第54話:日常への回帰宣言

私は実に奇妙な虚脱感に包まれていた。


英雄の使命を放棄してから三日が経ったのだが、予想していたような解放感とは異なる、微妙な気持ちが続いていたのである。


まるで長編小説を読み終えた後のような、充実感と同時に訪れる空虚さであった。


その日の朝、いつものように「魔素計算学」の授業に向かう途中、私は立ち止まって学院の建物を見上げていた。


石造りの古い校舎、魔導河のせせらぎ、行き交う学生たち。全てが以前と同じ光景なのに、なぜか今まで気づかなかった美しさを感じる。


「どうしたのですか?」とアリアが心配そうに声をかけてきた。


「いえ、なんでもありません」と私は答えた。


「ただ、この光景を改めて見ていただけです」


「改めて?」


「はい」と私は説明した。


「『特別な使命』という色眼鏡を外して見ると、普通の学院生活がこんなにも美しく見えるのかと思って」


アリアは微笑んだ。


「確かに、変な重圧がなくなって、気持ちが楽になりましたね」


授業では、教授がいつものように複雑な魔素密度の計算式を黒板に書いている。

以前なら「こんな計算が世界を救うのに役立つのだろうか」などと余計なことを考えていたが、今は純粋に数式の美しさを楽しむことができる。


「田中君」と教授が私を指名した。


「この問題、解けるかね?」


私は立ち上がって黒板の問題を見た。確かに複雑だが、以前ほど重荷に感じない。


「はい、やってみます」


計算を進めながら、私は不思議な充実感を覚えていた。

世界を救うためでもなく、特別な力を得るためでもなく、ただ学ぶ喜びのために数学と向き合っている。


「正解です」と教授が評価してくれた。


「よく理解していますね」


座りながら、私は隣のアリアに小声で言った。


「なんだか、勉強が楽しく感じられます」


「私もです」とアリアも小声で答えた。


「変な期待を背負わずに学べるのは、こんなにも気持ちの良いことなんですね」


授業後、図書館で「古代魔法語」の復習をしていると、ルナがやってきた。


「先輩たち、お疲れさまです!」と彼女はいつものように明るく挨拶した。


「あ、ルナさん」と私は振り返った。


「最近どうですか?」


「とても充実しています!」とルナは目を輝かせた。


「新入生の指導をお手伝いしているんです。みんなに『恋愛は積極性が大切』って教えているんですよ」


私は苦笑いした。相変わらずのルナである。


「でも」とルナは少し真面目な表情になった。


「先輩たちを見ていて思うんです。特別な力とか使命とかより、こうして普通に勉強している姿の方が、ずっと素敵だなって」


「そうですか?」とアリアが嬉しそうに聞いた。


「はい!」とルナは力強く頷いた。


「私も最初は『異世界転生の主人公になりたい』って思っていましたが、今は『普通の学院生として成長したい』って思うようになりました」


私は感心した。ルナもまた、自分なりの成長を遂げているのである。


昼食時、食堂でマルクスとヴィクターも合流して、いつものメンバーで食事を取った。


「君たち、なんだか雰囲気が変わったな」とマルクスが観察した。


「どう変わりましたか?」と私は尋ねた。


「以前より自然体になったというか...」とマルクスは説明を試みた。


「変に気負っていない感じがする」


ヴィクターも同意した。


「確かに、以前は何か重いものを背負っているような印象でしたが、今はとても軽やかですね」


「実際に重いものを下ろしましたから」と私は答えた。


「重いもの?」とマルクスが首をかしげた。


「まあ、色々とありまして」とアリアが曖昧に答えた。


私たちは、転生者騒動や魔王の件について詳しく話すことはできない。しかし、その経験は確実に私たちを変えていた。


「でも」と私は言った。


「結局、日常が一番ですね」


「日常?」とヴィクターが興味深そうに聞いた。


「はい」とアリアも同意した。


「こうして友人と食事をして、一緒に勉強して、たわいもない話をする。それが一番贅沢な時間だと思います」


ルナが手を叩いた。


「それって、すごく深い話ですね!私も異世界転生小説より、今のこの時間の方が大切だと思います」


「君たちは何だか哲学者みたいだな」とマルクスが笑った。


「でも、確かにその通りかもしれない」


食事を終えて、私たちは魔導河のほとりを散歩した。いつものコースを、いつものメンバーで歩く。特別なことは何も起こらないが、それが心地よい。


「魔法蛍は出ませんね」とルナが川面を見ながら言った。


「出なくても十分美しいです」と私は答えた。


「神秘的な現象がなくても、この川は美しい」


「そうですね」とアリアも同意した。


「普通の自然の美しさで十分です」


その時、スカーンが現れた。


「くくく、みんな揃って散歩ですか」と彼はいつものように声をかけてきた。


「スカーン、君も一緒にどうですか?」と私は誘った。


「遠慮しておきます」とスカーンは苦笑いした。


「でも、君たちが平和そうで何よりです」


「平和ですね」と私は同意した。


「これからは、こんな平和な日々が続くのでしょう」


「それで満足ですか?」とスカーンが尋ねた。


「劇的な展開のない日常で」


「満足です」と私は即答した。


「劇的な展開より、穏やかな日常の方がよほど価値があります」


スカーンは満足そうに頷いた。


「くくく、良い答えですね。では、その日常を大切にしてください」


夕方、部屋に戻って一人になった時、私は今日一日を振り返っていた。


魔素計算の授業、図書館での勉強、友人たちとの食事、魔導河の散歩。

どれも取り立てて特別なことではない、ごく普通の学院生活である。


しかし、その普通さが、今は何よりも貴重に思える。


世界を救う使命もなく、特別な力もなく、劇的な展開もない。ただ、友人たちと共に過ごす穏やかな時間。


「これが僕の求めていたものだったのかもしれない」と私は呟いた。


机の上には、明日の授業の予習用教科書が積まれている。


「魔法基礎理論」「古代魔法語初級」「魔素計算応用編」。


以前なら重荷に感じていたこれらの勉強も、今は純粋な知的好奇心の対象として捉えることができる。


窓の外を見ると、魔導河が夕日を反射して静かに流れている。

特別な光も神秘的な現象もないが、その自然な美しさが心を落ち着かせてくれる。


「明日もまた、同じような一日が始まるのだろう」と私は思った。


授業を受け、友人と話し、勉強をし、散歩をする。変わり映えのない、平凡な日常。


しかし、その平凡さこそが、最も贅沢で豊かな時間なのである。


つまるところ...冒険の終わりとは、日常の始まりなのである。

そして日常こそが、最も贅沢で豊かな時間なのだ。

劇的な出来事や特別な使命より、友人と共に過ごす何気ない時間の方が、よほど価値があるのである。



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