第48話 黒髪の乙女①
五月の中旬だが、京都の街にはもう夏の気配が漂い始めていた。僕はこれから当分続きそうな暑い日々を想像して、既に憂鬱だった。
「じゃあ、お先に」
時刻は十七時を回ったところだった。帳場に座る魔美に声をかけて帰ろうとしていた。突然ガラス戸が開き、一人の女性が入ってきた。
「あ……」
鈴を転がすような、品のある声だった。
そこに立っていたのは古道具屋の埃っぽい空気には似つかわしくない、黒髪の乙女だった。
年齢は僕と同じ二十歳前後だろうか。色素の薄い肌に、丁寧に手入れされた艶やかな黒髪。着ているワンピースもブランドこそ解らないが、仕立ての良さが一目でわかる。
それにしても深村堂には似つかわしくない客だ。月見里屋ならともかく。
「
魔美が驚いて帳場から立ち上がる。こいつがこんな声出すなんて珍しい。
「……魔美ちゃん!」
彼女は感極まったように魔美の名を呼ぶと、そのまま駆け寄って魔美を抱きしめた。
「え、ちょ、成香さん?」
「よかった……元気そうで本当によかった……」
彼女は魔美の肩に顔を埋め、声を震わせている。どうでもいいが魔美に密着すると、彼女の華奢さが目立つ。
「魔美ちゃん、大変だったね……お父さん亡くなって、おまけに一人でお店やって……心細かったでしょう……」
「まあ、今んとこなんとかなってます」
「ごめんね、すぐに駆けつけられなくて。でももう大丈夫だから」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で魔美を見つめた。
「そうだ。私、この近くに引っ越して一人暮らししてるんだ。部屋なら余ってるし、いつでもウチに住んでいいよ。自分の家だと思ってくれていいから」
麗しいシスターフッドと解釈しかけたが、魔美が少し困ったような表情を浮かべていて気づく。
……なんだか重いな、この人。
「成香さん、おおきに。心配してくれて嬉しいわ」
「じゃあ……」
「でも今のところ、ここの暮らしも悪くないと思ってるんです」
成香さんは一瞬、悲しげに眉を寄せたが、すぐに気を取り直したように微笑んだ。
「そっか……そうだよね。魔美ちゃんは強いね」
一連のやり取りを見ていた僕にようやく彼女が気づいて魔美を放す。
「あ、ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いえ……魔美の知り合いですか?」
「はい。
そう言って成香さんは深々とお辞儀をした。仰々しい名前の響きに僕は呆けたように突っ立っていたが、慌てて頭を下げる。
「明玖院家は名家で、今は不動産に教育事業と色々手広く扱っているで」
魔美の補足でやっと像を結ぶ。物語から抜け出てきたような黒髪の乙女は正真正銘のお嬢様らしい。
「ところで成香さん、今日はどうしたん?」
魔美にそう水を向けられて、成香さんは表情を曇らせた。
「あの……最近は深村堂さんが不思議な事件の相談に乗って貰えるって話を聞いてきたんだけど、合ってる?」
「多分、合ってると思う。なあ、祟?」
肯いた僕を成香さんはきょとんとした表情で見る。
「主に僕がそういう仕事を引き受けてます」
成香さんは安堵の色を浮かべ、こう切り出した。
「最近、マンションの部屋で妙な気配がするんです」
わあ、出た。怪異案件だ。
「詳しく聞かせてもらえますか?」
「なんというか、誰かに見られているというか……上手く説明できない息苦しさのようなものを感じるんです」
うーん……これだけだとなんとも判断できない。
「誰かに相談は?」
「いえ……実家に相談しようかと思いましたが、大事になったら戻って来いと言われそうで。私、これでも念願の一人暮らしを始めたところなんです」
「確かに切実ですね」
成香さんは魔美に向き直ると、懇願するように手を握る。
「魔美ちゃん。今からでもウチに来て、調べてくれない?」
魔美は考え込むようにしばし目を閉じた後、何か閃いたかのようにこう言った。
「それやったら祟を連れて行ったらいいと思います」
「魔美ちゃんは?」
成香さんは不安そうだ。まあ、自分の家で僕と二人きりになるんだから当然の反応か。
「ウチはまだ店開けとかなあかんし。そんな心配せんでも大丈夫ですよ。祟は人畜無害な童……草食系男子なんで」
成香さんは僕と魔美を何度も見比べて、それから肯いた。
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「タクシーという手もありますけど、少し歩きませんか? そんなに遠くはないんです」
成香さんからそう提案され、僕は賛成した。
深村堂から成香さんが住むという御所西のマンションまでは二十分ほどの距離だろうか。徒歩という移動手段は夕暮れの風を堪能するのには丁度良かった。
僕は会話が下手だ。だからできる範囲の世間話をして成香さんの反応をうかがった。やがて魔美の話なら反応がいいことを発見し、ようやく彼女の口を滑らかにすることに成功した。
「魔美ちゃんはすごいです。自分の足で立って、お店を守って……私なんて親の用意した籠の中にいるだけで」
成香さんは魔美の話になると饒舌になる。僕はつい魔美の悪口を言ってしまいそうになるので舌を噛んで耐えた。
「成香さんも一人暮らしをしてるなら自立してるじゃないですか」
「いいえ。マンションも生活費もまだ全部父持ちですから」
自嘲気味に笑う彼女の視線の先に、巨大な建物が見えてきた。
「あれが私の住まいです」
京都御所の西側、烏丸通沿いに聳え立つ真新しいマンションだ。周囲の景観条例ギリギリを攻めたような高さと、黒を基調としたモダンな外観が威容を放っている。
「……ああ、あのマンションですか」
僕はこの建物に見覚えがあった。三年ほど前、ニュースになったのだ。
そこは元々、古い神社の敷地だった。維持費の高騰から神社が土地を手放し、デベロッパーが買い取ってマンションを建てた。結構な反対運動もあったと記憶している。
成香さんは顔認証でオートロックを解錠し、「どうぞ」と僕を連れて入館する。僕らはそのままエントランスを抜け、エレベーターへ乗り込む。当然のように最上階に辿り着いたケージに僕はため息を漏らしそうになった。
「どうぞ」
通された部屋は明らかに女性の一人暮らしには広すぎた。おそらく3LDKとかだろうか。広大なリビングの窓からは眼下に京都御苑の緑が一望できる。
「散らかっていて恥ずかしいのですが……」
成香さんはそう言うが、リビングはモデルルームのように整頓されていた。彼女なりの謙遜なのだろう。
僕は部屋を見渡しながら、ふと一つの疑問を抱いた。
これほど豪華な部屋に住み、明玖院家の令嬢として潤沢な資金があるなら、なぜ魔美を援助しなかったのだろう?
深村堂の経営難は魔美の知り合いなら当然知っていた筈だ。
さっきは店で「ここに住んでいい」と言っていたが、その前に商品を買い取るとか、金銭的な支援を申し出ても良さそうなものだ。
いや、違うか。少し歳が離れていても友人関係ならかえってそこまで踏み込んだりはしない。何より金が絡めば関係性は変質してしまう。成香さんはそれを恐れたのかもしれない。
それにお父上から経済的な支援を受けている立場では、魔美の"身請け"は無理だろう。
「どうぞ、こちらへ。お茶を淹れますね」
高そうなソファを勧められた直後だった。ピンポーン、とインターフォンが鳴った。
「あ、すみません。業者の方です。予定よりも早く来られたみたいで」
成香さんはモニターを確認し、オートロックを解除する。
「業者?」
「はい。パソコンの調子が悪くて、メンテナンスをお願いしていたんです」
ほどなくして玄関のチャイムが鳴り、一人の青年が入ってきた。
作業着姿の、僕とそう歳が変わらなさそうな男性だ。
「お邪魔します。ヤソハチの倉田です」
ヤソハチ……パソコン販売で有名なショップだ。組み立てから修理まで一通りやってくれるし、アフターサービスも行き届いているという。僕も生活に余裕が出たらここでゲーミングPCを買おうと思っていた。思ってもう三年になるが……。
「よろしくお願いします。あちらの部屋のパソコンなんですが……」
成香さんに案内され、倉田という青年はリビングの隣にある部屋へと入っていった。
チラリと見えたその部屋にはお嬢様の部屋には似つかわしくない無骨で巨大な黒いタワー型のパソコンが鎮座していた。バキバキのハイエンドモデルだ。
それだけじゃない。机の上には本格的なマイクやオーディオインターフェースのような機材も並んでいた気がする。
成香さんが部屋から戻ってきたので、僕は思わずこう尋ねてしまう。
「……もしかして音楽でもやられてるんですか?」
僕が小声で尋ねると、成香さんは少し慌てたように答える。
「家を出ても実家とはビデオ通話をすることが多くて。機材が必要だと父に言ったら、なんか一番高いものを勝手に……お恥ずかしい」
あれか。金持ちがやるという「この店で一番高いものをくれ」か。普段、金持ちを羨むことはそんなにないのだが、最高級のパソコンを見せられると心がグラグラする。
「あの部屋は業者さんが作業してますが、他のところから調べていただけますか?」
「はい」
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リビング、キッチン、寝室、バスルーム……成香さんと一緒に各部屋を見て回ったが霊的な違和感はなかった。
「……神田さん、いかがでしょうか?」
リビングに戻ってきて、不安そうに僕を見つめる成香さんに正直な感想を伝える。
「今のところ、霊的な違和感はないと思われます」
まあ、僕は霊能者ではないが、赤葉荘や料亭
「ただ他の可能性を考えてみるべきかもしれません……」
その時、作業を終えたと思しき倉田が出てきた。
「終わりました。内部のファンの回りが悪くなってましたね。応急処置しましたが、初期不良かもしれないので交換パーツを持って来ます」
「ありがとうございます」
「ではこちらにサインを」
成香さんがサインをし、倉田を見送る。倉田がリビングを出ていく瞬間、こちらを振り返ったが……何とも言えない瞳をしていた。
あれはどういう感情なのだろうか。ブルジョアとプロレタリアの埋めがたい差に絶望していただけかもしれないが……解らん。
しかしまあ……一時間以上は一緒に成香さんと過ごしたわけだが、話せば話すほど小説に出てくるような黒髪の乙女という感じがしてドキドキしてしまう。多分、出会い方次第では一方的に好きになっていたかもしれない。
ただ、その時は悲しきストーカーが誕生していたわけだが。
そこまで考えて、成香さんの部屋で二人きりであるということに改めて気づいた。魔美は無害と保証したが、初対面の成人男性と二人きりになるストレスは決して軽いものではないだろう。
今日はもうお暇しておこう。
「……とりあえず今日は引き上げます。また別のアプローチが必要な気がするので」
僕はリビングを出て、玄関に向かった。
「はい……ありがとうございます。心強いです」
成香さんは深々と頭を下げる。その姿を見てから僕はスニーカーを履き、靴紐を結び直した。
「では失礼します」
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僕はマンションを出て、烏丸通を北上し始める。このまま今出川通まで行って、東に向かえば家に帰れるだろう。
もう日が落ちかけ、街灯が灯り始めている。歩道は帰宅ラッシュの時間帯で、そこそこの人通りがあった。車の往来も激しい。
調査の疲れか、少し足が重い気がする。いや、気のせいか。
ちょうど横断歩道の信号が青に変わる。周囲のサラリーマンや学生たちが一斉に歩き出し、僕もそれに続く。
歩道から車道へ降りる、その段差に右足をかけた時だった。
右足の土踏まずあたりに、チクリとした痛みが走った。
小石でも靴の中に入っていたのかと思ったが、すぐに誤解だと解る。鋭利な何かが、靴底を突き破って皮膚に触れたような感覚。
予期せぬ痛みでバランスを崩す。そして横断歩道で盛大に転んだ。自重の乗っかった転倒は痛い。ましてアスファルトの上なら尚更だ。
しかし次の瞬間、転んだ僕に気づかずにタクシーが曲がってきた。痛みに呆然としている余裕はなく、僕は手を振って自分の存在をアピールする。
だが手遅れのようなクラクションが耳をつんざく。そして強烈なヘッドライトの光が視界を白く染めた。
――轢かれる。
鼻先を熱風が掠めていく。だが衝撃はない。タクシーは急ブレーキをかけながら、僕の目前数センチを通過していった。
「バカ野郎!」
運転手はそう叫び捨てて、僕の抗議も聞かずに走り去って行く。まあ、事故にはなっていないから僕にはこれ以上何か言う権利がない。
ひとまず這うようにして横断歩道から歩道へ移動する。冷や汗で濡れた手のひらを地面につき、荒い呼吸を整えた。
心臓が早鐘を打っている。運が悪かったら跳ね飛ばされていた。しかし何が起きたんだ?
僕は震える手で痛みの原因である右足のスニーカーを脱いだ。
そこには一本の釘が刺さっていた。長さは二センチほどだろうか。それが靴のゴム底を貫通し、中敷きを突き破って、先端がわずかに顔を出していた。
邪魔にならない場所に移動して、靴下を脱いで足裏を確認すると土踏まずに赤い点が一つあった。どうも血は滲んでいないので皮を突き破るほど刺さりはしなかったようだ。
痛みを感じた瞬間にバランスを崩して転んだお陰で、かえって助かったのかもしれない。まあ、破傷風の心配はしなくてもよさそうだ。
よりにもよって釘を踏むなんて……なんて不幸な事故だろう。
だが僕はスニーカーに刺さった釘を見つめながら、徐々に背筋が寒くなるのを感じた。
おかしい。単に転がった釘を踏んだところで貫通などしない筈だ。先端を上に向けて綺麗に立っていた釘を踏んだとしか思えない……ましてやこんな短い釘なのだから。
ただ、もしも釘がもう少し長ければ土踏まずを易々と貫通して、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。
気味が悪いなんてもんじゃない。まるで呪いだ。
僕は振り返り、さっきまでいたマンションを見上げた。まるで闇の中に聳え立つ黒いモノリスだ。
かつて神様が住んでいた土地を無理やりコンクリートで固めたりなんかしたら呪いの一つや二つ生まれたっておかしくはない。
ましてあんな高級マンションなのだ。人々の妬み嫉みで呪いが強化されたっておかしくない。
釘を踏み抜いたわけでもないのに、足の裏がズキズキと脈打っている。僕は気軽に受けたこの案件から既に苦戦の匂いを嗅ぎ取っていた。
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