第47話 妖食倶楽部⑥

 看破という言葉がある。

 ついさっきまで富豪の老紳士に見えていた丹那さんが、今や妖怪……更に言えば飽食の化身にしか見えない。ようやくその本性を看破できたということかもしれない。


 これまで関わってきた案件でも様々な人間を怖いと感じてきたが、その怖さの源泉は即物的で利己的だった。対してこの人はもっと得体の知れない怖さがある。


「ちょっと失礼」

 そう言って丹那さんはネクタイを緩めた。そういう取り決めでもあるかのように、真妻さんは丹那さんの前にグラスを置き、血のように真っ赤なワインを注いだ。


 多分、正体を看破したというのは僕の思い上がりだ。ちょうど今ネクタイを緩めたように、敢えて本性を覗かせてくれたのだろう。

 僕を怖がらせるために。妖怪は怖がってくれることを何より喜ぶから……。


「さて、クイズの答えは用意できたかな?」


 そして今、僕は丹那さんから妖食倶楽部の目的を問われている。丹那さんなりに考える時間をくれたのかもしれないが、クイズの答えどころではなかった。

 でも仮説らしいものは僕の中に既にあった。だからそれを口にすることはできる。


「あくまで僕の想像ですが……最初は真妻さんが丹那さんに未知の味を提供する会があったのではないでしょうか」

 僕は元木さんの書いた『未知の肉』を思い浮かべながら喋る。


「しかし食通である丹那さんは真妻さんの料理では心から満足できなかった。だからせめて一緒に食べるゲストを呼んで、その反応を楽しむことにしたんです」


 未知の味を楽しむ人間たちの感情を啜る……失礼すぎるのでそこまでは言わなかったが、多分そのニュアンスは伝わったとは思う。

「概ねその通りだ」


 丹那さんはグラスを回しながら、独り言のように語り出した。

「私はね、世界中のありとあらゆる美食を食べ尽くした。金と力で手に入るものは全てだ」


 その美食の範囲がどこまでなのか、怖くて訊けなかった。問えば答えてくれるとは限らないし、本当のことを答えてくれるとも限らない。ただ、不用意に問えば恐怖で浸食される危険性がある。


「お陰で舌が肥えてしまった。いや、そんな生やさしいものではないな。食べる前から味の想像がつくし、口に運んだところでそれはただの答え合わせだ。感動もなければ、驚きもない。ただのタンパク質の摂取だ」


 そう言いながら丹那さんは僕たちが食べたばかりの空の皿を指差す。

「もっとも真妻君の料理は私の予断をズラしてくれる。少なくとも食べる前から味が解るなんてことはない……それだけでも食欲は湧く」


 裏を返せば「口に入れたら解る」という話だ。真妻さんが視線を泳がせたのもその悔しさからか。


「だから君たちが必要なんだ。まだ世界に飽きていない君たちが用意された料理に驚き、戸惑い、感動する様を見る。その新鮮な反応を摂取することで、私はようやく疑似的に『未知の味』を感じることができる」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。

 僕はずっと勘違いをしていた。


 テーブルの上には美しいカトラリーと皿が並んでいる。僕は客としてそこに座り、料理を振る舞われているつもりだった。

 だけど違ったんだ。本当に皿の上に載せられていたのは僕の方だった。


 そして今、丹那さんから眼で舐められているのが解る。じっくりと味を確かめられている気分だ。


「そう、私にとっては君も料理さ」

 恐怖で舌が痺れ、喉が硬直しかけている。それでも何か言わなければ、僕はこのまま餌にされてしまう。


 せめて何か抵抗しようと、僕は乾いた喉を張り付かせながら恐ろしい問いを口にした。

「……あなたは人間の味も知っているのではありませんか?」


「いやあ、流石の私だってね……」

 そう言って丹那さんは答えをはぐらかす。しかしその目はどろりと濁って、底が見えない。本当に食べたことがあるのか、あるいは単なる悪趣味な冗談なのか……僕には読み取ることができない。


「ところで人肉を食べた体験談は古今東西数あるが……人間の肉は美味いとも不味いともいう。君はどう思うかな?」

 今度は逆に問いかけられたが、僕は口を噤んだ。


 ここで「不味いんじゃないですか」とか「美味いらしいですね」と答えることは僕の内面を開示を意味する……そして、この妖怪を喜ばせる味付けになってしまう。

 だが丹那さんは僕の沈黙を見てとると、今度は笑顔でこう続けた。


「私が思うにそれはどちらも真実だろう。どんな肉だろうと素材と調理法が悪ければ不味くなる。真妻君ぐらいの腕前は必要かな?」

 真妻さんは肯きも瞬きもしなかった。妖怪と接する術を心得ているのか、それとも彼もまた妖怪なのか。 


「人間は個体ごとに食性や生活習慣が違いすぎる。美味しく食べようと思ったら食事や運動量の管理は必須だろうね。そうだな……できれば性別や年齢も揃えた方がいいかもしれない」


 その言葉で僕は桃娘タオニャンという中国の伝説を思い出していた。桃ばかり与えられて育てられた少女はやがて全身から桃の匂いを漂わせ、体液まで桃の果汁のようだという。


「もっとも桃娘は効率が悪いと思うけど。食事が桃だけなんて発育にも良くない」

 心を読まれた?


 淡々と語るその口調には冗談の気配がない。本気とも嘘ともつかないその言葉を聞いて、僕は本能的な恐怖で絶句する。


 いや、落ち着け。これは単に桃娘のことを連想するように、思考を誘導されただけだ……。

 このままでは食われる。僕という人間の中にある感性や尊厳までしゃぶり尽くされて、空っぽにされてしまう予感があった。


 この妖怪に食われないためにはどうすればいい? せめて未知の味を提供できれば……。

 そこまで考えて、閃くものがあった。


「あの、Vtuberってご存じですか?」

「なんだい、それは?」

 桃娘とは正反対の存在としてVtuberが浮かんだので敢えて選んだのだが、僅かでも戸惑いを引き出すことには成功したようだ。


「3Dモデルというガワを被って活動する、画面の向こうにしか存在しえないバーチャルなアイドルですよ。実体も匂いも、まして味なんかもない……なのに若者は夢中になっています」


「理解に苦しむな」

 丹那さんは視線を泳がせた。

「たとえ絶対に手の届かないアイドルであっても、肉体さえあれば接触の可能性は感じられる……しかし絶対に接触できない存在に焦がれて虚しくはないのかね?」


「虚しいとか、虚しくないとかじゃないんです。敢えて言うなら……」

 少しタメた後、僕は力強く言い切る。

「絵に描いた餅を味わう気概です!」


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 確かに丹那さんは僕の知らないことを沢山経験している。だが同様に、僕も彼が知らないことを経験している。そんな当たり前の事実に気づいたのだ。

 だったらそれをぶつけて邪を払う。魔を怖がらせる。


 ややあって、丹那さんはこう切り返してきた。

「……しかし餅の味を知らなければ、絵に描いた餅も楽しめまい?」

 正論だ。その尋ね方に僕は微かな怯みを感じた。


「それですよ。本物の餅の味を知らないぐらいで困りますか?」

「何?」

「何より僕は女性をよく解りませんが、困ってはいません」


 隣で元木さんが慌てているのが解った。連れてきた若造が主催者に変なことを言い始めたのだ。成り行き次第では責任を問われかねない。

 しかし構うことはない。僕は続けた。


「未知の味への好奇心と欲望が人間を駆り立て、文明を発展させてきたことは否定しません。しかし今の社会は人間を煽りすぎています。例えば性産業……日々、無数のありもしない性的嗜好が開発されていますが、その内のどれだけが甘いのか怪しいものです」


「受け手が性から隔てられているのをいいことに、送り手は平気で嘘をついて騙しにかかる……というわけか」

 僕は肯く。流石に成功者は頭の回転が速い。


「しかし、その理論ならやはり女性を知らないことはマイナスなのではないかね?」

 今度は僕は首を横に振った。

「渇望を煽られて破滅するのも馬鹿らしいですけど、そもそも普通の人間はあれもこれも選べるほどの余裕はないんです。むしろほとんどを諦める必要があると言いますか。つまり……」


 僕は改めてタメて、また言い切る。

「この先、大切なのは……ブドウを酸っぱいと決めつける勇気です!」


「「「ブドウを酸っぱいと決めつける勇気!?」」」

 複数人の声がハモる。丹那さんだけでなく、他の人も戸惑っているようだ。


「酸っぱいブドウ……イソップ童話かね?」

 丹那さんが尋ねる。

「ええ。あれは負け惜しみの寓話として語られますが、僕は現代人のための教訓話だと思っています」


「……聞かせてくれ」

「どうせ手に入らないもの、あるいは今すぐ手に入れるべきではないものを『どうせ酸っぱくて不味い』と決めつけること。それは時に、無尽蔵に膨れ上がる欲望から自分を守ります」


 部屋は静まり返っている。完全に引かれている。だが一方で、妖怪に支配されているような重苦しさはない。


 長い沈黙が続いた。

 やがてクックッ……と低い笑い声が聞こえてきた。

 丹那さんが肩を震わせて笑っていた。


「……ははは! 傑作だ! 五十も若い子に人生の楽しみ方をレクチャーされるなんて、初めての体験だ」


 丹那さんは涙が出るほど笑った後、憑き物が落ちたような顔で僕を見た。

「なるほど、私にはもう持ち得ない視点だったよ。何せ、全ての葡萄を食べ尽くしてしまったからね。どれが甘くてどれが酸っぱいか、全部知ってしまったからね」


 丹那さんは満足げに頷くと、改めて僕に向き直った。

「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったな」

 隣で元木さんが息を呑んだのが解った。僕は居住まいを正し、こう名乗った。


「深村堂の神田祟です」

「神田祟君か。歓迎しよう」

 丹那さんはワイングラスを掲げた。


「もう少し長生きする理由ができた。何か困ったことがあったらいつでも相談に乗ろう」

「よかったじゃん、神田君」


 元木さんは無邪気に言うが、僕はこの妖怪に借りを作ることの方が怖かった。いずれ相談しないといけない事態になるにせよ、気軽に切っていいカードではない。

 そんな僕の予感を裏付けるように、丹那さんは微笑みながらこう言った。


「君が絵に描いた餅なのか、酸っぱいブドウなのか、はてまた何かに育つのか……味わう日を楽しみにしているよ」


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「昨日の妖食倶楽部で、『自分は童貞だ』って叫んだってホンマなん?」

 翌日の夕方、店に出てきた魔美が開口一番そう言ってきて、僕は頭を抱えた。おそらく元木さんが情報源だと思うが、どうしてそんな伝わり方してしまうのか。


「……言いたいことが沢山ある」

「なんや、童貞の祟」

 魔美はそう言ってクスクス笑う。その様子を見て、僕は思わず畳を強く叩いた。


「会話の流れってやつだよ! あの場を切り抜けるのに必要だったんだ」

「童貞宣言で切り抜けられる会食ってなんやねん。この変態」

 僕の苛立ちがいまいち伝わっていないようだ。


「それに童貞とは叫んでない。『女性を知らない』と静かに言っただけだ」

おんなしちゃうん?」

 キョトンとした顔で言う魔美を僕は睨む。


「いいか。この世には余所様よそさまの前で口にしたら魂が汚れる言葉がある。童貞もそれだ」

 本来の用法はともかく、蔑称として使われすぎている。


「お前は未成年で、女の子だ。外でそんな汚い言葉を使ってるのを聞かれたら商売どころじゃなくなるぞ。気をつけろよ」

 僕はそれだけ言って帰り支度を始める。そんな僕の両肩を魔美が背後から掴んだ。


「……ごめんて。からかって悪かった」

 魔美がしおらしく謝るなんて珍しい。退勤時間になったから帰ろうとしただけなのを、怒りで出て行こうとしたのと勘違いしたのかもしれない。


 僕は帰り支度を続けたまま、誤解を解いてやる。

「なんか勘違いしてるな。汚い言葉を余所で使うなって言っただけだ。別に深村堂の中ならいい」

「ふーん、からかうんは別にええんか」


「だって今更やめないだろ?」

「まあ、それはそうやけど……」

「何より、お前が汚いことはよく知ってるからね」


 突然、魔美に背中を思いっきり叩かれた。そのあまりの衝撃に声を失っていると、背後から低い声でこう囁かれた。

「……その内、汚い言葉で死ぬほどからかったるから憶えときや」

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