暗澹たる暗影に来たる刺客
ボロボロと崩れ落ちるように、黒々とした灰が宙を舞う。
暗闇、暗黒、漆黒、晦冥、鬱蒼、数多に暗がりを示す言葉はあれども、陰の掛かる彼女の心胆を表し得る言葉など、この世界のどこにも存在しないだろう。
触れればドップリと吸い込まれて、そのままどこまでも落ちていってしまいそうな、気味の悪い暗澹たる深淵を映した、無窮の天蓋の下、彼女はただ立っていた。
煌々とした月明かりすら両側の建物に阻まれて差さない、惨憺たる空気が伝播する繫華街の路地裏に、悄然とした硝煙が大気に溶けていく。
嫌に煙たく鼻を衝く、痛烈な刺激臭を放つ黒煙を鬱陶しそうに左手で払って、右手に担った少し古い時代のものに見える黒鉄の拳銃を、ベルトの右側面に付けているインサイドホルスターに収めて、彼女は茫然としているのか、そこを去ろうともせず、ただ黙って立っているのだ。
「――酷いツラだな」
――突如、路地裏の物陰から、一人の青年がヌルリと躍り出る。
文字通り〝影から這い出て来る〟ように。
黒影の中から流れ染み出して来たように、彼女の前に立った青年は、心の底から案じているような、それでいて不愛想にも聞こえる、冷ややかな声音でそう告げてくる。
「――余計なお世話よ……〝触覚〟は排除したわ…………他の三体の行方は?」
彼女は何の前触れも無く眼前に出現した青年に、それが当然であるかのように、特段驚いた様子も無く、ツンとした澄まし顔で言葉を紡ぐ。
「発信機の履歴によれば、ここから西方面に移動している。新宿中央公園、西新宿五丁目、弥生町を経由して、中野区の境界の辺り、一軒の住宅に入ったところで移動を停止した。恐らく、何者かに回収、もしくは保護されたらしいな」
「……少々、面倒ね。その辺りは〝連合〟のテリトリー。これ以上、話がこじれたら、本当に戦争が起き兼ねないわ」
「あぁ。今、動ける奴は少ないだろうが、会長に掛け合って増員を検討して貰うか?」
胸中を鉛のように重く緊迫させる煩雑と疲弊を、わざとらしい程に大きく吐いた溜息で少し振り払った彼女は、暗影を思わせる青年に凛然として向き直り、燃え上がっていると錯覚する程に凄絶な眼光を煌めかせて、
「――いいえ、私が全ての決着を付けるわ。それが、私に課せられた責任だもの」
彼女は例え、天地が引っ繰り返っても意志を曲げるつもりは無い、と目線だけで言い表す。
そんな馬鹿げていて向こう見ずな決意表明、それを手放しに信じ切ってしまうような、凄まじい胆力と意志が惨憺たる空気を裂いて、路地裏に熱を帯びた思惟を迸らせる。
揺らぐ事の無い、悲壮とも言える意志の表明を前にして、青年はどこか困ったように首の後ろを掻いて、この路地裏の影と同じ色彩の瞳の片方を閉じ、癖なのか、不愛想で冷淡な印象を与える氷塊の如き声音で言葉を紡ぐ。
「……それは結構だけどな、オマエは少し休んだ方が良いぞ」
そう言って、青年は彼女の決意に水を、いや、氷を差すように、不愛想に聞こえる低く抑揚の少ない声音を不器用に和らげて、身を案じるような言葉を掛けてくるので、
「……? 私よりも、貴方の方がよっぽど重傷だと思うけど?」
そう青年の左腕を痛ましくぶら下げる骨折用のアームホルダーや顔の幾つかの箇所に貼られた医療用の絆創膏を見て、彼女は不思議そうに小首を傾げ、問いを投げ掛けていた。
「…………自覚なしか。だったら、オマエの方が重症だな」
「?」
青年は投じられた疑問の言と不可解と言った表情に対して、信じられないと少し眉間にしわを寄せた後、どこか気まずそうに、おずおずと諭すような声色で彼女に語り掛ける。
「――オマエ、泣いてるぞ」
そこで不意に彼女は気付く。
自身の両の瞳から、控え目に静謐に二筋、されども哀絶の確かな熱を孕んだ、涙の雫が流れ落ちている事に。
「……さっきまで、雨が降っていたから、そう見えるのよ」
そう彼女は取り繕ったように言うのだが、その雫は梅雨の雨粒の冷たさなどは僅かながらも存在せず、あるのは悲哀の内に零れた人の熱を持った悲泣であった。
「そうかい。まぁ、オマエが何を言おうが、次はオレの番だ。オマエばかりに働かせる訳にもいかないしな。それじゃあ、次は傘くらい持ち歩いておけよ、
そこで青年は会話を打ち切り、クルリと素早く踵を返して、もう何も言う事は無いと言わんばかりに彼女に背を向けると、そのまま同系色の路地裏の影に歩んで行く。
「――待ちなさい、
彼女の鋭利な叫び声を意にも介さず、青年は路地裏に落ちて闇を演じる影と文字通り〝同化〟していき、水滴がシミを蚕食するように広げるようにして、遂にその実像は溶けるように消え失せてしまう。
「……本当に、嫌味な奴」
「――悪い、女の涙は掬うものだと思ってな」
彼女の忌々しげな恨み節が空虚に路地裏を震わせると思った直後に、青年が消失した地点の暗影から、消え失せた筈の彼の声音が小馬鹿にしたように聞こえてきて、そこでようやく、青年の気配が完全に無くなった。
「……更に悪趣味なんてね」
青年が去った路地裏には再び、耳鳴りが鳴ってしまいそうな程の静寂が訪れる。
鈍色に映る雲海の合間より、煌々と差してくる月光を見る。
まるで、涙が零れ落ちないように、大きく天を仰ぐ。
思い出したかのように彼女は、眼前にポツリと残された、藤色のワンピースと汚れの付いた包帯をぼんやりと眺める。
「……ソーマ」
呟きは、誰の耳にも届く事は無かった。
本日は快晴。
昨日までの豪雨が噓だったかのように、燦々と地表を照り付ける眩い日暈は、昨夜の雨滴が張られた地面から、ユラユラとした朝靄を立ち昇らせている。
昨日の夜は、三人の少女を起こさないように気を配りながら、彼女らのワンピースを修繕して、申し訳程度に一限目の物理の勉強をしてから、疲労困憊で眠りに就いた。
意外にも、倉庫で眠るのは悪くなかった。
寝返りを打ちづらいのは欠点だが、それが却って、狭い空間特有の安心感を生み出して、存外の寝心地を嘉地に与えたのだ。
まぁ、そのような事を考えている時間は無い。
嘉地は手早く外出の準備を整えて、彼女らを起こさないように苦心しながら、静かに玄関前まで移動する。
(これは……不燃ゴミで出していいよな?)
そう嘉地は、背に負ったバッグの中に入れた、重厚な金属製の足枷を意識しながら思う。
流石にこのようなものを家に置いておくのは、何だか落ち着かなくて、嘉地は件の足枷をビニール袋に放り込んで、ゴミに出そうとしているのだ。
やはり、興味だけで授業を選んではいけないな、と激しく自戒する。
一限目の物理を忌々しく思いながらも、嘉地は若干白んで見える陽光を発する天蓋の下へ出るのだった。
失念。今日は不燃ゴミの日では無かった。
結局、足枷を持って来たのは、無駄に荷物の重量を増やしただけの結果に終わる。
ゴミ捨て場に向かう前に、大家の女性に昨夜の騒ぎようについて問われ、何とか誤魔化そうとしたが、お見通しと言わんばかりに彼女には茶化されてしまったし、今日も嘉地悠来の悪運体質は全開らしい。
特に問題になるような重量でも無い筈なのに、必要の無い無駄な重量だと自覚した途端に、心身に実体以上の重みが加わってくるのは何故だろうか。
鉛を詰めたような重みを覚える両脚を何とか前へ踏み出させて、嘉地の体は遂に彼の在籍する大学の門をくぐっていた。
一限目の物理は散々だった。
例え、嘉地が未来予知の出来る能力者だとしても、それが一分先の未来しか見えず、更に望んだものを見られないときたら、別にテストの点が上がる訳でも無い。
自己採点でも、五割の点が取れていれば良い方という、正直に言って自尊心が傷付く結果となった。
小テスト後に当然といった様子で行われた、森田という茶色のスーツ姿の教授の講義を半ば聞き流してしまった程である。
真面目な嘉地にしては珍しい事だ。
その森田という教授の講義は圧巻の一言に尽きる。
まるで、階段状に並べられた受講生の為の長机と椅子が来訪者用の観覧席であり、教壇がオーケストラ用の指揮台であるかのように錯覚してしまう。
まさしく熱狂の坩堝。激しく振るわれる的確で深みのある教鞭が天上の調べとなって、聴く者の全てに言い表しようも無い感動と情動を沸き起こさせ、それが終われば、万雷などという表現は生ぬるい、あえて名を付けるなら兆雷の拍手が止めどなく講義室を包み込む。
というのは、流石に誇張しすぎであろうが、そう妄想してしまう程に、森田の講義は素人目で見ても面白く、学術的にも素晴らしいものだ。
何でも、森田はこの明世大学の名物教授で、パンフレットや公式ホームページにも名が挙がる程の人物らしい。
最早、この教授の授業目当てでこの大学に来る学生も少なくないとか。
応用物理学の界隈では、有名な権威だとか。
パンフレットでは三十代くらいだと紹介されていた気がするが、実際に目にすると、何だか年齢以上に老いた印象を与える、そんな不思議な人物である。
まぁ、嘉地にとって、教授の人格や業績というものは、そこまで興味が無い。
しっかりと九十分の講義を遂行して、友人に懇願されてレジュメを写させてやって、二限目までの僅かな間隙をどうするか、と嘉地は何の考えも無しに中庭へ足を運んでいた。
そこは四方を橙色の校舎に囲まれ、新緑の芝生が穏やかな気持ちを思い起こさせ、眩い日輪の明光がそれらを上品に照り映えさせる、明世大学随一の憩いの場。
安らぎを促す山吹色のベンチや色彩豊かな夏の花を咲かせる花壇が並び立つ、見る者に思わず感嘆を漏らさせてしまう程に美麗な中庭に出て、嘉地は少しの余暇をのんびりと過ごそうと考えたのである。
昼頃になれば、浮かれたカップル達がこのベンチで談笑しながら、微笑ましく食事でも摂っているのだろう。その光景が瞼の裏にありありと浮かんでくる。
まぁ、そんなに大した余暇も無いので、のんびりとはしていられない。
この合理性の欠片も無い行動こそが人生である、と嘉地悠来は考える。考えるのだ。
日向のベンチにでも一人寂しく座って、他の学生を座りづらくさせてやろうと考えて、嘉地は目に付いたベンチに意気軒昂といった様子を前面に押し出しつつ、歩み寄って行くのだが、
「――おい、止まれ」
――刹那、凄然とした鋭い声色を以てして、荒々しく呼び止められる。
その苛烈な語調を孕んだ制止の声に、嘉地は一瞬だけ驚きに体を強張らせて、その歩みをピタッと止めると、胡乱な様子で緩慢に後ろを振り返る。
そこに悠然と立っていたのは、嘉地よりは歳が上に見える、薄幸そうな美貌の青年だった。
毛先をクルリと遊ばせた、癖のある漆黒の長髪に、暗影を思わせる陰の入った黒々とした三白眼。
スラリとした美丈夫を包むのは、品の良い紺色のベストに袖の短い純白のシャツ、ベストと同系色のスラックスであった。
だが、そんな折り目正しい厳然とした印象とは裏腹に、青年の左腕は骨折用のアームホルダーで吊り下げられ、顔の所々に医療用の絆創膏が貼られていて、とても痛ましい。
青年は黒色の手袋で覆われた右手で紅のネクタイを直しつつ、嘉地へ射殺してしまいそうな程に凶悪で鋭利な視線を向けて、その漆黒の金剛石にも思える黒瞳に怪訝そうな怪光を湛えていた。
一見して、この大学の教授の誰かかと思われたが、それにしては若すぎるし、そもそも、このように強烈な印象を与える人物であれば、嘉地にも流石に覚えがあるだろう。
であれば、学生の内の誰かかという事も考えられるが、このような青年は知り合いにいないし、嘉地はサークル活動などをしている訳ではないので、完全に見ず知らずの先輩、もしくは後輩に話し掛けられるといった事も無いだろうし、嘉地のキャラクター性から考えても、カツアゲか喧嘩を仕掛けられるくらいしか考えられないのだが。
どう返答したものかと、完全に面食らって少々思案していると、眼前の青年が嘉地よりも先に言葉を鋭く差し込んでくる。
「――『異能協会フィラカス』の
「…………は?」
嘉地は、そんな掠れた呼気にも似た狼狽の声を漏らしていた。
まさしく、頭を重い鈍器で突如殴り付けられたような衝撃。
いつもの嘉地ならば、どこの漫画研究会の話ですか、と軽口混じりに茶化していたところだが、今回ばかりはそのような戯言は発していられない。
――何故ならば、眼前の青年が放つ〝異質〟な黒瞳の耀光が、抜き身の真剣にも似た命の危機を予感させたからである。
「……何言ってんだよ、お前。どこぞのサークル活動の話なら、申し訳ねぇけど、俺は付き合ってやれないぞ」
何故だろうか、黒舘と名乗った青年の凄絶な視線を受けていると、肢体に奇妙な緊迫感が満ちて行き、自身の意思とは関係なく、筋肉の力が抜けていってしまう。
「……? オマエ、まさか一般人か? 〝異能学会〟の森田が在籍している大学に入るから、関係者かと思ったが……」
などと、訳が分からないままの嘉地を置き去りにして、何やら思案に暮れる黒舘。
少しの時間を思索に費やした黒舘は、呆気に取られて二の句を継げない嘉地に向かって、右手で首の後ろを掻きながら、気を取り直して告げてくる。
「まぁいい。オマエの素性は一旦置いておこう『センシズ』の話だ。オマエから『センシズ』に装着されていた発信機の反応がある。だから、こうしてオマエに話を聞きに来た訳だ」
(発信機って……そんなの持ってないような…………あ)
嘉地は思い出す。
不燃ゴミとして捨てようと思っていた足枷、それは遂に捨てる事が出来ず、嘉地のバッグの中に入りっぱなしである事を。
あれは発信機であったのか。
迷子になりやすい子供を追跡する為に、GPSを内蔵した装飾品を着させるようなものなのだろうか。
いや、あの重厚で物々しい足枷は、そんな親愛に満ちた理由で着けられてはいなかったように感じる。
だが、ようやく見つかった三人の関係者らしき男だ。
正直、あの不思議少女達の話は聞いておきたいところ。
「あぁ、あの三人の関係者か?」
「勿論だ。なんせ――」
嘉地の問い掛けに間髪を入れずに、黒舘はニヤリと陰の入った微笑を浮かべながら、
「――オレは『センシズ』を処理しに来たんだからな」
…………?
今、この男は何と言った?
『センシズ』を処理する、それはつまり、彼女らを――
「――ッ!」
――瞬間、嘉地は閃電の如く伝来する結論と危機感に従って、黒舘の傍から跳び退いていた。
その最大限の警戒を宿した嘉地の視線を柳のように飄々と躱して、黒舘は邪悪とも思える漆黒の瞳を見開いて、泰然とした様子で語り掛ける。
「そんなに警戒されちゃ、流石のオレも心外だ。さて、一つだけ勧告しよう。オマエがどう抵抗しようとも、オレ達〝協会〟が『センシズ』を処分する。大人しく『センシズ』を渡せ。そうしたら、少なくともオマエの安全は保障する」
そう右腕を鷹揚に広げて、黒舘は努めて狂気的に嘉地へ交渉を持ち掛けてくる。
「あれは特級レベルの厄ネタだ。こちらが管理した方がいい。オマエに選択肢は無い筈だけどな」
そう、ここで嘉地が交渉を許容しようと否定しようと、恐らく黒舘が行う事は変わらないのだろう。
全く以て、黒舘の言っている事は分からない。
〝異能協会〟だとか〝異能学会〟だとか『神との接触事案』だとか、嘉地には全く分からない。
だが、あんな純真無垢な少女達を殺すと宣言する程に、度を超えて冷淡な黒舘の思惑通りになど、なってやるものか。
「――重ねて言うぞ『センシズ』を渡せ」
嘉地はそんな未来を絶対に許す事が出来ない。
「――嫌だね。それを俺が、大人しく聞き入れると思ってんのか?」
壮絶な緊迫に力が抜けていく虚脱感を必死に抑え付けて、嘉地は強烈なまでの意志力を以てして、黒舘の提案を真っ向から否定していた。
そんな回答がくる事が既に分かっていたかのように、黒舘は困った様子で首の後ろを手で掻いて、一際大きく呆れを伴った溜息を吐くと、心の底から憐れんでいるような語調で呟く。
「――何で自ら死を選ぶんだ? 理解出来ないな」
――刹那、黒舘が纏う空気が一変する。
それは、牧歌的で朗らかな中庭の空気を、殺伐とした戦場のものに変えてしまう程の、圧倒的な戦意の顕現。
痺れを持ったように震え始める体を咄嗟に動かす事が出来ない。
一瞬の間隙を縫って、黒舘は〝異質〟な瘴気を吐き出していると錯覚するような、魔の符丁を諳んじる。
「――〝シャドウ・マスカレード〟」
――刹那、世界が根底から塗り潰されていく。
黒舘の漆黒のブーツの下より、生を渇望する亡者が墓下から這い出して来るように暗影が飛び出して来て、それが瞬きの内に嘉地の視界の全てを覆い尽くしていく。
視界の全てを塗り尽くす暗黒が質量を持ったように吹き荒ぶ。
吹き荒ぶ漆黒の凄風により、嘉地は目を開けていられずに、ただ立ち尽くして暴風が過ぎ去るのを耐えていたのだが、それも数秒程度で終息する。
烈風が過ぎ去って、明瞭になる視界で辺りを見渡せば、そこは以前まで立っていた大学の中庭では無い。
いや、大学の中庭ではあるのだ。
――それが、完全な闇に閉ざされた暗夜の中で無ければ、別の空間だと見紛う筈も無かった。
先程まで、燦々とした陽光を放っていた日輪はどこへ消えたのか、その代替とばかりに藍色の夜空に懸かるのは、血の色をした深紅の満月。
月齢の観点からして、今日は満月では無いし、ブラッドムーンが起こる時期でも無い。
まぁ、そもそも、夜になっている時点で何かがおかしいのだが。
眩い月光を照り返して、中庭の花壇は妙に瑞々しく咲き誇り、深紅の満月が懸かる暗夜の天蓋は、深淵の中に浮かぶ紅玉を映し出しているようだった。
嘉地と黒舘の周囲に存在した、中庭を利用していた人々の姿も見えない。
そんな中でも、煌々と光を放つ深紅の月輪を背にして、黒舘は凛然と立っていた。
明らかに、嘉地と同じ〝異能力者〟である。
(……天体操作? いや、そんな馬鹿げた事が出来るもんか。もしも、そんな事が出来るんだったら、こいつは簡単に人類を滅ぼせちまう)
もしも、黒舘に天体操作が可能だとしたら、地球の自転を止めて、秒速約四百六十五メートルという凄まじい速度で、地上の文明を薙ぎ払う事が出来てしまう事になる。
何か、別の力に決まっている。そう信じなければ、立ち向かう事も出来ない。
「さて、オマエは黒館智明の敵となった。名を名乗れ。戦いにはそれが必要だ」
傷だらけの人間とは思えない程の凄絶な圧迫感を放ちながら、黒舘は眼前の敵の名前を聞き出そうするので、嘉地は背負ったバッグを投げ捨てながら、
「……嘉地悠来だ」
そう胸中を騒がしく跳ね回る心臓の鼓動に急かされるように、名乗りを上げると、
「――そうか。殺すぜ、嘉地悠来。最期は人間らしく祈った方がいい」
――刹那、緊迫の糸がプツリと音を立てて切れて、惨憺たる戦端の火蓋が切って落とされる。
――転瞬、黒舘は傍で漆黒を映している暗影に自由な右手を翳す。
「――『シャドウ・ステップ』」
その奇異な符丁が合図だったのか、周囲の黒影に変化が訪れる。
四方にある校舎の形に暗闇を作る影から、漆黒の霧のようなものが黒煙の如く立ち昇り、それが生物的な意思を持ったように黒舘の周囲に収束していく。
それは霧のような輪郭の無い不明瞭な像を捨てて、あえて形容するならば、変幻自在のタールのように黒々とした帯、といった形を取っていく。
暗影そのものが黒舘の意思に従って、侍従のように彼の周りに渦を巻いて滞空しているのを見て、嘉地は彼の〝異能〟の真価を直感する。
「――影を操る能力か!」
「さぁな。さて、構えろ」
そう黒舘が肯定とも否定とも取れる言葉で嘉地の確信を濁すと、右手を眼前の敵に向けて殺意を込めて翳す。
――刹那、嘉地は攻撃の前兆を感じ取ると同時、未来視を発動していた。
一瞬で脳の中枢が激しい熱を持ち、全身の隅々を走る神経に凄絶な負担が掛かっていく。
コマ送りの様相で流れていく、モノクロ写真のように色褪せた未来の光景を順々に視認していく。
小手調べか、一本だけ放たれた暗影の魔手が嘉地に高速で伸びて来て、対応し切れない愚者の胸を何の躊躇も無く刺し貫く。
それと同時に、嘉地の胸に実際に体験したかのような、凄絶な熱と痛みが襲い掛かる。
便利なのか、不便なのか、嘉地が未来予知で事前に経験した事は、まるで実際に体験したかのように感じられる、という謎の機能が備わっている。
嘉地の意識が現実に浮上する。
「――ッ」
胸を中心に、神経を直接針で突き刺されるような凄まじい痛みで意識を覚醒させて、嘉地は飛来して来る暗影の魔手に対して、上体を逸らす事で躱し切る。
大気を鋭く穿つ魔手を躱した嘉地は、小刻みに未来視を発動、上方から叩き潰すようにして迫る暗影の鎚を横跳びに躱し、両足を刈り取ろうと薙ぎ払われる漆黒の斬刃を軽く跳躍して回避し、三方向から不規則な軌道を描いて命脈を絶とうとする幽暗の刺突に対して、隙間を器用に縫うようにして往なす。
(大丈夫。未来が視えていても、対処が不可能な程の密度と速度じゃない。このまま躱していけば……)
嘉地は思っていた。これ程の重傷者など、戦いにすらならないと。
だが、蓋を開けてみれば、嘉地の黒舘への認識は既に負傷者に対するものでは無く、超越的なまでの脅威にすり替わっていた。
これが、本物の戦闘者の放つ殺気。
正直、膝を着いてしまいそうな程の圧迫感。嘉地は意地だけでこの戦場に立っていた。
「本当に素人か? 喧嘩慣れしているってレベルを超えてるぞ。何かタネがあるな」
そう心の底から不思議そうに黒舘は呟く。
その暗影を混じらせた黒瞳で嘉地の姿を映して、黒舘はどこか納得した様子で、右の掌の上に渦巻かせた黒影を眼前敵に勢い良く投じてくる。
(次は……爆裂する影ッ!)
黒々とした球状に渦を巻いた超常の暗影が投擲される。
嘉地は頭部目掛けて迫って来る暗影に対して、体を半ば捻るようにして回避した後、その後に訪れる放射状に拡散する暗影の爆裂に対処する為に、思いっ切り黒舘の方向に踏み出していた。
踏み込みと同時、空中で渦を巻く暗影が瞬きの内に膨らんだかと思えば、激しく炸裂、そこから全方向に暗黒の杭を散弾銃のように散らばらせる。
唯一の活路。自己安全の為か、黒舘の傍までは影の散弾は届かない。
それを嘉地は、全身を影の散弾に貫かれて、鮮血の海に溺れる未来と共に視た。
地面を揺らがせる程の踏み込みを以て走り出し、嘉地は瞬きの内に黒舘との距離を詰めていた。
動きは未来視により最適、一瞬の遅れも一分の隙も無い。
故に、この拳撃は確実に命中する。
「……やはり、未来を――ッ」
黒舘が完全な理解を伴った言葉を言い終える前に、嘉地の右の拳が彼の左頬を穿つ。
ゴッという拳骨が筋肉を穿つ鈍い快音を深紅の満月の下に響かせて、黒舘の体はフワリと空中に投げ出され、二メートル程吹き飛ばされる。
ドンッという凄絶な衝突音を轟かせ、土煙を撒き散らして地面と激突した黒舘は、痛みに少し呻きながらも、ヨロヨロと立ち上がる。
「……オマエ、強いな。侮った事を心から謝罪する。負傷しているとはいえ、オレに一撃入れる奴は久しぶりだ」
「そりゃどうも……」
最早、感心したといった様子の黒舘は、未だに戦意を途切れさせていない。
手負いの獣は何とやらというが、黒舘が纏う卓越した戦闘者の圧は、重傷である事をまるで感じさせない。
それこそが、嘉地と戦う上でのハンデと言わんばかりに。
「オマエ〝協会〟にこないか?」
「はぁ? 何を急に……」
突如、命の取り合いの場において似つかわしくない程に、軽々とした勧誘の言葉が飛んでくる。
「――『虚構は現実と交わるべきでは無い』これが〝協会〟の信条だ。オマエみたいな正義感を持つ〝異能力者〟には、ピッタリな組織だぜ。どうだ? 嘉地悠来」
終生の友を見つけたような喜色を湛えて、黒舘は〝協会〟という組織へ嘉地を勧誘しているらしい。
だが、そんな勧誘の言葉が耳朶を打った嘉地の心に、マグマを入れられたかのような義憤が沸いて出てくる。
「――ふざけるな……!」
脳の神経をキリキリと締め上げる負担とは違う、カッと熱を持った心血が全身に壮絶な勢いで巡っていく、吐いた吐息すら氷を溶かしてしまうような、そんな憤慨の狂熱。
「俺がそんなもんに入ったとして、それで俺の命は助かって、そうして、あいつらを見殺しにしろって、そんな事、出来る訳がねぇだろうが! 例え〝協会〟とやらが人を助ける組織だったとしても、今あいつらを見殺しにして、生き永らえたその命で、より沢山の人を救ったって、俺は嬉しくないし、そうなるくらいなら、死んだ方がマシだ!」
怒髪天を衝くとは、まさにこの事だ。
暗夜の大学内にまで響き渡る程の咆哮。
青筋を立てて憤慨する嘉地の叫びに対し、黒舘はそう答える事が分かり切っていたといった様子で、特に残念そうな顔も見せず、
「そうだよな。オマエ程の人間が、こんな提案を受け入れる筈が無い。それは、オマエが守りたいものを裏切る事になるからだ。例え、この戦いが〝正義と悪の戦い〟でないとしても」
どこか昔を思い出しているように瞳を細めて、半ば独り言のように呟いた黒舘は、緩めた戦意を一瞬で強く再燃させて、隙が全く見えない程に洗練された、武術にも似た臨戦の構えを取る。
それに呼応して、嘉地は『スペクテイター』を発動させ――
「――なにしてるの?」
――刹那、工業炉の如く燃え上がった嘉地の義憤の熱は、サァっと温度を下げていく。
――何故ならば、紅の命脈が走る嘉地の頸部に、凍て付いたような冷たさを孕んだ、鋼鉄の刃が宛がわれていたからだ。
背後からだろうか、全くの気配も無く、突如として黒鉄の刃が首にピタリと宛がわれ、流石の嘉地も冷や汗を掻いて、動く事が出来なくなってしまう。
だが、動かなければならない。
そうしなければ、嘉地は首を――
「動かないほうがいいよ。首、落ちちゃう」
嘉地の決死の覚悟が分かっているかのように、鈴を転がしたような、この苛烈な戦端には似つかわしくない、フワッとした調子の声が背後から聞こえてくる。
「……マリー、殺しては駄目だ。オレはコイツを殺したくなくなってしまった」
「このニンゲン、アキの顔殴った……なにも知らないくせに」
心の底から残念そうに、マリーと呼ばれた存在は、嘉地の首に宛がっていた黒鉄の刃をゆっくりと退けて来る。
そこで嘉地はようやく、まともな呼吸をする事が出来る。
呼吸の僅かな振動すらも、嘉地の首を落としてしまうと錯覚する程に、紙一重の差で首が落ちずに済んでいた。
荒い呼吸を何とか整えた嘉地は、忌々しい怨敵の姿を一目見てやろうと、弾かれたように後ろへ振り返る。
そこにいたのは、見上げる程の長身が特徴の麗人だった。
癖のあるクルクルとした紫紺の長髪は、珠玉のような美しい光沢が出ており、黒薔薇の飾りが付いた漆黒の女優帽でそれを美麗に覆い隠していた。
魔性の輝きを放つ紅玉を嵌め込んだような紅の瞳が、絶世の美貌を殊更に映えさせている。
二メートル近い見上げる程の長身を包むのは、黒薔薇の飾りがあしらわれた、楚々として優艶な漆黒のドレスであり、それは彼女自身の豊満な起伏に縁取られていた。
そして、彼女の右手には、およそドレス姿の麗人には合う筈も無い、無骨ながらも絢爛な装飾が施された、漆黒の大剣を担っていたのだ。
マリーは名残惜しそうに嘉地の背後から消え去って、黒舘の隣へ文字通り、影がフワリと移動したように並び立って、彼の打撲の傷をしきりにチラチラと確認しているらしい。
心配そうに目を伏せるマリーに、黒舘は大丈夫だと言わんばかりに、少し背伸びをしながら、右手で彼女の左の頬を撫でると、安心したように表情が和らいだ。
その直後にマリーの実像が溶け出すようにして解け、黒々としたタールにも似た黒影に変換された。
黒舘の〝異能〟は、単純に影を操るだけでは無いのか。
余りの事態に、思考回路が凍り付いて、地面に縫い止められたように肢体が動かなくなってしまう。
いつでも、嘉地の事は殺せる、と黒舘は考えているのだろう。
何故ならば、本気で嘉地の事を危険視しているのならば、先刻の大剣に首を刎ねさせてしまえば良かったのだから。
「すまない、マリーが水を差してしまったな。さぁ、続けようか? 嘉地悠来」
「フッ、今に見てろ。その余裕綽々なツラ、もう一回殴り飛ばしてやる」
互いにキリキリと極限の集中を高めていって、まるで水を注ぎ続けた杯から、表面張力の限界を迎えて水が零れ出すように、剣吞と闘志の糸が切れる。
その狂熱の様相を呈す戦端は、まるで堰を切ったように開かれる。
「少々、出力を上げるぞ」
初手、黒舘が右手を横合いにフッと柔らかく振ったかと思えば、その前後で、その手の軌道上にあった、黒い鉄柱の街灯が音を立てて切断される。
キンッ、という金属が破断される甲高い音を響かせて、暗夜の下の地面に抵抗する事も出来ずに、黒の街灯は轟音を立てて倒れ込む。
全く見えなかった。
言わば、それは人間の動体視力では、不可視にも近い漆黒の斬撃。
これ程の速度と威力を出せるというのか。
(これは……真正面からの突破は無理だな)
嘉地は、真っ向からの殴り合いによる、黒舘の打倒を諦め、それ以外の方法での勝利を模索し始める。
――瞬間、策を逡巡する嘉地を目掛けて、閃電の如き速度の暗影が忍び寄る。
「――ッ!」
暗影の飛来を感知したのとほぼ同時に複数回未来視を発動、その全くの無力で惨憺たる結末を認識した後に、嘉地は眼前に迫り来る、愚者を嘲笑っているかのように思える攻撃に対処する。
攻撃は三度に渡って行われた。
一撃目、真っ直ぐと嘉地の頭部を狙った暗影の刺突。
その速度は先程までとは比べる事すら烏滸がましい。まさしく、一回死ななければ対処が不可能な程の必至の一撃に対して、嘉地は頭を左に傾ける事で回避する。
二撃目、緩やかな曲線を描くようにして右方より迫る、一撃目との緩急を付けた斬撃。
本来ならば、胴部を袈裟に斬られて死に至る絶対の斬撃に際して、嘉地は生と死が鏡写しになったと錯覚する程の紙一重で、後ろに上体を逸らす事で往なし切る。
三撃目、地面を這うようにして左方から迫る、嘉地の死角から急激に角度を変えて首を縛り付ける絞首。
恐らく、これが本命。嘉地が全ての攻撃に対処する事を前提にして、消耗させた隙を突いて拘束する為の三撃目。だが、事前に知っているのならば、恐ろしいものでは無い。完全な死角から蛇のように襲い掛かる絞首の黒影を、嘉地は寸分の狂いも無い程のタイミングで後ろ跳びに躱し切った。
それら全てが本来回避不可能な程の必殺の攻撃。
嘉地は不快に拍動を乱す心臓の鼓動に従って、命脈の源である酸素を渇望するように荒い呼吸を整えていく。
限界だ。
未来演算による凄絶な負荷を強いた、嘉地の中枢神経はヒート寸前。全身に走る神経回路がビリビリと奇怪で鋭い痛みを発し、血管が浮き出て血走った瞳は余りの情報処理に耐え兼ねて、少しばかり充血してしまっている。
「――リミット三回ってところか? それが『未来視を用いて本来ならば回避不可能な攻撃』を躱し切れる最大数」
「…………」
黒舘がつらつらと、嘉地の命脈の終焉を告げてくる。
そうだ。
先程まで嘉地が行っていたのは、言わば綱渡りの自殺行為。
嘉地は一撃目の攻撃によって殺される未来を認識した直後、再び未来視を発動、既に一撃目の攻撃を知っている状態で未来視を発動した為に、それを躱し切る未来を視認する事が出来た。
それを繰り返して、嘉地は三撃目までの致命的な未来を知っている状態を作る事が出来たのだ。
だが、この行為は形容するならば、核融合炉を短時間に何回も点火し直すようなもの。
ただでさえ、体に負担が掛かる未来視。それを一秒にも満たない時間で三回も発動した嘉地の脳は、誇張を抜きにして悲鳴を上げていた。
「次は〝四回〟だ、嘉地悠来。次の攻撃で、オマエは確実に敗北する」
心に深く暗澹とした影を落として、絶望を突き付ける絶対的な勝利の宣言。
この嘉地悠来が、それを大人しく聞き入れて、白旗を上げて敗北を受け入れる、とでも黒舘は思っているのだろうか。
否。
断じて否である。
「……いや、勝てなくたって、負けない方法はあるぜ」
「それは?」
それは――
「――逃げるんだよォ!」
転瞬、嘉地は黒舘から弾かれたように背を向けて、脇目も振らずに全力で逃走していた。
「……まぁ、勝ち目が無いなら、正面戦闘は避けるよな」
どこまでも氷のように冷然として、黒舘は背を向けて疾走する嘉地に向けて、つまらなさそうに致命の影を差し向ける。
大学の校舎内に進入しようと疾風の如く走り込む嘉地の背後から、彼をバラバラに引き裂こうとする暗影の魔手が四手に分かれて追い縋って来る。
「――これ、光で照らせば消えんのか!?」
自身にとってはまさに天啓の閃きで、嘉地はポケットからスマートフォンを取り出して、焦りながらも懐中電灯モードを選択すると、スマートフォンから放たれる眩い光を這い伸びて来る暗影に投射するのだが、特段何かが起こる訳でも無い。
「ウゲェ!」
良く考えれば当然。この程度の光で消えるようならば、そもそも、月明かりの出ているこの場で影の操作が出来ているのがおかしい事になる。
当てが外れたと間抜けな声を高らかに上げて、嘉地はギョッとして即座に回避行動に移る。
背中をバツの字に斬り裂こうと下方から掬い上げるように躍り掛かる、二つの暗影を振り返る事も無く〝視認〟して、嘉地は上体を半ば屈める事で躱し切り、その後に放たれる追撃がこちらに到達する前に、校舎内に転がり込むように入り込む事に成功する。
即座に中庭からの死角に入って、強弓から放たれた矢のように壁に穴を穿つ二つの暗影を横目に、素早く見慣れた廊下を走って行く。
血の色をした深紅の満月が、廊下へ向けて妙に美しい白んだ月光を差してくる。
一年間何度も行き交った筈の見慣れた廊下は、いつもと姿形が同じものである筈なのに、疾走している理由が殺戮者から逃げる事となっただけで、どうしてこうも惨憺たる無機質さを放つのだろうか。
怨敵を射殺そうと一定間隔で放たれる、矢の如き暗影を転がりそうになりながらも躱していって、嘉地の強く地面を蹴る両足は、西棟一階の端の方まで向かって行く。
(このままいけば、行き止まりの筈だが……血迷ったのか?)
黒舘は心の中で静かに呟く。
大学内の構造について、嘉地は黒舘よりも遥かに知っている筈だ。
それにも関わらず、明らかに自身で逃げ道を狭めていっている。
これを愚行と取るか、もしくは奇策と取るか。
その答えは恐らく、すぐに知れる事になるだろう。
何故ならば、嘉地が分かり切っていた結末として、廊下の突き当たりにブチ当たり、苦し紛れか、すぐ隣にあった部屋に入り込んだのが視認出来たからだ。
黒々としたタールにも似た暗影を周囲に追従させながら、強い警戒を絶やさずに、眼前にある妙に重厚感のある木製の両扉を強烈に蹴り開ける。
目の前に広がる部屋は研究室なのだろうか、それにしては私室のような印象を受ける、豪奢な作りをした一室。
一目見て高級と分かる品の良い木製の机には、一見して何を表しているか分からない研究資料やファイリングされた報告書のようなものが散乱しており、その他には応接用のガラステーブルや長椅子、ゆったりとした瞑想に適したロッキングチェア、壁の一面に狭苦しい程に並べられた凄まじい蔵書量を誇る本棚などがある。
そして、何故だろうか、この部屋は異常に暗い。
ただ一つを除いて、遮光カーテンに閉じ切られたガラスの窓からは、外の闇空に懸かる深紅の満月の銀閃が届かない。
唯一、嘉地の背後にある遮光カーテンが開かれた窓からは、銀の輝きをキラキラと乱反射させる月光が、放射状に部屋全体に広がって、不確かな光源をもたらしている。
(影が多い空間……考えずともオレに有利な場だ。諦めたのか?)
光の進入経路もカーテンが開かれた窓の一つのみで、更に光源は天に懸かる満月のみ。
部屋の四隅には、嘉地をどう喰い殺してやろうかと、今か今かと黒舘の号令を待っているかのような、目に見える闇という光景以上の惨憺たる気配を漂わせた暗影が、不気味に迸っていた。
「――知ってるか? この研究室、
深紅の満月を堂々と背にして、透徹した閃耀を放つ緑青色の瞳で黒舘を射抜いた嘉地は、唐突にそんな言葉を紡ぎ始める。
「森田って教授は変わり種で、ここはほぼ完全な防音だし、見ての通り、窓に遮光カーテンを張って外からは見られないようにしてるんだ」
「いまいち要領を得ないな。何が言いたい?」
嘉地悠来が何を言いたいのか、何をしたいのか、それは分からない。
だが、黒舘の長年の経験から研ぎ澄まされた直感が、大音量で警鐘を鳴らしている。
――これは危険な状況だ、と。嘉地は未だに諦めていない、と。
「――つまりだ、光がねぇと、影は影じゃなくなっちまうんじゃねぇか?」
――刹那、嘉地は弾かれたように素早く、背後にある残った一つの遮光カーテンを閉じていた。
必然、天井の蛍光灯すら点かず、唯一の光源だった月光が遮られて、一気に研究室は一寸先すら視認する事が出来ない、暗澹たる冥界へと早変わりだ。
目に痛い程の完全な闇の世界が嘉地と黒舘の両名を包み込む。
何をしているのだろうか。
このような事をしても、視界不良に陥った黒舘から逃走する時間は稼げても、根本の解決にはなっていない。
耳鳴りがする程の静寂と一切の視認を拒む暗闇の最中、一番に状況を把握していたのは、他でも無い黒舘であった。
(マズイ。気付いていたのか『シャドウ・ステップ』の弱点をッ)
刹那の逡巡。
その後に間を置かずに、黒舘が追従させていた暗影が全て解けるようにしてパッと霧散して、一切の影を操作する事が出来なくなってしまう。
そうだ。
黒舘の『シャドウ・ステップ』は近場の影から操作する〝虚構〟の暗影を取り出して、それを操るというのが基礎の能力だ。
だが、例えば〝影を影と認識出来なくなる〟といった状況に陥れば、黒舘は暗影を操る力を途端に失ってしまう。
このような完全の闇の中で、どうやって影と闇を見分ける事が出来るだろうか。
(だが、アイツも条件は同じ。この暗闇の中じゃ、オレを殴るのは難しい――)
入る時に扉を閉め切ったのを猛烈に後悔しながらも、黒舘は背後にある筈の扉に手を掛けようとして――
「――何!?」
――刹那の閃光。唐突にカッと断続的な眩い燐光が瞬いて、鮮烈なまでに黒舘の眼球を焼いていた。
ただでさえ、暗夜の中で暗闇に目が慣れていたところで、突然の凄絶なフラッシュに、流石の黒舘も目を開けている事が出来ず、一瞬、ほんの一瞬だけ隙を晒した。
この目潰しの為の閃光が、嘉地のスマートフォンが放った懐中電灯の断続的な光だと知るのは、後になっての事だった。
この明かりのおかげで、黒舘の位置が大まかに掴めた。
「――オオォオォオォッ!」
瞬間、裂帛の気合で喉を張り裂けんばかりに震わせて、嘉地は走り出していた。
凛とした紅の満月が懸かる粛然たる暗夜に、嘉地の狼の如き咆哮が大気にヒビを入れながら轟いた。
床面を強烈に震わせる壮絶な踏み込みにて一閃、嘉地はコンマ一秒にも満たない時間で黒舘の懐に潜り込むと、満身の力を溜めた右の拳を、弓を引き絞るように引いていく。
もう、未来を視る必要も無い。
それ程にこれは決定的だった。
「――グッ! ガァァ!」
――インパクトが炸裂する。
嘉地の壮絶な膂力を誇る拳撃が、黒舘の腹部に音を立てて鋭くめり込んで、バキッという無機質に乾いていながらも生物的な湿気を帯びた快音を響かせて、彼の体は軽いボールのように吹っ飛んでいって、扉をブチ破り背後にある廊下の壁に激突する。
凄絶な衝撃に自身の拳すらも、どこか痺れたような痛みを発しながら、嘉地は噴煙を半ば纏っているような有り様の黒舘に向かって歩いて行く。
皮肉なまでに、月光は照らす場所を選ばない。
きっと、これが映画ならば、勝利の証左として朝日でも昇っていた事だろう。
そう思ってしまうぐらいに美麗な輝きを放つ、煌々とした月暈の瞬く閃耀は、廊下の壁に突っ込むように激突した黒舘に、暗澹たる影では無く、爛々たる光を当てていた。
「俺は『センシズ』がお前らにとってどんな存在で、どうして処分しなくちゃならないのかなんて知らない。でもな、あんな小さな子供が死ななくちゃならないなんて道理は間違ってるし、それを肯定する理由なんて、この世界のどこにも存在しちゃいけないんだよッ!」
嘉地悠来は鬼をも退かせる程の凄まじい鬼気を伴って、黒舘に憤怒の形相で詰め寄っていた。
黒舘は肋骨が折れて肺に突き刺さったのか、呼吸の度に苦しそうに喘ぎながら、喀血してしまっているのだが、そんな事は彼のしようとした事に比べれば、些末な罰であろう。
「お前らがあいつらを殺そうとするなら、俺が幾らでもてめぇらの前に立ち塞がる。何度来たってぶっ飛ばしてやる! それが、俺に課せられたせめてもの〝贖罪〟だ!」
まさしく、大言壮語。
嘉地悠来は本物の戦闘者の前で、傲慢にも、高慢にも、驕慢にも、そして傲岸不遜にも、そんな無鉄砲な虚勢を堂々と言ってのける。
その裂けるような大音声が耳朶を打った黒舘は、胸の壮絶な痛みも忘れて小さく口を開き、呆気に取られたように瞠目した後、フッと緊張感が満ちていた全身の力を抜いて、口角を少しだけ上げて微笑する。
未だに勝負は決していないにも関わらず、黒舘は敗北を認めたように肩の力を抜いて、自嘲気味に苦笑する。
それがまるで、心の底から救われたような表情に見えて、嘉地は瞬きの内に動揺して、ほんの少し後退りをすると、その前後で彼の鼻面の前に突如として、漆黒の大剣が突き付けられる。
それは、黒舘の背から伸びた暗影から、這い出るようにして出現したマリーの殺意の発露。
マリーは黒舘の体をしっかりと左腕で支えながら、右手に担った漆黒の大剣を嘉地の顔面に突き付けている。
「もう、これ以上は見ていられない……! アキが無理なら、わたしが倒す……!」
息が詰まる。
文字通り、呼吸も忘れて、眼前にコンマ数センチの距離でピッタリと静止する、大剣の鈍色を凝視する。
無理だ。
マリーという存在がどのような存在かは分からないが、少なくとも人間では無い。
今の嘉地に彼女を倒す術はない。
警戒に強張って、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる嘉地の緊張の線を解いたのは、口の端に鮮血を一筋垂らした黒舘に他ならない。
黒舘は右手でマリーの事を言外に制すと、フラフラと立っているのもやっとな状態で嘉地に向き直る。
「マリー、ワガママばかりですまない。オレは魂から敗北を認めてしまった」
「…………ばか。そういう愚直なところ、ずっと変わんないんだから……」
痩せ我慢のような痛々しい笑顔をマリーに向けて、黒舘は嘉地に神妙な面持ちで向き直ると、喀血しながらも明瞭な語調で語り掛ける。
「――その通りだ、嘉地悠来。アイツらが死んでいい筈が無い。オレもそう思うよ。だが、趨勢は変わらない。これは個人間の問題じゃなく、組織間の問題だ。今更、止める事は出来ないんだよ」
そこで言葉を切って、何か大きな期待を込めたような瞳を炯々と光り輝かせて、黒舘は飽くまでも悪役のような不敵な笑みをニヤリと浮かべて、
「――嘉地悠来、オレは一旦撤退する。治り掛けてたアバラも折れちまったしな」
声は滔々と続いた、有無を言わせないように。
しかし、次に掛けられた言葉は刹那に躊躇ったようで、少し間が開いていた。
声色は、冷然とした氷のようなものでは無かった。
「――覚悟を決めろ、嘉地悠来。そして、証明して見せろ『センシズ』を救うのは自分だとな」
そこまで言い切ると、黒舘の周囲に滞留していた暗影が爆発的に質量を増していき、視界を覆い尽くす程に吹き荒び始める。
陰惨とした瘴気を纏った暗影が吹き荒れ、嘉地の五感の全てを奪い攫って、目に痛い程の黒色が、表現上の色という枠組みを超えて光を次々と吞み込んでいく。
最早、嘉地は自身の存在すら不明瞭な程の言わば〝無光〟の中に立ち尽くし、空間そのものが別の位相に放り込まれる過渡期に立ち会っているのでは無いかと妄想する。
瞼の裏と光の無い空間の区別も無くなった時、不意に瞼の裏に眩い自然が作り出した模様が浮かび上がる。
そう、瞼を通して陽光が差してきたのだ。
そうか、自分は目を閉じていたのか。
恐る恐る目を開けると、そこは何事も無かったかのような平常通りの大学内のキャンパスであった。
隣をチラリと見ても、森田の研究室の扉は壊れていないし、黒舘の姿も無い。
そこで突然、郷愁というのか、急な懐かしさに襲われる。
日輪とは、このように暖かく、鮮烈に映るものだったのか。
太陽の放つ燦々とした日暈により、その周囲の大気が僅かに光を乱反射させて、七色の虹霓を映し出しているのを、嘉地はしみじみと見ていると、
「……キミ、何をしているのカネ?」
突如、隣の研究室の扉が開け放たれて、その中から語尾が強調されるような癖の強い喋り方をする男性が嘉地に声を掛けてくる。
聞き間違える筈も無い。
この喋り方と声は、嘉地の物理担当者、森田啓一だ。
良く考えてみて欲しい。
研究室から出てみれば、まるで初めて太陽を見たような反応で窓から空を見ている不審者を、森田は目撃したのだ。
その所為か、怪訝そうな声を隠せていない。
有り体に言えば、不審がって見ているのだ。
その後、森田からは散々変な行動の動機についてしつこく聞かれた挙句、からかわれた後にスクールカウンセラーへの相談を勧められてしまったのだった。
酷薄無残。
「散々な目に遭った……」
そう嘉地は胸中に重く圧を持って降り掛かってくる疲労感と倦怠感を溜息で吐き出して、トボトボと憔悴した様子で住宅街を歩いていた。
一限目が終わって一息吐こうと思えば、黒舘という男と戦闘になり、それを退けて時計を見れば、余裕で二限目が始まっている時間だったので、足を絡めそうになりながらも講義室に急いで入っていったら、変な人を見るかのような白い目を全身に浴びる事になったのだ。
あの肌に突き刺さるような視線と疎外感は、神経がそれほど図太くない嘉地には相当に堪えたものだ。
そうして二限目も無事(?)に終了して、午後に講義は入れていない為、嘉地はこれから自由行動が出来る訳だ。
太陽が南中し切って、ほんの少しだけ日を傾けている昼頃に、嘉地は自身のアパートに帰って来た、
きっと、あの三人はお腹を空かせて待っているだろう。
まさしく、親鳥からの餌を待つ雛のように。
そんな笑ってしまうような想像をしながらも、嘉地は鼠色のコンクリートブロックで構成されたアパートの一階に踏み入る。
外と地続きのアパートの一階部分に入って、そのまま階段から二階に行こうとしたところで、
「――その見るだけで幸運が逃げていきそうな薄幸顔は悠来くんじゃないか。偶然だねぇ」
そんな飄々とした軽々しさを孕んだ声音で、嘉地は背後から声を掛けられていた。
マズイ。今、一番会いたくない人に捕まってしまった。
「……大野さん。それを言うなら、幸が薄そうな後ろ姿とかの方がいいんじゃないですかね?」
そう現実から目を背けるように恐る恐る、後ろにゆっくりと振り返ると、そこにはこのアパートの所有者である、大野が髪をクルクルと弄びながら立っていた。
ニヒルな笑みを浮かべる整った顔立ちに、手入れをしていないような漆黒の短髪。大きなクマが縁取る、落ち窪んで炯々とした黒い瞳。
他人にどう見えているのか気にしていないのか、女性らしい肢体を包むのは『オカルト第一!』とプリントされた白いTシャツに、所々が破れたボロボロのホットパンツであった。
「いや、君の不幸顔が変わる事は金輪際ないだろうからね。予見して言ってみただけだよ。全く、今日はいつにも増して薄幸じゃないか。君の顔は隣に置いておくだけで厄除けになってくれそうな程に、自分不幸でござるって感じだが、そこまで疲れていそうなのは久しぶりに見たよ。遂に幼気な小学生に手を出して、命辛々ここまで逃げて来たって感じかな?」
「ちげぇよッ! 俺を勝手にロリコン扱いすんのやめてくれ! ったく、どこからそんな考えが出てくるんだよ……」
愉悦と喜色を湛えた陰のある微笑を浮かべて、滔々と流れ出して来る軽口の応酬は、止まる事を知らない濁流のようだ。
いつもの調子に乗せられてはいけない。
大野に『センシズ』を匿っている事が暴かれでもしたら、何をされるかは想像に難くないだろう。
その時は、嘉地の通報からのブタ箱エンドが確定する。
「朝も聞いたけど、昨日は随分とお楽しみだったじゃないか。小さい女の子の可愛らしいソプラノボイスが管理人室にも届いていたとも。これは、悠来くんが異常性癖を拗らせて、幼女を誘拐監禁したというのが妥当なシナリオだと思うんだけど。それとも、少女趣味の紳士向けアダルトコンテンツが爆音で流れたとか?」
「だ・か・ら! とりあえず俺がロリコンである事を前提に話を進めるのを一旦やめてくれないか!? 泣いちゃうぞ!? 大人げないと思わないのかよ!」
「ふーむ、私は永遠の十七歳だから、正確には子供に泣かされる大人の構図になる訳だけどね」
「あんた何歳だよ!?」
完全に手玉に取られて、クツクツと喉を鳴らすように乾いた笑いを漏らしている大野を恨めしそうに睨み付ける。
悔しがって地団駄を踏みながらも、嘉地は大野を半ば無視するように歩き出す。
「俺、やる事があるんで。自称十七歳の怪しい大家には付き合ってられないんで」
これ以上付き合っていたら、どこかのタイミングで致命的な失言をしてしまいそうだ。
そんな厳然として不愛想な態度を取る嘉地を見て、大野は名残惜しそうに精一杯の猫撫で声を発しながら、
「えぇぇ、つれないなぁぁ。私にもいつもみたいにご飯を作ってくれぇ。お姉さんは悠来くんをからかうのと君の料理を食べるのだけが生き甲斐なんだからぁ。さもなくば、生活力の無い私は死んでしまうよぉ」
「……生き甲斐それしかないのかよ! もっと他にやる事を…………」
その時、嘉地は天地が揺らいで根底から崩れ去ってしまうような、そんな致命的な違和感を抱き始める。
酷く濃い靄が掛かったような、掴もうとも掴み切れない、しかし明瞭な疑念が膨れ上がり、違和感の正体を察し始める。
大野は何と言った?
彼女は『私にも』と言ったのだ。
まるで、他の存在がいる事を既に知っているような言い方だ。
それは……つまり、
「…………大野さん『私にも』って、どういう事ですか……?」
もう、答えは分かり切っているようなものだが、聴かずにはいられなかった。
大野は悪びれた様子も無く、当然といった調子で、
「――あぁ、安心したまえ。通報はしないよ。全く、君という男は意外と隅に置けんな」
悲しい事に、大野には全て筒抜けだったのだ。
気を取り直したい。
「どうして、あいつらの事を知って……」
最早、嘉地の体から汗がじっとりと滲むのは、昨夜の雨の湿気と外の茹だるような暑気によるものだけでは無い。
大野は死人のように白い血管が透けて見える右手をヒラヒラと振って、察しの悪い嘉地に事実を突き付けてくる。
「知っているも何も、もう既に知り合いさ。君が大学に行ったのとそんなに時間を空けずに起きたみたいで、彼女達は君がいないと大騒ぎでね。流石の私も見兼ねて宥めに行ったんだよ。やれ『お腹が空いた』だの、やれ『ハルキがいないと寂しい』だの、半泣きで縋り付いてくるものだから、困ってしまったよ。全く、君はつくづく幼女と縁があるねぇ」
そうか、大野が三人を見てくれていたのか。
そこは純粋に感謝せねばならない。
だが、その前に聞き捨てならない事を聞いた。
「幼女との縁って……何を根拠に……」
「そう思ってしまうのも当然だろう? 家出した少女がいれば根気強く相談に乗って、ネグレクト状態で家を追い出された少女がいれば、その両親に事情を聞いて、状況によっては殴り掛かっていく。まさしく、少女を助けた回数は天壌無窮の如し。ここまできたら、不幸な少女を狙って正義を実行するロリコンヒーローと噂されても仕方が無いと思うけどね」
「噂されてんの!? 冗談だよな!? 冗談って言ってくれよ、大野さん!」
「……」
「え? マジ? マジで言ってんの?」
この微妙な沈黙は、もしかして本当の事なのだろうか。
ともすれば、嘉地は往来ですれ違う人々に『あ、ロリコンヒーロー来た』と謂れの無い軽蔑と侮蔑の感情を向けられていた事になるのだが。
気まずそうに咳払いをして、大野は重大な情報を嘉地にひた隠しにしながら、取り繕った軽薄な笑みを浮かべつつ、
「コホン。まぁ、悠来くんが幼女の一つや二つ拾って来たところで、もう驚く事じゃないって訳さ。今更だしね。さて、悠来くんには伝えなければな」
そこで大野は勿体振ったように言葉を区切って、嘉地に含みのある意味深長な表情をして、朗々と言葉を紡ぐ。
「単刀直入に言うけど、アイちゃんとパレトちゃんは君を探しに外へ繰り出してしまったよ。大学にいる事を伝えたら飛び出して行ってしまったんだ」
「ハァ!? あんた、命を燃やし尽くしてでも止めろよ! 明らかにヤバいって分かるだろ!?」
何と、アイとパレトは嘉地を探しに今ここにいないらしい。
流石に〝協会〟とやらの追手がすぐにでも彼女らを確保する事は無いと思いたいが、万が一という事もある。
そうでなくとも、子供二人を付き添いなしで外に行かせるのはいかがなものか。
「いや、私は見ての通りの虚弱体質だし、そんなものに同行したら日射病に罹って死ぬよ。まぁ、本当は止めたかったんだが、力づくで止めようにも凄まじい筋力に負けて、挙句の果てには素早すぎて追う事もままならなかった。一応言っておくけど、これは冗談じゃないよ」
この大人、まさか幼女に筋力で負けて、追おうにも脚力で負けたと堂々と宣言するのか。
正直、嘉地は大野の手前なので堪えてはいるが、頭を抱えたい気分だった。
「……そうだ。イアはどうだ? その言い方だと外に行った訳じゃないんだろ?」
そう、大野は飽くまでもアイとパレトが外に出たと言ったのだ。
唯一の希望といった様子を全面に出して、大野に噛み付かんばかりに半ば詰め寄ると、暑苦しいと言わんばかりのしかめっ面で嘉地を押し戻しながら、
「勿論、イアちゃんは外に出ずに、そこの階段で座っているよ。どうやら、もしも悠来くんと入れ違いになって、帰って来たら分かるように一人は残した。何故なら、私達は心が繋がっているから……らしいよ。いやはや、どういう理屈なのかは知らないけどね」
その大野の玲瓏たる印象を与える言葉に、嘉地は天中に燦々と輝く太陽が胸底に宿ったような気持ちになって、急いで二階に通じる内階段へ走り出していた。
最初は半ば歩きながら、その後はドンドンと疾走による加速度を増していって、鈍色のコンクリートが鳴らす乾いた衝突音が速く断続的に耳朶を打つ。
ここからでは折り返すようにして設置されている内階段の全容は見えず、逸る気持ちを抑えながらも疾駆は勢いを増していく。
五メートルの距離も無い階段までの道のりが、まるで無限長の空間を遅々として歩いているように感じる。
喧しく高鳴る鼓動のままに階段まで走って行くと、鼠色の無骨な階段に細い腰を落として、ちょこんと身を縮めているワンピース姿のイアがいた。
イアは嘉地を見るなり、はにかみながら微笑んで、おかえりと言いたいように手をヒラヒラと振ってくる。
「♪」
心の底から安堵して、角度的にスカートの中の真っ白な下着が見えるのを努めて見ないようにすると、素早い動きでイアの隣まで上がって行く。
そのままイアの隣に座り込むと、ぎゅっと肩を抱き寄せて、その無事を確かめる。
勿論、黒舘を退けた直後に見計らったように攻撃を受けるなど考えられないが、それでも不安はどこかにあった。
イアは抱き寄せられた事に目を白黒させて、不服そうに体を振っているのだが、嘉地からすれば、その動作すらも存在を証明するようで愛おしい。
「そうだ、イア。お前ならアイとパレトを呼び戻せるんだよな?」
そう嘉地は思い立ち、イアと顔を向け合って、言葉を投げ掛けるのだが、彼女は何だか要領を得ない顔をして、不思議そうに小首を傾げる。
「?」
まるで、何を言っているのか分からないというように。
「……あ、そうか。イアは耳が聞こえないのか……なら、前まで意思疎通が少し取れてたのは何で……まさか……」
予想でしかないが、彼女らは心が通じ合っているらしい。
これは誇張でも何でもなく、文字通り心で繋がっていて、念話のような事が出来るとしたら、アイとパレトが聞いた言葉をイアに伝えるという事をしているのかもしれない。
合点はいったが、このままでは意思疎通を取る事が出来ないので、嘉地はスマートフォンを取り出して、そこに文字を打ち込み、それを見せる事で会話する事にする。
アイとパレトを呼び戻して欲しい旨を伝えると、イアは了承したといった様子で親指を立てると、集中するように両目を閉じた後に、自慢げな笑みを浮かべて嘉地を見てくる。
これで情報伝達は出来たのだろう。
そこで、気まずい沈黙が訪れる。
やけに喧しく聞こえる車の走行音や周囲の人々の談笑。
そう、嘉地はイアの事が良く分からない。
アイとパレト以上に、何を考えているのか分からないのだ。
昨夜の大雨による湿気とジリジリと地表を焼く陽光の熱波による二重奏で、蒸し焼きにされたような気分になりながら、どうしようかと思っていると、イアは嘉地の肩をトントンと叩いてくる。
「アァアァアァ、ゾンビの真似ェ……おっと、何だ?」
意識を虚空の中に放り込まれて意味不明な事を口走っていた嘉地は、注意をイアに向けてみると、彼女は自身の金剛石の如き瞳を指差して、何か疑問に思っているような態度で首を傾げる。
これは、嘉地の瞳が充血しているのを疑問に思っているのだろうか。
黒舘との戦闘で、異常な負荷に晒された嘉地の眼球や脳は現在ダメージを負っているのだ。
昨日見せてくれた、漫画の吹き出し方式の会話方法は使ってくれないらしい。
ここはイアとの意思疎通を訓練する良い機会だ。
嘉地は自身を親指でグイグイと指し示すと、シャドーボクシングの如く拳を空振りさせて、戦いがあった事を言外に示す。
「…」
明らかに伝わっていない。
そこで嘉地は自身の頭を指差して、掌をグパグパと激しく開閉させて、まるで爆発してしまったかのようなジェスチャーをする。
「!?」
イアはそれを見た途端に血相を変えて、嘉地の頭を撫でたり、顔をつまんだり、頭頂部を叩いたりして、無事を確かめているらしい。
明らかに別の意味で伝わってしまっている。
というか、叩かれて滅茶苦茶に痛い。
多分、このままだとイアに頭蓋を砕かれる。
マズイ、嘉地が命を落とす前に誤解を解かなければ。
嘉地は手でイアを制した後に、拳を空振りさせた後に、殴るのをやめて欲しいと腕を交差させてバツ印を作る。
続けて、嘉地は自身の頭を親指で指し示すと、元気である事を最大限に伝える為に、腕を大きく広げてガッツポーズをする。
その後、嘉地はどんなジェスチャーをしたのか覚えていない。
命乞いをするように、滑稽なまでの身振り手振りをしたのは覚えている。
そこまで真の意味で命を懸けたジェスチャーをすると、イアは呆気に取られて瞠目した後、徐々に顔を綻ばせていく。
「――ふふっ」
そうイアがもう堪え切れないといった様子で静かに吹き出すと、その直後にハッとした様子で口を塞ぐと、嘉地に聞かれてしまったか聞いているように視線を送る。
おかしな少女だ。
声を出した程度で、そのような反応をするとは。
イアの声は鳴らされた事の無い新品のオカリナのような瑞々しい銀鈴の声音で、何もおかしな事など無かった。
それを伝えたいが、伝える方法も筆記以外に無いので、イアの小さな頭を撫でてやる事で言外に伝える事にする。
不器用に頭を揺らされて、イアは少しだけ頬を染めて嘉地から顔を逸らす。
恥ずかしそうに体を寄せて来るイアとの時間は、束の間だったにも関わらず、永遠にも感じられて、突き刺すような暑さから逃れられる影の差した内階段には、何だか六月の暑気とは違う温かさが満ちる。
ずっとそうしていたいのは山々だが、
「――ハルキ! シャドウボクシングしてたら頭が爆発して、最高にハイになりながら、暴れまくったってどういう事!?」
そうアイが致命的な勘違いしながら突っ込んで来たので、ハートフルな触れ合いは終了である。
朝食と昼食を作らなかった事について、不満のままにポカポカと殴られて、三人を宥める為に遅蒔きながら昼食を作ってやるところで、合鍵を用いて大野に部屋に侵入される。
「さぁて、悠来くん。私にも食事を作って貰おうか。さもなくば、昨日から食事を抜いている私は行き倒れる」
「あ、やよい!」
「うん、いかにも私は
「やよいもハルキのご飯食べに来たんだ!」
「ちょっと待て。何で大野さんが同席する事が当然みたいになってんだ。俺はそろそろ大野さんにメシをたかられるのは我慢ならねぇぞ」
そう、ここに住んでからというもの、管理人の大野が度々こちらに足を運んで、嘉地の料理を食べに来るのだ。
その他にも、管理人小屋の掃除をしろ、風呂を借りたい、体を洗ってくれ(当然断った)髪を切ってくれ、話し相手になってくれ、朝起こしに来てくれ、果ては服の着替えを手伝ってくれ(断った)など、嘉地をどんな人物だと思っているのか。
「俺は大野さんの召使いじゃねぇっつうの!」
「じゃあお母さんになる訳だね」
「せめてお父さんだろうがッ!」
このままでは、嘉地の人生は大野の召使いで埋め尽くされてしまう。
それだけは避けねばならない最悪の事態である。
大野の召使いに終身雇用ルートは流石にゴメンだ。
「まぁ、落ち着きたまえよ。私は泣きじゃくるこの子達を諌め、落ち着かせた功績がある。これは言い逃れの出来ない事実であり、これに対する報奨を用意するのが道理だ」
「グッ……そこを突かれると弱い。というか、泣いたの?」
「泣いていないのです……本当ですよ?」
そうパレトが心外だと補足を入れてくるのにも構わず、大野はどこで培ったのかペラペラと回る口で嘉地を口説き落とそうとする。
「そう、私がいなければ、彼女達を落ち着かせる事も叶わず、そのままの熱量で三人仲良く君を探しに行った事も考えられる。そうなれば、不思議な意思疎通パワーで今一度合流する事は叶わなかったかもしれない。どうだい? 私の成した事の重大性が君でも理解出来てきたのではないかな?」
良く回る口だ。切り落としたい。
だが、ここまでの話で食卓に着いた三人の少女達は、大野の側に回り掛けているようで、非難がましい目で嘉地の事を見ている。
「フッ、彼女らも私の意見に賛同らしい。さぁ、私に食事を提供して貰おうか!」
八方塞がりだ。
このまま大野を突っぱねれば、三人から非難囂々といった手厳しい言葉を貰う事になる。
しかし、大野を受け入れれば、更に彼女を付け上がらせる事になる。
「仕方ねぇなぁ! ここは大野さんの口車に乗ってやんよ!」
今考えたら、大野が今回やった功績程度で、今までのツケを帳消しに出来る事は無いのではないか。
そう考えるも、大野が心底喜悦に綻ばせた笑顔で三人の少女と喋っているのを一瞥したら、そんな気も失せた。
全く、嘉地悠来の薄幸はこんなお人好しからくるのではないか。
だとしたら、不幸に自分から突っ込んでいる事になる。
生まれ持ったタチとは、本当に難儀なものだ。
それから、昼の天中に懸かった眩い太陽が斜めになっていって、夕暮れの鮮烈なまでの橙色を放ち、宵闇の深い藍色に変わるまで、嘉地の住むアパートには和気藹々とした声は途切れる事は無かった。
六月の茹だるような暑さも引いて、冷たいまでの静寂と深い濃淡を投げ掛ける宵闇が嘉地を取り囲む。
暗澹とした暗黒に落ちた倉庫にて、控えめに窓から差してくる月光は、そこにある雑然として様々な物品によって複雑に屈折して、様々な箇所に墨のような影を投げ掛けていた。
嘉地はそのような倉庫に敷布団を敷いて寝転がって、思案に暮れていた。
三人の足首に着けられていたのは発信機だった。
これは黒館智明との戦闘の際にバッグごと放棄して、そのまま消えてしまった為、今となっては確かめる術は無いが、恐らくこれは真実だろう。
だとしたら、こんなものを着けさせた〝おかあさん〟とやらは、恐らく〝協会〟側の人間なのだろう。
何故ならば〝協会〟が『センシズ』を発信機によって補足していた以上、それを着けさせた〝おかあさん〟はそれに準ずる存在だからだ。
嘉地は思索する。栓の無い、それと同時に残酷な結論を。
三人が何故〝おかあさん〟から逃げたかは分からないが、少なくとも〝おかあさん〟が友好的な存在では無いという事。
そして〝おかあさん〟は『センシズ』を処分しようとしている組織側の人間という事も。
〝異能学会〟と『トツカ作戦』『神との接触事案』の事は未だに分からないが、嘉地は心に一つ鋼鉄のような芯を立てる。
必ず、三人の事を守り抜くと。
黒舘の言葉を思い出す。
『覚悟を決めろ、嘉地悠来。そして、証明して見せろ『センシズ』を救うのは自分だとな』
言われるまでも無い。
マグマのように血液を迸り煮え滾る、業火の如き凄まじい決意を心胆に込める。
「――俺はあいつらを守り切る」
キラキラと瞬いた満天の星芒に懸かる、煌々たる剣の如し偃月に誓う。
嘉地悠来、証明しろ。
もう二度と失わないと。
この力に課せられた責任に掛けて。
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