珈琲と逍遥

なわふみ

第1話 好奇心の扉

橘葵、21歳。文京女子大学の3年生で、大手町の『Cat Paw Beans Café』でアルバイトをする日々。山梨の実家から上京し、憧れの東京での生活を夢見てきたが、自己肯定感の低さから就活ではエントリシートは通っても面接で言葉が詰まる自分に焦りを覚えていた。


それ以上に、彼女を悩ませていたのは、恋愛経験のなさだった。

友人たちの楽しそうな恋バナを聴くだけ。人見知りの影響か、自分から積極的に話せず紹介されても次に進展しない。

接客なら挨拶もできるのに、意識すると話せない自分にモヤモヤする毎日。


小柄で少女のような雰囲気は、時折「高校生?」と接客中に聞かれることがあり、それが密かなコンプレックスだった。だが、心の奥では、恋愛への憧れと未知の世界への好奇心が燻っていた。


今日もカフェの店内は、香ばしいコーヒーの香りと穏やかな人々のざわめきに包まれていた。

葵は手早くカウンターを拭きながら、隣で笑い合うバイト仲間たちの声を聞いていた。


「あの目つきが鋭い長身の常連、よく来るよね」

「怖いんだよ…睨まれてるみたいで」

「職場この近くなのかな、他にもカフェあるのにね」


バイト仲間たちはささやき合うように話し、時折こちらをちらりと見た。葵も彼のことは知っていたが、特別怖がったり、避けたりはしていなかった。むしろ親近感が湧いていた。


それはある日のこと。彼がカウンターでスマホを取り出した瞬間、手が滑ってカウンターに落ちた。

慌てて拾い上げようとした彼のスマホの画面に、一瞬だけ画像ファイルの一覧が映し出され思わず葵の目が止まる。

そこには、予想に反して、猫の画像がぎっしりと並んでいた。


彼はすぐに画面を閉じたが、どこか焦った様子だったので葵は見ていないふりをした。

飼い猫かな?カワイイな、猫好きの葵は急に身近な存在に思えた。


その日から、葵がやわらかい笑顔で接客し挨拶も自然とできるようになった。彼の目つきも以前より少しだけ柔らかくなり、挨拶程度はかわすようになっていた。


ある日、カフェの閉店後、先輩の美咲が片付けを手伝いながら葵に話しかけた。「葵ちゃん、めっちゃ可愛いんだから、もっと自分に自信持ったら? 高収入のバイト、興味ない? 就活の資金にもなるし、ちょっとした冒険になるよ。」美咲の目はキラリと光ったが、どこか親しみのある笑顔だった。


葵は戸惑った。美咲が紹介したのは、都内の高級会員制コンカフェ、客は厳選された高収入の男性だけの会員制だから安心だと美咲は説明した。「葵ちゃんの雰囲気なら、絶対人気出るよ。面接だけでも行ってみなよ。」


葵の心は揺れた。コンカフェなんて人見知りの自分とは無縁の世界だと思っていた。だが、就活のことで自信を失い、「大学時代を恋愛経験しないままで終わりたくない」という思いが頭をよぎった。自分を変えたい。新しい自分に出会いたい。そんな衝動が、恐怖を上回った。「…面接だけなら」と、葵は小さな声で呟いた。


高級コンカフェ『Diana Drop』はキャストが妹になり客を「お兄ちゃん」呼びし、ブラコン全開で接客するコンセプトだった。

事務所は、六本木の高級マンションの一室。黒革のソファと柔らかな照明が、葵の緊張をさらに煽った。オーナーの晶子は、40代の落ち着いた女性で、穏やかな笑顔で葵を迎えた。「橘葵さん、21歳。とても魅力的ね。この雰囲気なら、優しいお兄さん役のお客様にぴったりよ。」


葵は勇気を振り絞って告白した。「あの…私、男性と付き合ったこともなくて、自信もないしうまく話せないんですけど…自分を変えたくて。」彼女の声は震えていたが、目には決意が宿っていた。


晶子は驚いた様子を見せつつ、優しく頷いた。「それは素晴らしい勇気だわ。葵さんのペースで大丈夫。体験入店してみて、嫌なら辞めればいい。あなたが納得できる選択をすることが大事よ。」その言葉に、葵は少し安心した。晶子はピンクのリボンが付いたワンピースを手渡し、こう付け加えた。「この衣装で、素敵なお客様に会ってみて。葵さんにぴったりの人がいるわ。」


葵は髪をツインテールにし、ワンピースに着替えた。

胸の奥がざわつくが腹を括った――それが、始まりだった。

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