第5話 「お迎えに来ました」

 残されたのは再び静かな、暗い空間だけ。


「――――どうして」


 私は膝を抱えて唇を噛み締めた。


 水を飲んだせいか、乾いたはずの涙が戻ってきて、頬をだらだらと水がつたう。


 今まで私が見てきた世界は何だったのだろう。


 穏やかで優しい婚約者、仲の良い将来の義兄と義姉。


 ずっとそう思ってきたのに。――私は、何を見ていたのだろうか。何も見えていなかったのだろうか。


 そのとき、ずきりと頭の奥が傷んだ。


 暗い冷え冷えとした牢に1人きり。


 ――前にも、


 頭の奥が割れるように痛む。


 ――前にも、こんなことがあった気がする。


 そんなはずがないわ、と言い聞かせる。

 こんなことが二度もあってたまるものですか。

 私は膝を抱える手に力を込めた。


 その時、足元に何か小さな生き物が動いた気配がして目を凝らした。


「――トカゲ?」


 指先ほどの大きさの小さなトカゲのような生き物が、びくっとした顔でこちらを見上げているのが見えた。その様子に思わず私は気が抜けて、微笑んだ。


「――1人きりじゃなかったのね」


 自分以外の生き物がこの空間にいるというだけで、何だか温かい気持ちになった。

 水差しの水をパンが乗っていたお皿に少し注いで、差し出した。


「お水、飲む?」

 

(トカゲってお水飲んだかしら)


 差し出してからそう思ったけれど、そのトカゲは一口お皿に口を近づける。

 じっと見ていると、なんと頭を少し下げるような様子を見せた。


「礼儀正しいのね」


 見間違いかとびっくして、それから微笑ましくなって思わず噴き出した。

トカゲはじっと私を見つめると、チョロチョロと暗闇に消えていった。

 少しだけ気分がましになった私は、膝を抱えて壁に寄りかかると、眠った。


 ◇


 地下牢に光は差し込まないので時間の流れがわからない。

 オーウェン様とアリエッタ様が訪れてから、どれくらい経っただろうか。

 また扉が開いた。

兵士が入ってきて牢の戸を開けて、私を連れ出した。


 いきなり明るいところに連れていかれて、私は眩しくて目を瞬いた。

 ずっと暗闇にいたので、視界がはっきりとしない。


 兵士たちは私を侍女に引き渡し、汚れたドレスを質素な綿のワンピースに着替えさせた。


 明日国王陛下に会ってもらうとオーウェン様は言っていた。

 これからそこへ連れて行かれるのだろうか。


 私は兵士に囲まれたまま、玉座の間へと連れられた。


 玉座に続く赤い絨毯の周りには、貴族たちが取り囲むように集合していた。

 そこをゆっくりと前に歩いて行く。


「お姉さまっ」


 弟の声がして私は振り返った。

 お父様……お母様……、それにお母さまに抱えられたディランが心配そうに私を見つめている。兵士が家族を取り囲むように立っていて、傍らにはオーウェン様が立っていた。


「ディラン、こっちにおいで」


 彼は、お母さまの手から抜け出して私の方へ向かおうとする弟を抱きかかえると、私を見つめてにっと笑った。


『余計な事をすれば、この子がどうなるかわかっているだろう』


 そう言いたいのが伝わってきて、私はぎりっと唇を噛む。

「立ち止まるな」と兵士が腕を引っ張った。


「エリス=ハウゼンをお連れしました」


 促されるまま、玉座の前で跪いて顔を伏せた。


「エリス――お前が、マーティンのワインに毒を入れたというのは本当か?」


 国王陛下の声が上から降り注ぐ。


「私――」


 『やっていません』と声高に叫びたかった。

 けれど――家族の顔が頭をよぎる。私のことを愛してくれる、大切な両親。生意気だけれどかわいい弟のディラン。我が家に尽くしてくれる使用人たち。私ひとりの命で、彼らが助かるのならば。私は顔を上げ、はっきりと声に出した。


「私が、やりま―――」


 その時、けたたましい地響きが玉座の間を揺らした。全員が天上を見上げる。


 バリン!とガラスが割れる音が響き渡った。


 天井のステンドグラスを突き破って、巨大な影が玉座を覆った。

 大きな羽音を立てて、『それ』はずしんと王の後ろに着地した。


「竜!?」


 誰かが叫ぶ。

 そう、それは、四枚の翼の生えた、巨大な赤いトカゲのような姿の――、

 昔話や英雄譚の挿絵でしか見たことがない、竜だった。

 四枚羽の赤い竜は、周囲を圧倒するように一声咆えた。


「貴女は、どうしてやってもいないことを『やった』と言うんですか! いつも!」


 聞きなれた声が耳に飛び込んで私は驚いてぽかんと口を開けた。

 いつも私に口うるさくいろいろ言ってくる――この声の持ち主は。


 竜にまたがっているのは、この状況に不釣り合いな、ぱりっとした執事服を着た長身の黒髪の男。――彼は私の屋敷の執事見習のジェイクだった。


「――ジェ、ジェ?」


 予想外の人物の登場に「ジェイク」と彼の名前を呼ぼうとして、言葉が喉で突っかかる。


「お迎えに来ました。お嬢様」


 ジェイクはひらりと身軽に竜から飛び降りて、私に手を伸ばす。

 あまりに普段と変わらない様子で彼が話すものだから、いつも通りの口調で私も返事をしてしまう。


「――お迎えとか、そういうことじゃなくって――ちょ、何で、あなた、どういうこと?」


 それに、


「『いつも』って、どういうこと――」


『やってもいないことを『やった』と言う』


 まるで、過去にもそんなことがあったかのような言い方。


「『いつも』ですよ!」


 そう言って叫ぶジェイクの青い瞳は潤んでいるように見えた。

 私は呆気にとられて押し黙った。

 いつも私のことを呆れたような顔で見てくるジェイク。

 彼のこんな必死な顔は見たことがない。


 そのとき、ずきりとまた頭の奥が傷んだ。


「思い出してください、聖女様」


 ジェイクはそう言いながら、竜の背から何かをかつぎ降ろした。


「マーティン!!!」


 国王様が大声で叫ぶ。

 それは、シーツに包まれた顔面蒼白の王太子だった。


 脇に並んだ兵士たちが一斉に剣を構える。

 と同時に、玉座の間の扉を押し開けて衛兵が一気に部屋に雪崩れこんだ。


「国王様――! 竜が! マーティン様のお部屋が破壊され、何者かが――!」


 広間に走り込んだ衛兵は、王の後ろで牙を剥く赤い竜を見つけ、皆目を見開いて制止した。

 ジェイクはそんな周囲の様子を気にする素振りもなく、私に青い瞳を向ける。


「何か、思い出せますか? 聖女様」


「聖女? って言われても……」


「貴女の中に、眠っている記憶があるはずです。聖女様――いえ――マリーネ様」


 『マリーネ』


 その名前が頭の中に響き渡る。


 瞬間、自分のものではない、だけど、実際に自分が見たような映像や言葉が急に頭の中に渦巻いた。



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