりというべきか、当たり前というべきか――
彼女は最初から俺の身分を見抜いていたようだ。
それに、貴族は派手好きと見なされていたようだ。
大半の貴族はそれであっているがな。
ミャトさんが衣装を畳み直している間、俺も棚に目をやる。
品数こそ多くはないが、一着一着の風合いには目を見張るものがある。
そして――ふと、ある布地に目が吸い寄せられた。
「おお」
思わず声が漏れる。
棚の一角、他の衣装に紛れるようにして掛けられていたそれは、
深い藍――いや、かすかに紫が混ざったような、濃紺の布だった。
形は極めて簡素。だが、その控えめな作りの中に、不思議な引力があった。
開いた前合わせ、短い袖、全体を覆う軽やかな質感。
それは、間違いなく――甚平に似ていた。
確信するよりも早く、手が自然と伸びていた。
指先に触れた布の感触は、前世で慣れ親しんだそれとはわずかに異なる。
それでも柔らかく、芯があり、心地よい張りがある。
この世界の素材で、ここまで再現できるものがあるとは思わなかった。
「それが好みなのかい?」
背後からミャトさんの声がかかる。
俺はゆっくりと顔を上げ、振り返る。
驚きと懐かしさと、少しの疑念が入り混じった表情だったのだろう。
それを見て、ミャトさんは静かに目を細めた。
「それはね、鬼人族たちの衣装に寄せて作ったものだよ」
鬼人族――
生まれつき優れた身体能力を持ち、戦や狩猟に長けた種族だ。
その存在は知っていたが、実際に見たことはない。
ネフェリウス家の領地にはいない。どの領地に住んでいるのだろうか。
一度訪れてみたい。
日本の文化に近しいなら、親に無理言って鬼人族に婿入りしようかな。
冗談とも本気ともつかない思考が、頭の中をよぎる。
元より、この世界は女性のほうが多く、男性は希少だ。
婿入りの申し出も、拒否される可能性は低い。
鬼人族が日本文化に近い暮らしをしているというなら、それは……一考の価値がある。
「試してみるかい?」
ミャトさんの一言で飛んでいた意識が現実に帰ってくる。
「ああ」
軽く頷きながら返すと、彼女は目元を緩めて小さく笑った。
「それなら、奥で着替えるといい。あたしは大きさや色違いのものをいくつか持ってきてみるよ」
言葉の調子は変わらず穏やかだが、その手際には職人らしい気配りと慣れがあった。
客の要望に応じつつも、先回りして動いてくれる――いい店だな。
「助かる」
そう答えて服を丁寧に抱え、俺は店の奥にある小さな仕切りの向こうへと足を運んだ。
軽い布のカーテンが揺れ、外の空気が遮断される。
急に静けさが深まり、耳の奥に心音だけが微かに響く。
手にした服を見つめながら、思う。
こうして“自分の意思で服を選ぶ”のは、これが初めてかもしれない。
今までは親や使用人が用意した衣装を身にまとっていた。
ゆっくりと着替えを終えると、服は驚くほど自然に体になじんだ。
ごわつきも、窮屈さもない。
まるで最初から、自分の体格を測って仕立てたかのような着心地だ。
この店には、大きな鏡はない。
全身がどう映っているかはわからないが、それでも、この軽さと涼しさ、そして肌触りは、十分に気に入った。
似合っているだろうか。
リサやエリル聞いてみるか。
こういう時の第一声、なんていえばいいんだろうな。
何とも言えない気恥ずかしさがある。
カーテンを開けるとリサやエリルと目が合う。
「どうだ?」
ようやく絞り出した一言は、我ながらひどく素っ気ない。
だが、それしか出てこなかった。
数秒の沈黙ののち、先に口を開いたのはリサだった。
「似合ってるぜ」
それは、からかいの色を含んでいなかった。
真面目に評価してくれたのだろう。
「うわぁ、家に飾りたいぐらいだよ」
エリルも、目を輝かせながらそう言った。
感想としては過剰だが、彼女なりの褒め言葉なのだろう。
「そうか」
こうも褒められると気分がいい。
「それ、買うのかい? サイズが同じで、色違いがもう一着あるよ」
背後から、ミャトさんの落ち着いた声が聞こえる。
振り返ると、彼女はもう一着の服を手にしていた。
それは――漆黒の生地で仕立てられたものだった。
「……黒、か」
思わず、声が漏れる。
深く、吸い込まれるような黒。
光の当たり具合によって、わずかに藍が滲むようにも見える。
派手ではない。だが、明確な存在感があった。
「印象が変わるな。落ち着きがある。こっちは、少し……威厳がある」
「そうだろうね。紺は穏やか、黒は静かな強さを感じさせる。両方似合ってるよ」
ミャトさんはそう言いながら、服を俺の前に差し出してくる。
その手つきは誇らしげというより、ごく自然。
「両方、買っていくかい? 素材は同じ。着心地も変わらないよ。交互に着れば、どちらも長く使える」
俺は少しだけ視線を落とし、二着の服を見比べる。
紺と黒――どちらにも、それぞれの良さがある。
「……そうだな。両方、もらおう」
短く告げると、ミャトさんは静かに目を細めてうなずいた。
「着てきた服に着替えるかい?」
柔らかく問いかけてくる声に、俺は首を横に振る。
「いや、このままでいい」
そう返しながら、改めて袖を整える。
外は暑い。こちらの方が風通しも良く、どう考えても過ごしやすい。
そして、今はそれ以上に気になることがあった。
「そんなことより、店主。鬼人族とあったことがあるのか?」
視線をミャトさんに向ける。
鬼人族の文化が日本に近いのならば、ぜひとも詳しく知っておきたい。
可能であれば、直接会ってみたいとすら思う。
「昔、一度だけこの店に来たことがあったんだよ」
ミャトさんは遠くを見るような目をして、懐かしそうに答えた。
その語り口に、作り話の気配はない。
「そいつは今どこにいるか知っているか?」
わずかな期待を込めて問いかけたが、返ってきたのは首を横に振る仕草だった。
「さすがにそれは知らないよ。それに、店に来たといっても、ほとんど会話はしていないんだ。ただ、印象に残っていてね。あの服も、そのときに見かけた姿を思い出しながら、見様見真似で仕立てたものさ」
「……そうか」
残念だが、仕方がない。少しずつ調べるとするか。
スマホもネットもない世界だが、情報が消えてなくなるわけではない。
街には人がいて、噂があり、記録が残っている。
貴族としての立場を活かせば、領地の境界や各地の風習も調べやすいはずだ。
そんな考えが頭をよぎったところで、ミャトさんが声をかけてきた。
「じゃあ、お会計ね。二着で――になるよ」
そこそこの値段だが、生地も縫製も確かだ。
むしろ安いくらいだろう。
「ああ」
小袋から銀貨を数枚取り出し、木のカウンターの上に並べる。
「確かに。ありがとね。気に入ってくれて、嬉しいよ」
ミャトさんは柔らかく微笑み、受け取った銀貨を布の袋に収めた。
その所作もまた、無駄がなく静かだった。
俺は一礼し、小さく「助かった」と告げてから店を後にする。
扉が控えめな音を立てて閉まり、柔らかな木の香りと静謐な空気が背後に遠ざかっていく。
石畳の道を歩き出して少ししたところで、隣を歩くリサが口を開いた。
「本気で鬼人族に興味あるんだな、ミズキ様」
口調は軽いが、目にはどこか探るような色がある。
「まぁな。……どうせなら、会って話してみたい」
俺が素直にそう返すと、リサはわずかに眉をひそめた。
「服見ただけでそんなに思うところあったのかよ」
「文化が気になっただけだ」
短く返すと、リサは「ふうん」と興味なさげに鼻を鳴らした。
だが、それ以上は追及してこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます