第45話 妖食倶楽部④

 急激に喉が渇いてきた。

 ジャーキーなんて、しょっぱくて口内の水分を奪うものを食べたのもあるだろうが、緊張がそれに拍車をかけた気がする。


「あの、すみません。何か飲み物をお願いできますか?」

 たまらずそう口走ってしまった。無作法の誹りを免れない態度だと思ったが、真妻さんは笑顔でこう訊いてくれた。


「こちらこそ失礼しました。お水とお茶とお酒、どれがお好みですか?」

「……とりあえずお水で」

 僕がそう言うと同卓者たちは「私も」と次々同意する。


 別に遠慮して水を選んだわけではない。ただ、茶や酒は嗜好品だけあって天井知らずの世界だ。竜涎香級の希少品を出されて、丹那さんたちが望むようなリアクションを取れる自信がない。


 その点、水なら構えられる。美味さの上限もあるだろうし、覚悟だってできる。

 すぐに真妻さんがお盆で水の入ったグラスを運んでくる。体幹にブレのない、忍者のような歩様だ。忍者見たことないけど。


 これが富士山の雪解け水だろうが、南極の氷水だろうが、比叡山の高僧の読経を聞かせ続けた水でもちゃんとリアクション取れる筈だ。


 僕は目の前に置かれた水のグラスを取る。匂いは特にない。まあ、水だからそんなものだろうなと思いながら口に含む。


 水がトロトロ!?


 生まれてから飲み続けていたのだから間違う筈がない。明らかに粘度が通常の水と違う。何故かオイルのようにとろりとしている。

 戸惑うように舌の上で転がしていたら、すぐに知っている水に戻った。だが安堵してすぐに気づく。


 味がない!?


 美味いとか不味いとかじゃない。味がないのだ。極論、不味かろうが味さえあればコメントもできるが、味がないのでは何も言えない。

 焦燥感と共に味のない水が喉の奥へ流れていく。


「驚かせてしまいましたか?」

 僕の表情から察してくれたのか、真妻さんがそう言ってくれて助かった。

「ええ……なんですかこれは?」


「自家製の超純水ですよ。不純物を極力取り除いた水はその分、様々なものを吸着するんですね。だからどんなものを食べていようが口内を確実にリセットします」

「なんだかトロトロだった気がするのですが」


「超純水の精製は専用のマシンで行っているのですが、精製したてだと硬いですね。でもあの粘度もじきに消えてしまいます」

 僕はまた水を口に含む。確かにさっきほどのとろみはない。


「その専用マシン、外車買えるほどの値段したって聞きましたけど本当ですか?」

 水を飲んだ元木さんがそう訊ねる。

「流石にそこまではいきませんでしたよ。でもお客様には都度、新鮮な気持ちで食べていただきたいですからね」


 思わず目を剥いた。どうかしてる。

「では次の料理をお出ししますね」

 真妻さんが運んできたのは白いチャーシューのようなものだった。たった今切り分けたのか微かに湯気が立っている。


「カタキラウワの肩ロースをローストポークにしました」

「おっ、奄美大島の人喰い豚!」

 元木さんが合いの手のように言う。いや、人喰い豚って言わなかったか?


「まず素材の味を知っていただきたくて。冷めない内にどうぞ」

 そういえば水木しげるの『妖怪画談』に出てきた豚の妖怪がそんな名前ではなかったか。妖怪の豚肉? いや、妖怪って実体あるのか?


 僕は悩みながらローストポークを切り分け、口に運ぶ。


 美味い。豚肉とは思えない爽快感があるが、理由は解らない。


 だが記憶の扉が開いた。

 そう、僕はかつてこの肉に近いものを食べたことがある。


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 子供の頃、僕は発育があまり良くなかった。好き嫌いが多かったせいかもしれないし、体質もあったと思う。

 結局この歳になっても貧相な身体だが、当時はとても心配されたものだ。


 特に祖父――僕はじいちゃんと呼んでいたが――はそんな僕を心配して、色んなものを食べさせてくれたのだ。

「安心しろ。おめえの身体に合う食いもんが必ずあっから」


 じいちゃんが持って来たのは主に肉だった。きっと僕の口に合う良質のタンパク質さえ見つけられば、問題は解決すると思っていたのだろう。


 その日もじいちゃんは僕に塊の肉を見せながらこう言ったのだ。

「隣村でカボチャ畑を荒らしとったやつだ」

 僕はカボチャ嫌いな子供だったので、味方が一匹討ち取られてしまった気持ちになったのを憶えている。


 じいちゃんはその肉を薄切りにして、サッと焼いて出してくれた。

「祟、どうだ? 美味いか?」

 不味くはなかったと思う。でも噛むほどに何故かカボチャの風味がしてだんだん耐えられなくなった。


「カボチャの匂いがする!」

 僕がそう訴えると、じいちゃんは苦笑いする。

「お前、カボチャ嫌いんだもんなあ……」


 そう言ってじいちゃんは焼いた肉を食べる。

「猪は食ってたもんの風味が脂に出るって言うけど……俺には解んねえわ。祟はいい舌してるなあ」


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 そうだ、猪の肉だ!


 勿論、あの時の猪よりはずっと美味い。僕は超純水で口内をリセットし、ローストポークを口に入れる。猪の肉だと思いながら味わうと、確かにこの爽快感は脂身由来な気がする。


「美味いなあ。神田君はどう?」

 元木さんにふられたので僕は考えながら答える。

「記憶が甦りました。昔、祖父に食べさせてもらった猪の肉に似てますね」


「おっ、『スラムドッグミリオネア』みたいだね」

 元木さんが冗談めかして言う。

「けど……この脂身から湧き出てくるような爽快感の正体が解らないです」


「カタキラウワは人の魂を食べると言われているけど、その味が脂身に出るんだったら人の魂って柑橘系なのかもね」

「あ、確かに柑橘系ですね」


 改めて脂身だけ味わってみると、柑橘系の風味が立ち上ってきた。みかんやオレンジよりはレモンやライムに近い気もする。


 でも猪みたいな野生動物って酸っぱいものや苦いものは食べないんじゃなかったっけ?

 僕がローストポークの脂の味を探っていると、真妻さんが新しい料理を運んできた。


「カタキラウワの酢豚です。ナイフとフォークで切り分けて召し上がって下さい」

 僕の知っている酢豚は肉団子が沢山入ったやつだが、目の前にはこぶしぐらいの塊がゴロンと転がっている。


 ここは珍しい料理に喜ぶべきところだが、なまじ自炊なんかしているものだから余計なことに気づいてしまう。

 一般的な酢豚は肉団子にした豚肉を揚げる……でもこんな大きな塊を揚げたら中まで火を通すのは大変な筈だ。


 僕は疑いつつ、酢豚にナイフを入れる。現れた肉の断面は茶色かった。火が通っているというか、調理済みの色だ。

 食べても問題なさそうだと判断し、口に入れる。


 揚げた部分はカリカリ、それでいて中はトロトロ。そして酢豚の甘酢と柑橘系の風味がする脂身がマッチしている。

 美味い。だけど僕は何を食べさせられたんだ?


「うわあー、角煮酢豚じゃないですか!」

 元木さんの言葉でようやく理解できた。


 まず真妻さんはカタキラウワのバラ肉をこぶし大の塊に切り分け、トロットロの角煮に仕上げ、その後酢豚として揚げたのだ。

 既に火が通っているのだから、表面をカリッと揚げるだけでいい。


「ご存じでしたか」

「オレはわざわざ電車乗って北摂まで食べに行きましたからね。いやー、こんなところで出会えるなんて僥倖ですよ」


 界隈では有名な料理らしい。こんなに美味いならもっと真似されてしかるべきだと思ったが、揚げた角煮をクドく仕上げないのに技術がいるのかもしれない。何より角煮を作ってから酢豚にするという手間は割に合わなさそうだ。


 この酢豚、しみじみ美味い。脂身がクドくなってないのはカタキラウワの肉だからだろうか。


「……奄美大島に脳髄が痺れるぐらい酸っぱいレモンがあって、名店が取り合うほど大人気なんだけど、そのレモン農家さんから酸っぱくする秘訣を教えてもらったことがあるの」


 女優みたいな人がまた口を開く。農家から企業秘密を引き出せるのはその魅力ゆえか、それともコミュニケーション能力のお陰なのだろうか。でもありがたく聞かせてもらおう。


「大事なのはレモンを食べに来る猪なんですって」

「あれ、猪ってレモンは苦手な筈じゃ? あんな酸っぱいの食べるんですか?」

 元木さんが突っ込む。僕も知りたいことだったのでナイス突っ込みだ。


「ところがレモン農園の近くにいる猪は変わっててね。実っているレモンの中で甘そうなやつを嗅ぎ分けて食べるんだって。そうなると襲われた木の他の檸檬は『食べられてたまるか』って酸っぱくなろうとする……食べられることで間引きされ、残った実に栄養も行くから一石二鳥なんですって」


 なるほど、そんなの余所で真似できるわけもないから教えてくれたわけだ。

「へえ、意地汚い猪もいるもんですね」

「だからカタキラウワもレモンを食べるんじゃない? そういう味してるわ」


 女優みたいな人と元木さんの他愛のない会話を聞いた丹那さんと真妻さんの口元が微かに上がったのを見逃さなかった。それで僕の中に仮説が生まれた。


 今、僕が食べた肉は奄美大島でレモンを食べて育った猪のものなのかもしれない。それをカタキラウワの肉と称して出すことに洒落っ気がある。


 丹那さんはおそらくかなりのグルメだ。そしてきっと美味珍味は一通り食べているだろうし、なんならもう飽きている。


 だから存在しない生物の肉を出し、食べた人間のリアクションを見たり、その正体を当てられるかどうか見る……普通の美食に飽きた末の遊びが妖食倶楽部なのではないだろうか。


 食べ終えた酢豚の皿が下げられ、また新しい料理が来る。

 目の前に出されたのはスライスされた赤身だった。白い皿に載せられているからコントラストが映える。ただ見たところ調理をしていない生肉のようでもあるが……。


「竜の肉です。美味しくなるように0℃で一週間熟成させました」

 僕は狼狽した。もう竜の肉が出てくるなんて。


「ニンニク醤油やごま油なども用意してますが、最初はそのまま食べて素材の味を確かめて下さい」

 僕はおそるおそる竜の肉を箸で摘まみ、思い切って口に入れる。


 ……美味い。


 陳腐だが命の味がする。真っ赤なのに血の臭みはなく、噛むほどにただただ旨味だけがしみ出してくる。これはマグロの肉質を持った牛肉の赤身とでも表現すべきか?


「いかがです?」

 主催者の丹那さんから直々に訊かれると、何か気の利いた感想を言わねばならない。僕は慌てて竜の肉を呑み込んで、何か言おうとする。


「ええ、美味し……」


 その瞬間だった。また記憶の扉が開いた。僕はこの肉を食べたことがある。


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「貰ってきた肉が溶けたぞ。一緒に食うべ」


 じいちゃんは解凍の終わったその赤い肉を水を張ったボウルに浸けていた。赤い肉からは血のような液体が滲み出し、じいちゃんはその度にボウルの水を新しいものに換えていた。


 今思うとあれは血抜きをしていたんだと思う。そしてそれだけ念入りに血を抜かないと、生臭くて食べられたものではなかったのだろう。

「ほら、食べな」


 じいちゃんに言われて、僕は何もつけずにその肉を食べた。確かにその肉は血生臭くはなかったが、その代わり味も薄く、風味の抜けた肉のガムという印象だった。それでも噛み続けたせいでしまいに味もなくなり、呑み込むに呑み込めない代物になった。


「味ない……」

「そうかそうか。味ないか。ほら、ここに出しな」

 じいちゃんは見かねて僕に肉の残骸を吐き出させた。


 そしてじいちゃんは僕の真似をして、何もつけずにその肉を口に放り込んでこう言った。

「んー、やっぱり鯨は薄味だな。醤油つけないと食えんな」


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 そうだ、鯨の肉!


「どうかしたのかね?」

 丹那さんが心配そうに僕を見ていた。フラッシュバックのせいで一瞬、意識が飛んでいたようだ。

「すみません。小さい頃に、祖父が食べさせてくれた鯨の肉を思い出しまして」


「ほう……」

 丹那さんは目を細める。

「勿論、この竜の肉の方が圧倒的に美味しいんですが……爬虫類に近そうな竜の肉が鯨っぽいというのは意外でした」


「なるほどね……ちなみに、記憶の中の鯨肉とはどの辺が違うと感じたのかな?」

「月並みな答えで恐縮ですが、旨味……ですかね。祖父は解凍した鯨肉を何度も水に晒して血を抜いてましたが、そのせいで旨味も流れ出てしまった気がします」


「それは鯨肉である以上、仕方がないよ。どんな肉もすぐに血抜きしてしまうのが一番いいが、鯨相手にそんな余裕はないからね。冷凍して持ち帰るのが精一杯さ。なあ、真妻君」


「ええ。その点、この肉は死後すぐに血抜きしましたから。旨味を逃さずに血だけ抜いたので、熟成でより美味しくなりました」

 真妻さんのその説明で、唐突に"答え"に辿り着いてしまった。


 さっきのカタキラウワの肉が奄美大島の猪かもしれないのと同様に、この竜の肉は鯨の可能性が高い。多分、お通しで出てきた竜の肉の燻製に鯨由来の竜涎香が使われていたのもヒントのつもりだったのだろう。


 この肉が美味いのは当たり前だ。死後すぐに血抜きして熟成させて鯨肉なんて美味いに決まっている。

 驚きすぎて足が勝手に貧乏揺すりを始めた。それを気を張って何とか止めた。


 僕が驚いている理由が解るだろうか。

 実は竜の肉が鯨の肉だった? そんなことは大した話じゃない。


 今や日本の捕鯨は国際的な批判に晒され、厳しく管理されている。そんな状況での鯨を血抜きして持ち帰れる人間がどこにいるというのだろう。少なくとも僕にはその入手ルートが想像できない。


 だから……この妖食倶楽部は「妖食」という名目でグレーやブラックな食材を食べているのではないか? 冗談に包んで、洒落にならないことをしているというか。


 僕はじいちゃんを少し恨んだ。

 なんて厭な『スラムドッグミリオネア』だ。気づかなかったら楽しい時間を過ごしていられたのに。


 ついさっきまではどれだけ高い肉を食べさせられるのかと怯えていた。しかし今は得体の知れない肉を食べさせられる恐怖も追加された。

 僕が震えていると、真妻さんがこう告げる。


「お待たせしました。人魚の肉です」

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