40.交渉
「さっきは取り乱して悪かった。…あぁ。大丈夫だ。…じゃ」
シリルはH.I.Dの通話画面を切り、振り返った。
「この後、もう一度クロードと話せることになった。改めて、交渉を持ちかける。」
────そして俺たちは、2回目のハスフィニット社のビルの前に来ていた。
「…そういやお前、さっきあいつに『シリルちゃん』って言われてキレてたけど、そう呼ばれてたの?」
「あぁ。何度言ってもあいつは止めることがなかった。そういうところが嫌いなんだ」
シリルのクロードへの嫌悪は、なにか蓄積した恨みがあるような言い方だった。これだけシリルが嫌っている一方で、なぜクロードはシリルに対して好意的なのだろう。
「…こう言うのもなんだが、あいつは私に惚れている。別れた後も未練タラタラだし、婚約破棄だってなかったことにしたいのが本音だろう。つまり、アドバンテージはこっちにある。データをもらえる可能性はゼロじゃない」
低く、冷たい声でシリルは言い放った。
──────あいつのことは大嫌いだが、使えるものは全部使ってやる。
そう、言いたげに。
「やぁ、2回目だね。一日に何度もシリルと会えて嬉しいよ。」
「……もう無駄な話はしないことにした。単刀直入に言う」
「せっかちだな、俺はシリルと話していたいのに」
ニコニコと笑うクロードを無視して、シリルは口を開いた。
「ハスフィニット社で扱う、個人の医療データを一部貸して欲しい。もちろん外部へデータの公表は一切せず、解決したら使用したデータの痕跡は残さず処分する。」
「データ」という言葉を聞き、クロードの顔が変化した。さっきまでの表情が消え、急に真顔になる。
「……お願いしたいことってそれ?」
「あぁ。色々あって、特定の人物のデータが必要なのだが、その手立てがなく困っている。」
「ふーーん……」
足を組んだクロードの椅子が軋む。
手を顎に当て、考え込んでいたようだ。
「……なんで必要なんだ?」
「それは言えない。ただ、どうしても、必要なんだ」
「ふん………」
クロードは息を吐いた。
「俺のところのデータを借りる、ってのはどういうことがわかってるか承知でお願いにきたんだよね?」
「………可能な限り、そちらの要望も受け入れる。もちろんタダで聞いてもらおうとは思わない」
張り詰めた空気が部屋を支配した。
数秒後、クロードが笑みを浮かべ、口を開いた。
「…じゃあ、こうしよう。シリルとの婚約破棄を白紙にして、正式に婚約する。欲しいのは、君だ」
「なっ………!」
ドナとシリルは、予想外の答えに言葉を失った。
「ありえない待遇だと思うよ。理由も聞かず、極秘のデータを一部貸し出してあげるなんて。シリルだから特別だよ?まぁもちろん、表向きは新商品の開発に伴うデータ提供と言う形で問題にならないようにしてあげるから」
シリルは一点を見つめて考え込んでいる。
私が婚約を認めれば、ドナの母親のデータが手に入る。
差し出すものはアンベリカ社の情報でも、なんでもない。”私”自身が決められる状況。
ドクン、ドクン、と心臓が波打つ。冗談で言っているのか?いや───違う。
クロードの顔を見た。
きっとこいつは本気だ。
「………あ」
喉の奥から捻り出すように言葉を出そうとした、その時。
「シリル、行くぞ。」
ドナが腕を掴んで立ち上がった。
「へ…?」
「この話はなしだ。ここでデータを得なくていい。行くぞ」
「で、でも」
「いいから」
クロードは、シリルの腕を掴むその非シープがやけに目障りに映った。
「…おい。俺は今、シリルと話している。非シープが口を挟むな」
苛立ちのせいで崩れた口調から、クロードの本性が垣間見えた。
ドナはクロードを無視してシリルに言った。
「シリル、この婚約は俺のとは訳が違う。ここでしていい選択じゃない。」
「…!」
ドナの言葉が私を冷静にする。追い詰められたときの判断なんて、まともな答えじゃないに決まっている。
「……”俺の”?」
ドナの言葉に、クロードが違和感を覚えた。
「…いや、まさかな」
シリルが目を伏せた。その仕草に、嫌な予感が体を這いずり回った。
「おいそこの非シープ、H.I.Dをよこせ」
「は?嫌…っおい!返せよ!」
秘書がドナの体を抑える。クロードがドナの服中のポケットを漁り、H.I.Dを漁った。
「…っ!」
ドナの虹彩認証でH.I.Dのプロフィールを開く。
そこに現れた、『配偶者:シリル・アンベリカ』という欄。
何度見ても見間違いではない。そこにあるのは、シリルの名前だった。
────その意味を理解した瞬間、クロードの視界が歪んだ。油性の溶剤が混ぜ合わさる時のように。
「…そ…ん…な」
「クロード?」
ショックのあまり、クロードはその場で泡を吐いて倒れた。
「…クロード様、クロード様」
部下の声に、ハッと目を覚ます。
辺りを見渡すと、俺を囲む部下と、シリルと、非シープがいる。あぁ、俺は確か─────
視界に入ったドナの顔を見て、再びブクブクと泡を吐き沈んでいった。
「クロード様ーーーーーー!!!」
「………シリル。君は、この非シープと、結婚したのか。」
自分でその言葉を吐くのすら辛いといった風に、高そうなハンカチを口元に当てる。
「……あぁ。」
「………俺と婚約破棄して、この非シープと?」
「………あぁ。」
重い空気が流れる。改めて交渉を再開したが、尋問のような時間だった。
クロードは走馬灯のように、シリルと交際した期間の思い出が頭に流れた。キラキラと輝く(※クロードの脳内補正)シリルが、もう今は別の男のものだ。思い出の中のシリルが、鏡が割れたように崩れていく。
「………ありえない。信じられない。100歩…いや、1万歩程譲って、他の企業の御曹司とならまだ理解できる。だが、どう見てもこの薄汚い非シープは一般庶民だろ。」
「悪いが今はもう私は”その”非シープと結婚している。言葉を選んでほしい」
「………こいつを選んだ?シリルが?そんな…」
そこでドナは気づいた。クロードは、自分たちが偽装結婚したことに気づいていない。正規の結婚だと誤解していた。
しかしここで偽装結婚だとわかれば、今すぐに解約するよう言われ、さっきのように交渉を持ち掛けられるだろう。それを断るためとしては都合がいい。
「そういうことなんで、ほら、シリル帰るぞ」
「…いや」
シリルはその時、この状況をチャンスだと思った。さっきの自分は冷静じゃなかった。
今は、逆だ。クロードがこの場で最も追い詰められている。追い詰められた時の判断がまともではないならば───────
「…さっき、交渉をのめば「表向きは新商品の開発のための情報提供としてデータを渡す」と言ったな。」
「え?あぁ。」
正気を失ったクロードは、興味なさげに返した。
「じゃあ今決めた。医療データを使用して新たな新商品を作る。だからデータを譲って欲しい。」
シリルははっきりと言った。
「…それで通ると思ってるのか?」
「データをくれたら、ドナとの結婚を解約してやる。その後どうするかは私が決める。今ある結婚関係を破棄する大きさは、わかるだろう」
「…!」
シリルはこのとき、条件を提示する側に回った。自分たちが、1ヶ月後には解約することが決まっているのを利用したのだ。
「私が独身になれば、あとはもう一度アプローチでもなんでもすればいい。ただ私は今もうパートナーがいる。その状態を解約するのが先だ。」
取引条件はさっきよりもかなり軽度になっている。しかし今のクロードは混乱状態だ、冷静な判断ができないなら呑むだろうと読んだ。
「……結婚の、解約……」
クロードはそう呟き、しばし部屋に沈黙が走った。
「……乗った。絶対にこの非シープからシリルを取り戻す。」
交渉成立だ。
そしてシリルとクロードは契約書を作成し、お互いのサインを書いた。クロードはシリルに、持っている医療データの必要情報を新商品開発のもと提供すること、受領確認が取れ次第、シリルは現在の婚姻関係を解約すること。書いている双方の要求の整合性は側から見ると意味不明だが、両者の受諾によって定められたものなので有効だ。
その様子を見ていたドナは少しだけ胸がざわついた。確かに俺も最初は偽装結婚だったことに戸惑ったが、こんなにもあっさりと離婚に繋がるとは。やや寂しさはあるが、元々偽装結婚だったので仕方がない。そもそも1ヶ月後に解約する予定だったし。
「まさかシリルがこんなにもあっさりと離婚してくれるとはなぁ」
クロードはシリルの腰に手を伸ばしたが、その手から逃れるように強い口調で言い放った。
「先にデータをもらうのが先だ。そもそも個人の特定ができるかの疑念が残っているからな」
「条件で抽出するよ。どんな人物なんだ?」
「…カルダンという姓の女性で、年齢は32-60。17年前に出産歴がある。この条件で調べてくれ。」
「わかった。」
クロードがH.I.Dで誰かを呼び出すと、その数分後に女性のシープが現れた。
「自社の医療用データの管理を行っているニナ・カロリプスだ。」
クロードが紹介したシープは、顔にそばかすがあるシープだった。ミルクティー色のショートカット髪から、牛のような形状の小さめのツノが生えている。
「…クロード所長。さっきの件なのですが」
ニナはパソコンを触りながら言う。
「……少々、問題がありまして」
ニナは耳打ちするようにクロードに伝えた。
「何?」
「…どうした?」
シリルが眉を顰める。クロードは、ニナへ説明を求めるよう目配せした。
「先ほどの条件の女性はヒットしました。しかし、その候補であろう女性のデータが何者かに一度ハッキングされたあとがあります。」
「…は?」
「名前と生年月日、ID、性別等の簡単な基本情報以外の情報が大部分が消されているのです。本来なら、リアルタイムで情報の提供があると更新されるはずのデータが、ない。」
「…なんだって」
ドナが呟く。
「…遺伝子データはないのか?」
シリルがニナに尋ねる。
「ありません。この女性が亡くなってデータの更新が止まったのではなく、明らかに人為的に消されている。」
部屋に沈黙が走った。
「……どういうことだ。シリル、お前が調べようとしている人は一体?」
「…私もこれは、予想していなかった。」
唯一の手がかりが得られると思ったハスフィニット社のデータ。まさか、消されているなんて。
「…教授と同じだ」
シリルはボソリとつぶやいた。間違いない。ドナの父と母は、どちらも人為的にデータが消されている。
しかし幸い、母親のIDまでは消されていなかった。
「…名前とIDだけ、教えてくれ。」
「ベレニス・カルダン。IDは146974085」
シリルはH.I.Dにメモを残した。
「……至急、データ管理システムの緊急メンテナンスを行う。他にデータのハッキングがないか確認が必要だ。カロリプスくん、手配の方を頼む」
「…はい」
そう命じられ、カロリプスは部屋から去った。
「…なんてことだ。こんなこと、絶対にあってはならない」
「まぁ今回をきっかけに気づけてよかったな。私のおかげじゃないか」
「……それは、そうだが」
シリルが煽るようにクロードに言う。…やけにニコニコしながら。
「…?データは提供したんだ。約束通り、離婚を───」
「しないぞ?だって受領していないからな。」
「は?」
「私が欲しいのはベレニス・カルダンの”遺伝子データ”だ。それをまだ私は受け取っていない。誰かさんの会社のデータの管理が杜撰なせいで」
クロードは驚いた猫のように口を開いたまま固まった。
「あっ…あっ……!」
「契約上、必要情報を受け取らないと受領したとはいえないからな。遺伝子データを準備できたらまた呼ぶんだぞ」
固まったクロードに背を向け、ドナの腕を組んだ。
「さ、帰るんだぞドナ」
「お、おう………」
軽快な足取りで、ハスフィニット社を去るシリルとドナ。残された部屋で、クロードは叫んだ。
「シリル〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
その叫び声は、廊下まで響いていた。
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