第46話 妖食倶楽部⑤
真妻さんがうやうやしく皿の蓋を開けると、白い冷気の中から人魚の肉が現れた。
氷を敷き詰めた器の上に、薄くスライスされた桜色の肉が数枚、花びらのように並べられている。加熱はされていないようだ。表面には透明なジュレのようなソースがただ朝露のようにかけられているだけ。
異様なのはその肉の断面だった。赤身と白身がまるで寄木細工のように複雑に入り組み、有機的でありながらどこか幾何学的な模様を描いている。
「これは……人魚のどの部位ですか?」
同卓者の筋肉質の男性がうっとりとした声で尋ねる。
「尾の付け根です。鱗が皮膚へと変わり、魚が人へと変わる……その境目の部分をご用意しました。冷たいうちにどうぞ」
真妻さんは涼しい顔で
人と魚の境目。そんな部位が存在する生物などこの世にはいない……筈だ。だが皿の上の肉は確かに境界を体現していた。
僕は意を決してその冷たい一片を口に運ぶ。
……なんだ、これは?
舌の上に置いた瞬間は魚だった。鯛や平目のような冷たく滑らかな舌触り。ソースの酸味と共に、海の香りが鼻に抜ける。しかし歯を立てた瞬間、世界が反転した。
弾力。
魚の身にはありえない、哺乳類の筋繊維が押し返してくる強い反発。
そして噛み締めた途端、魚の脂があっさりと溶けるのと同時に、獣肉の濃厚なコクが舌に絡みついた。
魚肉の繊維が解ける感覚と、獣肉の繊維が裂ける感覚。本来なら決して交わらないはずの二つの食感が口の中でモザイクのように明滅する。
脳が混乱する。味覚のデータベースがエラーを吐き出し続ける。美味いけど、この美味さは自然界のルールを逸脱しているような気がする。
僕は混乱しつつも、確かめるようにしてもう一口、肉を口に含んだ。今度は噛まずに舌の上で転がしてみる。
肉は冷えている。にもかかわらず、口の中で脂がスッと溶けていく。
もしこれが牛肉や豚肉なら冷えた状態では脂が固まっている筈だ。牛脂やラードの融点は高く、人間の体温ではすぐには溶けず、口の中に蝋のような不快な膜を作る。一方で魚の脂は融点が低い。だから刺身で食べても口の中でとろける。
僕が首をひねっていると、筋肉質の男性がニヤリと笑ってグラスを置いた。
「なるほどねえ。いい仕事だ」
彼は懐かしむような目で肉を見つめる。
「シリコンバレーの視察で食べたプリント・ステーキを思い出すよ。あの時は大豆ミートだったが、こいつは本物の細胞を使ってるな」
「プリント?」
僕が聞き返すと、男性は鷹揚に頷いた。
「ああ。3Dバイオプリンタだよ。素材をインクにして、ミクロ単位で積み上げて肉を作る技術だ。見てみろ」
そう言って男性は肉の断面を指差す。
「この繊維の方向、整いすぎているだろう? 自然に育った筋肉ならこうはならない。これは設計された肉だ」
その言葉で謎が氷解した。
魚の細胞と獣の細胞、魚の脂の融点や食感を計算し尽くした上で、プリンタで交互に出力して積層させたのだ。自然界では絶対にありえない食感はこうして誕生したわけか。
僕は顔を上げ、丹那さんを見た。
彼は何も語らない。ただ、悪戯が見つかるのを待つ子供のような目で、僕らが真相にたどり着く様子を楽しんでいる。
真妻さんもまた、否定も肯定もせず、ただ静かに次の料理の準備をしている。
「さて、次は温かいスープといこうか」
丹那さんの合図で、真妻さんが大きな土鍋を運んでくる。蓋の隙間からは上品で、しかしどこか土臭いような奇妙な香りが漂っていた。
「
真妻さんが重々しく告げ、鍋の蓋を取る。立ち上る湯気の向こうに見えたものに僕は度肝を抜かれた。
黄金色のスープの中に、直径三十センチはあろうかという皿が浮いていたのだ。緑色がかったその円盤は中央が少し窪んでいた。あの特徴的なギザギザこそないが、妖怪画でよく見る河童の皿のように見える。
「河童……?」
同卓者たちがざわめく。流石にこれはフェイクではないかという空気が流れる。
だが真妻さんは表情一つ変えず、その皿をザクザクと切り分け始めた。
硬質な音がするかと思いきや、ナイフは抵抗なく皿に吸い込まれていく。どうやらよく煮込まれて、柔らかいらしい。
「コラーゲンたっぷりですよ」
切り分けられた皿と沈んでいた肉の塊が、それぞれの器によそわれてく。僕の目の前にも湯気を立てるスープが置かれた。
琥珀色の液体の中に、ゼリー質に包まれた皿の破片と引き締まった肉が浮いている。
僕はスプーンでスープを掬い、おそるおそる口に運んだ。
……なんだこれは。
生姜と酒の香りが、濃厚な出汁の風味を引き立てている。一口飲んだだけで胃袋がカッと熱くなり、指先まで血流が駆け巡るような感覚。これはただのスープじゃない。薬膳……いや、精力剤に近い。
恐る恐る皿の部分を口にする。プルプルとした食感。舌の上でトロリと溶け、濃厚な旨味が広がる。泥と水の精髄を凝縮したような強烈な滋味。
いや、この味……知っている?
そう思った瞬間、記憶の彼方から祖父の声が蘇る。
「祟、これは精がつくぞ。生き血は子供にゃ早ぇが、鍋なら食えるだろ」
薄暗い台所。土鍋の中でグツグツと煮えていた、グロテスクだが美味そうな亀。
スッポンだ!
そう認識した瞬間、器の中の河童の正体が結像した。
このゼラチン質の皿。これはスッポンのえんぺらだ。甲羅そのものはどうやっても食べられないが、甲羅の外側にある柔らかい軟骨と皮膚は美味いのだ。
そして沈んでいる肉はスッポンの首や足の肉だ。鶏肉に似ているがより味が濃く、弾力がある。
なるほど、スッポンか。そうと解れば一安心だ。
なのにスプーンを運ぶ手が止まった。
さっき鍋に入っていた皿は直径三十センチはあった。
だがスッポンの甲羅のえんぺら部分はあくまで甲羅の縁だ。もしえんぺらだけであんな厚みと大きさがあるとしたら……本体の甲羅はどれだけでかいんだ? 座布団? いや、ちゃぶ台サイズか?
僕の知る限り、天然だろうが養殖だろうがそんな巨大なスッポンは滅多にいない。
ただデカイだけじゃない。何十年、いや、何百年と泥の中で生きてきたような、底知れない時間の味がする。
あるいは僕の舌が読み取れないだけで、エナジードリンクで育成された巨大バイオスッポンかもしれない。いずれにせよ、一般人には調達不可能な食材だ。
丹那さんはこれをどうやって?
僕が思わず疑いの眼差しを向けると、丹那さんはスープを啜りながら、満足げに微笑んだ。
「どうだね。川のヌシの味は」
「……滋味深いです。明日には肌がツヤツヤになりそうですね」
僕は「スッポンですね」とは言わなかった。そんな解りきったことを指摘したところで恥を掻くだけだし、僕は巨大なスッポンを一部でも調達できたという事実そのものが怖かった。
僕は敗北を認めるように、スープを最後の一滴まで舐めるように飲み干した。
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スープの皿が下げられ、コースはいよいよ佳境に入るようだ。
真妻さんが大きなまな板を運んできた。その上には白い布で覆われた何かが載っているが、微かに震えていた気がする。
肉……なのだろうか? だが、肉があんな風に震えるだろうか?
「本日のメインディッシュです」
真妻さんが布を取る。現れたのはブヨブヨとした巨大な肉の塊だった。
「これは……?」
元木さんが流石に顔を引きつらせて尋ねる。
丹那さんは悪戯っ子のように目を輝かせながら言った。
「ぬっぺほふの肉だよ」
その言葉にみなが息を呑んだ。
ぬっぺほふは僕でも知ってる。目も鼻も口もない、ただの肉塊の妖怪。死者の脂が固まって動き出したものとも、不老不死の秘薬とも言われる伝説の存在だ。
「では、始めさせていただきます」
真妻さんは一緒に用意した氷水の入ったボウルの中に両手と包丁を浸した。そして充分に冷やした手で白くブヨブヨとした肉塊に触れる。その瞬間、肉塊がプルンと震えたように見えた。
真妻さんは包丁を何度も入れる。抵抗がない。まるで柔らかなバターか、クリームを切り分けているかのようだ。
何度か切る毎に、真妻さんは手と包丁を氷水に戻す。体温で肉が溶け出してしまうのを防ぐためだろう。そのストイックで流麗な手際は外科医の手術のようでもあり、氷の彫刻を彫る芸術家のようでもあった。
僕たちは言葉を失い、その解体ショーに見入ってしまった。
やがて短冊状に美しく切り揃えられた肉が、冷やされたガラスの皿に並べられて配られた。
白に近い薄桃色の肉片。見た目は脂の乗った大トロのようにも見えるが、繊維の筋が全く見当たらない。
「冷たいうちにどうぞ。非常に融点が低いので、温まるとお箸で掴めなくなります」
真妻さんの警告に従い、僕は急いで箸を伸ばした。
肉片を掴むと、箸ごしにも柔らかさが伝わった。力を入れたら崩れてしまいそうだ。
そっと持ち上げ、口の中へと滑り込ませる。
舌の上に置いた瞬間、肉が気化したのかと思った。それほどまでに儚い口溶けだった。
だが味は鮮烈だった。濃厚な赤身の味。鉄分を含んだ血の香り。
本来なら噛み締めて繊維を断ち切った時に初めて感じるはずの肉の旨味が、何の抵抗もなく舌全体に広がる。
噛もうとしても、歯ごたえがない。筋繊維の抵抗が一切ないのだ。
それはまるでレバーペーストを極限まで滑らかにして、ゼラチンを使わずに固めたような食感。部分によっては固まった血のようなより生々しい食感になる。
しかし不快ではない。部位によって脂の含有量が違うのか、一切れごとに食感が変わる。
ある部分は空気をたっぷり含んだ肉のムースのようにふわっと消える。
ある部分は濃厚なカスタードのような肉のプリンとして舌に絡みつく。
そしてある部分は絹ごしの肉の豆腐のように、つるりと喉を落ちていく。
未知の食感に脳が痺れているのが解った。
「……まるで分子ガストロノミーの料理だわ」
女優のような女性が、陶然とした表情で呟く。
「上等な肉から赤身と脂肪を選り分け、再構成する……このありえないグラデーションがたまらないわね」
「いや、さっきの人魚と同じだよ。これも3Dプリンタ製だろう」
筋肉質の男性が、ムース状の肉を舌で押し潰しながら言った。
「細胞を培養する際、あえてスキャフォールドを使わずに増殖させたんじゃないか? 筋繊維という構造を持たない、純粋な細胞の塊……まさにぬっぺほふだ」
なるほど。どちらの考察が正しいかは僕なんかには解らないが、目も鼻も口もないのっぺらぼうの肉塊を現代の科学で作ると確かにこうなるのかもしれない。
「ぬっぺほふの肉はどうかな?」
丹那さんに話を振られたので、僕は自分の中の言葉を総動員して答える。
「不老不死という効能があるかどうかはともかく、貴人にしか許されない肉という気がします。これなら歯がなくなっても食べられると思いますし」
「目の付け所がいいね。生物の肉である以上、どうしても血管や筋とは無縁でいられない」
丹那さんは愉快そうに笑う。
「しかしそれらは僅かでも除去し損なうと厭な食感の原因になる。ちょうど、ご飯に小石が混じっているようなものだね。真妻君なら苦も無く外すだろうが」
「恐れ入ります」
血管や筋、骨さえもないただ美味くなることだけを目的として作られた、純粋なタンパク質と脂質の塊。そりゃ美味しくなければ嘘だが、同時にどこか冒涜的なものも感じていた。
僕は口の中に残る甘美な脂の余韻を感じながら、丹那さんを観察する。彼はまるで自分の子供の成長を見守るような目で、僕らが肉塊を貪る様を眺めていた。
「さて、君にクイズだ」
丹那さん直々の質問に、同卓者たちの視線が僕に集まる。僕はまた急激な喉の渇きを覚えながら、なんとか返事をする。
「な、なんでしょうか?」
「私がこの妖食倶楽部を開いている理由はなんだと思う?」
そう問いかける丹那氏こそ、僕の目には妖怪のように見えていた。
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