第3話 パラレル3 この世で最も美しいもの

# のっぺらぼうの嫁 この世で最も美しいもの


春の柔らかな風が頬を撫でる夜、僕は終電を逃してしまった。会社の飲み会が予想以上に長引き、気がつけば最寄り駅の改札は閉まっていた。タクシーを拾おうにも、この辺りは車の通りが少ない。仕方なく、暗い住宅街を抜ける近道を選んだ。


「やめろよ、怖がらせるなよ」


薄暗い路地の向こうから、男たちの声が聞こえてきた。好奇心に駆られた僕は、声のする方へと足を向けた。そこには、壁際に追いやられた一人の女性と、彼女を取り囲む三人の男たちがいた。


「顔、見せてくれよ。なんでそんな帽子深く被ってんだよ」


男の一人が女性の被っていた帽子に手を伸ばした瞬間、彼女は身をよじって避けた。その拍子に帽子が落ち、月明かりに照らされた彼女の顔が露わになった。


そこには——顔がなかった。


目も、鼻も、口も、何もない。ただ滑らかな卵のような面があるだけだった。


「うわっ!なんだこいつ!」

「化け物じゃねえか!」


男たちは一瞬で豹変し、恐怖に叫び声を上げた。女性——いや、のっぺらぼうは、震える手で帽子を拾おうとしていた。その仕草に、僕は言いようのない切なさを感じた。


「おい、やめろよ」


自分でも驚くほど冷静な声で、僕は男たちに声をかけていた。


「彼女をからかうのはもうやめろ」


「は?お前、見えてないのか?あいつ、顔がねえんだぞ!」


「それがどうした」僕は一歩前に出た。「彼女が君たちに何かしたのか?」


男たちは互いに顔を見合わせ、不気味さと僕の態度に戸惑いを隠せない様子だった。


「気持ち悪い奴らだな。行こうぜ」


そう言って、男たちは去っていった。


残されたのは、僕とのっぺらぼうだけ。彼女は震える手で帽子を被り直し、深々と頭を下げた。言葉はなかったが、その仕草に「ありがとう」という気持ちが込められていることが、不思議と僕には分かった。


「大丈夫?家まで送ろうか」


彼女はゆっくりと首を横に振った。そして、僕の袖をそっと引っ張り、別の方向を指さした。


「君の家はあっちなの?」


彼女は小さく頷いた。


その夜、僕は彼女を家まで送った。古びた木造アパートの前で彼女は立ち止まり、再び深々と頭を下げた。


「じゃあ、気をつけて」


僕がそう言って踵を返そうとした時、彼女は僕の手首をそっと掴んだ。顔のない彼女から、どうしても伝えたいことがあるように感じた。


「また会いたい?」


彼女は小さく、でもはっきりと頷いた。


翌日から、僕たちは不思議な関係が始まった。毎晩、僕が仕事を終えると、彼女は駅の裏口で待っていた。言葉を交わすことはなかったが、彼女の存在が僕の心を穏やかにしていくのを感じた。


彼女には顔がなかったが、僕にはだんだんと彼女の「表情」が見えるようになっていった。帽子の陰から覗く滑らかな面が、嬉しい時には柔らかく輝き、悲しい時には影を落とすように見えた。


「名前はあるの?」と尋ねた時、彼女は小さなメモ帳に「雪」と書いた。


「雪か。きれいな名前だね」


彼女の顔のない面が、まるで照れているかのように少し赤みを帯びたように見えた。


季節は移り、夏の暑さが過ぎ去り、秋の風が街を彩るようになった。僕と雪の関係も深まっていった。彼女の家で一緒に映画を見たり、僕の部屋で料理を作ったり。彼女は料理が上手で、その手際の良さに僕はいつも感心していた。


ある秋の夜、公園のベンチで星を見ていた時、僕は思い切って彼女の手を握った。冷たいようで温かい、不思議な感触。彼女は僕の方を向き、そっと身を寄せてきた。


「雪、好きだ」


言葉にした瞬間、彼女の体が小刻みに震えた。泣いているのだと分かった。僕は彼女を優しく抱きしめた。


「怖くないよ。君の顔がなくても、僕には君の心が見える」


その夜、僕たちは恋人になった。


世間の目は冷たかった。友人たちは僕の恋人について尋ねても、実際に会うことを避けた。家族も心配そうな顔で僕を見つめた。でも、僕にとって雪は、この世で一番大切な存在になっていた。


冬が深まり、雪の名前のように白い結晶が街を覆う季節がやってきた。クリスマスの夜、僕は決心した。


「雪、結婚しよう」


小さな指輪を差し出した僕に、彼女は震える手でそれを受け取った。顔はなくても、彼女が泣いていることが分かった。嬉し泣きだと信じたかった。


「君の顔がどうであれ、僕は君を愛している。これからもずっと」


彼女は僕にしがみつき、その体は喜びと感謝で震えていた。


春の訪れとともに、僕たちは小さな結婚式を挙げた。参列者は少なかったが、それでも僕たちの門出を祝ってくれる人たちがいた。雪は白いウェディングドレスに身を包み、顔を隠すベールを被っていた。


「誓います」


僕の言葉に、雪はゆっくりと頷いた。


その夜、ホテルの部屋で雪は初めて自分からベールを取った。月明かりに照らされた彼女の顔のない面を、僕は優しく撫でた。


「愛してる、雪」


彼女の顔から、一筋の涙が流れ落ちた。そして、不思議なことが起こった。涙の跡をなぞるように、うっすらと目の輪郭が浮かび上がったのだ。


驚く僕に、雪はメモ帳を取り出した。


「あなたに心から愛されることで、少しずつ顔が戻ってきます。これは呪いだったの。本当の愛に出会うまで、私は顔を失う運命だったの」


僕は彼女を強く抱きしめた。「どんな顔になっても、君は君だよ」


それから数ヶ月、雪の顔には少しずつ変化が現れた。目が形作られ、鼻が浮かび上がり、そして最後に口が現れた。


完全に顔が戻った日、雪は初めて声を発した。


「ありがとう、愛してる」


その声は、春の風のように優しく、僕の心に染み渡った。


今、雪は僕の隣で眠っている。月明かりに照らされた彼女の顔は、この世で最も美しいものだ。


のっぺらぼうだった彼女が、今は僕の最愛の妻。


この奇跡のような物語を、いつか生まれてくる子供たちにも語り継ぎたいと思う。


愛は、時に姿を変え、時に奇跡を起こす。


僕たちの愛の物語は、まだ始まったばかりだ。

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