第49話 黒髪の乙女②
翌日。僕は深村堂の帳場に座りながら、何度でも自分の足の裏を撫でずにはいられなかった。
血が出るほどの傷でもなかったし、破傷風の心配はしなくてもよさそうだ。ただ、何かの拍子で釘を踏み抜かないか冷や冷やしているし、土踏まずにない筈の痛みを感じる。
何より常に釘や足裏の痛みのことを考えてしまう。これも立派な呪いだ。しかも重篤な。
そんなことを思っていると突然、ガラス戸が開く。すわ客かと思ったら見慣れた顔だ。
「センセ、久しぶり!」
橘人だった。ゴールデンウィーク中に書楼祇陀林に行って、そのまましばらく逗留していたのだ。
「祇陀林は楽しかったか?」
「あの地下書庫、ダンジョンみたいで楽しかったよ」
「マジか。僕は遭難を覚悟したぞ」
流石というべきか。ティーンエイジャーは感性が違う。
「読みたい本も見つけたんだけどな。ちゃんと勉強しないと読めなさそうだから一旦戻ってきたわ」
僕は曖昧に笑う。橘人が打ち込みたいことを見つけたのは良かったが、本来は今も高校に通っていたわけで、その点はあまり素直に喜べない。
「……髪も伸びたか?」
「そうそう。ウィッグで足さなくても良くなった」
そう言って橘人は指先で毛先をくるくる回す。そんな橘人は僕の目に本物の少女のように見える。
「食事の栄養のバランスが良かったんだろうな。祇陀林には僕からお礼を言っておくよ」
「ところでセンセ、なんか辛気臭い顔してたけど仕事絡み?」
「そうなんだよ」
僕はため息をつき、橘人に昨日あった出来事を話した。
「呪いねえ……」
話を聞き終えた橘人は僕のスニーカーを手に取り、靴の裏と中を交互に眺める。どうでもいいけど汚くて恥ずかしいからあまり見ないでほしい。
「例の釘ある?」
「ああ、一応取ってあるよ」
僕は釘を入れた小さいプラスチックケースを渡す。橘人は釘を見て、顔を顰める。
「こんな釘がアスファルトの上で直立してたなんてありえなくない?」
そう言って橘人は釘の頭の方を見せてくる。釘の頭の面積は決して広くはなく、落としても直立する可能性は低く、それが直立し続ける可能性はもっと低そうだ。
「うん。橘人の言いたいことは解るよ。でも僕はこいつのせいで死にかけたんだ」
僕の反論に対し、橘人はかぶりを振った。
「センセ、考えすぎだ。もっとシンプルに見ろよ」
「シンプルってどういうこと?」
「タクシーに轢かれそうになったのは不運な偶然だ。だけど釘が刺さっていた方は偶然じゃないとしたら?」
橘人はスニーカーをまた拾い上げ、僕に見せながら続ける。
「踏んだんじゃなくて、誰かが最初から軽く刺しておいたとしたら?」
橘人の指摘で目から鱗が落ちる思いだった。呪いとか土地の意思とかオカルトに思考が偏りすぎていた。
「玄関で靴を脱いでまた履くまで、一時間ぐらいあったんだろ? その隙に誰かが靴底から釘を刺した。短い釘ってのもあって、体重が強くかかるまで発動しない……」
「……つまり犯人はあの部屋にいた人間ってことか」
あの時、部屋にいたのは成香さんとパソコンの修理に来ていた倉田という青年だけだ。そして依頼者の成香さんが僕に罠を仕掛けるメリットはない。だったら消去法で残るのは一人だ。
「……そういうことか」
僕の中で一つの仮説が組み上がった。僕は立ち上がり、財布を掴んだ。
「橘人、悪いけど店番を頼めるか? 魔美が帰ってくるまででいいんだ」
「ラーメン奢ってくれたらいいよ。でも何か思いついたの?」
「後で教えるよ」
そう言って僕は深村堂を出ると、寺町を南下し始めた。
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目的地へ向かう途中、僕は視界に入った百円ショップに入り、適当なプラスドライバーを購入した。
やがて四条寺町を南へ下り、電気街エリアにあるパソコンショップのヤソハチへ到着した。何気ない様子を装って店に入ると、店内は様々な値段帯のゲーミングパソコンがデモ映像を流していた。それだけでなんだか景気良さそうに見えるから不思議だ。
レジには人の良さそうな中年男性が立っている。店長だろうか。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
中年男性は愛想良く僕に話しかけてくれた。だから僕の方も用意していた言葉を出せた。
「あの……昨日、出張修理で倉田さんという方に来ていただいた者なんですが」
僕は予め用意していた嘘をつく。
「倉田なら夜まで戻りませんが……ウチの倉田が何か不備でも?」
心配そうな表情を浮かべる中年男性の胸元には「店長 村井」とあった。クレーム対応の可能性を察知しているのだろう。
「いえ、修理は完璧でした。ただ部屋にこれが落ちていまして」
僕はさっき買ったドライバーを差し出した。
「もしかしたら倉田さんの忘れ物かと思いまして」
「ああ、わざわざありがとうございます! 倉田が帰ったら確認しておきますんで」
店長は恐縮しながらドライバーを受け取ってくれた。
ここまでは順調だ。僕は世間話を装って、探りを入れる。
「ところで倉田さん、寡黙でしたけど仕事熱心な方でしたね。信頼できるっていうか……」
昨日見た彼はただ黙々と作業をしていただけだ。愛想もなかった。だが僕の言葉を聞いた店長の顔が綻んだ。
「そう言っていただけると嬉しいです。あいつ、口下手なもんで誤解されやすいんですが、根は真面目な奴なんですよ」
店長はドライバーをいじりながら、聞いてもいないことまで語り始めた。
「彼はね、大きな夢を持って地方から京都の大学に出てきたんです。理系の優秀な学生でね。ところが入学早々にコロナ禍でしょう? 大学には行けない、友達もできない、実家は太くないからバイト漬け……」
「……大変だったんですね」
思いがけず僕と似たような身の上話が出てきて、少し動揺してしまった。
「ええ。精神的に参ってしまって、今は休学中なんです。こんな店でくすぶってないで、早く大学に戻ってほしいんですがねぇ……。いや、彼女の一人でもできたら、また気力も湧くんでしょうけど」
店長は寂しげに笑った。
「とにかく……あいつには幸せになってほしいんです。悪い奴じゃないんで」
胸が痛んだ。そして同時にやるせない気持ちが込み上げてきた。
地方出身。京都への憧れ。孤独な大学生活……それは僕自身の境遇とあまりに重なる。もし僕に魔美や深村堂との出会いがなかったら、僕も彼のように孤立し、暗い情熱を抱え込んでいたかもしれない。
僕は礼を言って店を出た。
倉田は夜に戻るらしい。それまで待つとしよう。
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日は落ち、寺町通りに夜の帳が下りていた。僕は近くの路地裏に身を潜め、じっと倉田を待った。
どれだけ時間が経ったか忘れた。やがて大きな影が店から出てきた。倉田だ。
彼は疲れたように肩を落とし、駅の方へ歩き出した。
僕はその後をつけ、人通りの少ない路地に入ったところで声をかけた。
「倉田さん」
ビクリ、と彼の巨体が震えた。
恐る恐る振り返った彼の顔に街灯の明かりが当たる。僕の顔を認めた瞬間、その目が驚愕に見開かれた。
「あ……昨日の」
「僕は成香さんから調査を頼まれてましてね。彼女はまるで誰かから監視されているような居心地の悪さを感じていたそうです」
倉田の表情からは後ろめたさのようなものを感じ取れた。僕は畳み掛ける。
「今日、改めて彼女の部屋を調べさせてもらいました。そうしたら出てきたんです。盗聴器と隠しカメラが」
これはハッタリだ。今日、僕は成香さんの部屋に行っていない。だが倉田の表情は強張った。
「……は? 何のことだ」
「犯人は君だね?」
「ふざけるな! 俺は知らない!」
倉田は大声で否定した。
「俺はただ修理に行っただけだ! 監視カメラなんて仕掛けてない!」
「へえ……」
僕は彼の言葉尻を捉えた。
「『監視カメラなんて』? じゃあ、盗聴器は認めるわけだ」
「ッ!?」
倉田が息を呑む。墓穴を掘ったことに気づいた顔だ。
図星か。おそらく彼は修理の際にPC内部か、あるいはデスク周りに盗聴器を仕掛けたのだろう。そしてそれを聞くことで彼女の生活を覗き見ていた。
「どうしてあんなことをしたんだ。店長さんは君のことを真面目な奴だと言っていたぞ」
「……うるさい」
倉田が低い声で唸った。
「お前なんかに、俺の何がわかる!」
彼の瞳に暗い炎が灯った。それは孤独と執着が入り混じった危険な色だった。
「ずっと待ってたんだ。京都に来たら、黒髪の乙女と出会えると思ってた。この灰色の青春を変えてくれる運命の人が現れるって……信じてたんだ!」
歪んだロマンチシズムだ。でも理解できてしまう。だから余計に辛かった。
「でも誰も俺を見てくれなかった……そしたらバイト先で成香さんが現れたんだ。高嶺の花が俺を頼ってくれた。俺の技術を必要としてくれた。これはもう運命だろ!?」
「それを言うなら僕もずっとひとりぼっちだったけど、成香さんから仕事を依頼された」
僕は倉田を冷静にさせたくて静かに諭す。
「……そうだ。それが許せないんだよ!」
倉田が激昂した。逆効果だったようだ。
「どうしてお前みたいなのが成香さんの隣にいるんだ! あそこは俺の場所だ! 成香さんは俺だけの黒髪の乙女なのに!」
倉田が雄叫びを上げ、その巨体を揺らして突進してくる。まるで暴走したトラックのようだ。
僕の思考が極限の恐怖でスローモーションになる。
――殺される。
悪い想像が脳内を駆け巡った。あの巨体でのタックルだ。僕はアスファルトに叩きつけられ、運が悪ければ後頭部を割って即死するだろう。たとえ即死を免れたとしても圧倒的な体重差で馬乗りにされ、ゆっくりとなぶり殺される。
逃げるしかない。
しかしどうやって? 体力差は歴然、人通りの多い場所まで逃げ切れるか?
倉田が僕に掴みかかろうと腕を伸ばした、その瞬間だった。
僕に襲いかかるはずだった巨大な影が、不自然な軌道で宙を舞った。
「あ……?」
何が起きたのか解らない様子の倉田が地面に転がっている。だが、よく見れば華奢なシルエットが立っていた。
「橘人!?」
「腹減ったから迎えに来てみたら……本当に呪われてんのかね」
橘人はポケットに手を突っ込んで、倒れた倉田を見下ろしていた。
あの一瞬で横合いから足払いをかけて体勢を崩したのか。倉田にしても橘人の存在は意識の外だったろうから回避しようがなかった筈だ。
そして橘人が見た目を裏切る膂力の持ち主であったことを今更のように思い出した。
倉田は呻きながら起き上がろうとするが、橘人は頭部に足を向ける。頭部を蹴り込むか、顔を踏み割るか知らないが……靴底を見せられただけで倉田は金縛りにあったように動けなくなった。
「センセ、貸し追加。チャーシュー大盛りな?」
橘人は事もなげに言い放つと、僕の方を向いてニヤリと笑った。
「ああ……替え玉もいいぞ」
僕はへたり込みそうな足を叱咤し、息を深く吐き出した。そして僕はふらつく足で倉田に近づいた。倉田はなんと橘人の足の下で悔し涙を流していた。
「なんでだ……俺の、俺の乙女なのに……」
「……倉田君」
僕は彼を見下ろして言った。
「確かに成香さんは京都の黒髪の乙女かもしれない。物語のヒロインみたいに素敵な人だ」
僕は彼にかつての自分を重ねていた。孤独で、物語に救いを求めていた自分を。だからこそ言わなければならない。
「でも彼女は君のものでもないし、まして僕のものでもないんだ。きっと彼女には相応しい人が現れる」
倉田の目からボロボロと涙が溢れ出した。それは悔しさだけではない自分の愚かさに気づいた者の涙に見えた。静かに泣き崩れる彼を見て警察に突き出す気も失せてしまった。
「もういいよね」
橘人が足を退ける。倉田は逃げようともせず、ただアスファルトに拳を打ち付けていた。
僕は最後に釘を刺すように言った。
「見逃してあげるから、これに懲りたら二度とするなよ。人の靴に釘を仕込むなんて陰湿な真似ももうやめるんだ」
だがその言葉を聞いた倉田は涙で濡れた顔を上げ、きょとんとする。
「……何の話だ?」
「とぼけるな。昨日の帰り際、僕の靴底に釘を刺しただろ。お陰で死にかけたんだ」
「知らない……俺はそんなことしていない」
「やっぱりお仕置き必要じゃない?」
片足を浮かせようとする橘人を見て、倉田は必死に首を横に振った。
「違う。俺がやったのは盗聴だけだ!」
その必死な形相は嘘をついているようには見えなかった。思わず僕と橘人は顔を見合わせる。
「おいおい、どうなってんだよ。犯人が消えちまったぜ?」
橘人の言葉に応じるように足裏が再び痛みだす。一連の災いが本物の呪いなら、僕は依然呪われたままということになる。だがもし人為的なものであれば、犯人はもう一人しかいない……。
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