第4話 パラレル4 同じ顔

# のっぺらぼうの嫁 同じ顔


春の柔らかな風が頬を撫でる夕暮れ時、僕は会社の飲み会を早めに切り上げて帰路についていた。終電を逃さないよう急いでいたが、結局間に合わず、歩いて帰ることになった。


「はぁ…明日の朝が辛いな」


ため息をつきながら、人気のない裏通りを歩いていると、前方から男たちの下卑た笑い声が聞こえてきた。


「おい、顔見せろよ」

「なんだよ、そのマスク。取れよ」


数人の酔った男たちが、一人の女性を取り囲んでいた。女性は黒いコートを身にまとい、うつむいたまま身を縮こませている。男たちは彼女の顔を見ようと手を伸ばしていた。


「やめてください…」


かすかな声が夜の闇に溶けていく。


僕は立ち止まった。正直、関わりたくなかった。でも、このまま見過ごすことはできない。深呼吸をして、僕は男たちに向かって歩き出した。


「おい、やめろよ」


声をかけると、男たちは一瞬僕を見た。その隙に、女性は男たちの腕をすり抜け、僕の後ろに隠れるように立った。


「なんだよ、お前。彼氏か?」

「いや、違うけど…彼女が嫌がってるのは明らかだろ」


男たちは舌打ちをして、「つまんねぇな」と言いながら去っていった。


ほっとして振り返った瞬間、僕は息を呑んだ。


彼女には顔がなかった。


目も、鼻も、口も、眉も、何もない。ただ滑らかな肌のような表面が、卵のように丸みを帯びているだけ。


驚きのあまり言葉が出なかった。彼女は僕の反応を察したのか、さらに身を縮めた。


「あ…ありがとうございました」


声は確かに聞こえた。口がないのに、どこからか声が漏れ出ている。


「大丈夫?」


僕は動揺を隠しながら尋ねた。彼女はゆっくりと頷いた。その仕草には、不思議な優雅さがあった。


「家まで送りましょうか?」


なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。ただ、彼女を一人にしておくのは危険だと思ったのかもしれない。


彼女は少し躊躇った後、再び頷いた。


「近くに住んでいます…」


彼女の家は、古い木造アパートの二階だった。玄関まで送り届けると、彼女は深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました。私…のっぺらぼうなんです」


彼女の言葉に、僕は思わず笑ってしまった。


「知ってるよ。昔から日本の妖怪だよね」


「はい…でも、今の時代、私たちは肩身が狭くて…」


彼女の声には寂しさが滲んでいた。


「僕は佐藤健太。また会えたら嬉しいな」


なぜそんなことを言ったのか、自分でも理解できなかった。ただ、彼女の存在に不思議な親しみを感じていた。


「私は…澪です」


その夜から、僕の日常に少しずつ変化が訪れた。


最初は偶然を装って、近所のスーパーで会った。彼女はマスクと帽子で顔を隠していた。次は、僕の通勤路で出会った。そして気づけば、週に何度か会うようになっていた。


彼女との会話は不思議と心地よかった。顔がないため表情は読めないはずなのに、彼女の感情は声の調子や仕草から伝わってきた。むしろ、表情に惑わされない分、本質的な部分で理解し合えているような気がした。


「健太さんは、私の姿を怖いと思いませんか?」


ある日、公園のベンチで彼女が尋ねた。


「最初は驚いたけど、怖いとは思わないよ。むしろ…綺麗だと思う」


言葉にした瞬間、本当にそう思っていることに気づいた。彼女の滑らかな顔には、不思議な美しさがあった。


「嘘…」


彼女の声が震えた。


「本当だよ。澪さんの顔は、月のように神秘的で美しい」


彼女の肩が小刻みに震え、涙を流しているようだった。口がないのに、どこからか啜り泣く音が聞こえてきた。


「今まで、そんなこと言ってくれた人はいませんでした…」


その日から、僕たちの関係は変わった。手を繋いで歩くようになり、映画を見に行き、一緒に料理をした。彼女は口がなくても食べることができた。その様子は不思議だったが、僕はすぐに慣れた。


季節は移り、桜が咲く頃には、僕たちは恋人になっていた。


「健太さん、私と一緒にいて本当に幸せですか?」


桜の木の下で、彼女が不安そうに尋ねた。


「もちろんだよ。澪といると、心が落ち着くんだ」


「でも、私は普通の人間じゃありません。将来のことを考えると…」


僕は彼女の手をしっかりと握った。


「澪は澪だ。僕が好きなのは、そのままの澪だよ」


彼女の顔から涙が流れ落ちた。顔に凹凸がないため、涙は真っ直ぐに首筋へと伝っていく。僕はそっとハンカチで拭いてあげた。


秋になり、紅葉が美しい日に、僕は彼女にプロポーズした。小さな指輪を差し出すと、彼女は震える手でそれを受け取った。


「私でいいんですか? 子供のことも、周りの目も…」


「澪と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。僕の妻になってください」


彼女は顔のないまま微笑んだ。それは目に見えるものではなかったが、確かに感じることができた温かさだった。


結婚式は小さく、親しい友人だけを招いて行った。白いウェディングドレスを着た澪は、ベールで顔を隠していた。誰もが彼女の美しさに見とれていた。


今、僕たちは小さなアパートで暮らしている。時々、外出先で好奇の目を向けられることもある。でも、それは僕たちの幸せを揺るがすものではない。


「健太さん、私、少しずつ変わってきているんです」


ある朝、澪がそっと告げた。


「どういうこと?」


「ここに…」


彼女は自分の顔の中央を指さした。そこには、かすかに鼻の形が浮かび上がっていた。


「妖怪は、愛されることで人間に近づくことがあるんです。私、いつか健太さんと同じ顔になれるかもしれない」


僕は彼女を抱きしめた。


「どんな顔になっても、澪は澪だよ。でも、もし顔が生まれるなら、それは僕たちの愛の証だね」


彼女は僕の胸に顔を埋めた。その滑らかな感触が、僕の心を温かく満たしていく。


のっぺらぼうの嫁。それは世間からすれば奇妙な組み合わせかもしれない。でも、僕たちの愛は確かなもの。


彼女の顔が変わろうと変わるまいと、僕の愛は変わらない。そして、もし彼女が完全な人間の顔を持つ日が来たとしても、僕は忘れないだろう。あの月のように美しく、神秘的な、顔のない彼女を。


僕たちの物語は、まだ始まったばかり。これからどんな奇跡が待っているのか、二人で見つけていきたい。


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