二人の時間③
とんとん、という包丁の音がお昼前の料理部部室に響いた。
小気味良いリズムで刻まれていく葱と大根を見下ろし、僕はなんとなく嬉しくなった。そういえば祖父ちゃんは大根の味噌汁が好きだったっけ。
昆布と鰹節で出汁を引いた鍋がふつふつと音を立てる。まな板の上を包丁がざっと滑ると、飛び込んだ短冊切りの大根と油揚げがふわふわと揺れ始める。
大根が透明になったら火を止めて味噌を投入。ちょうど良く土鍋のご飯が炊きあがる。
金網の上でじゅうじゅうぱちぱちと音を立てる
ご飯をお
よし、完璧。
僕はするするとエプロンを外し、和室のさらに奥、障子の向こうに呼びかけた。
「先輩、お待たせしました」
「そ、そうか! 意外と早かったね!」
花模様の障子がゆっくりと開いて、先輩がおずおずと隣の洋室から出てくる。僕が料理してる間にセーラー服から私服に着替えたみたいで、ふわっとした白いシャツに薄茶色のスカートをはいてる。
窓から差し込む春の光に、袖口のレースの刺繍がきらきらする。すごくお嬢様っぽいっていうか先輩らしい雰囲気だけど、制服よりちょっと柔らかい感じ。
なんて考えてると、先輩はどうしてだか恥ずかしそうにスカートを摘まんで、
「その……どうかな。今年は少し気分を変えて、こういう明るいコーディネートを試してみようと思うのだけど」
「? すごくよく似合ってます」
セーラー服でも巫女装束でも、先輩はなんでもよく似合うなあって感心。
と、先輩はなぜかうつむき加減でちょっと赤くなり、
「そ、それは良かった! では冷めないうちにいただくとしようかな!」
慌てた様子で座布団の上に正座する先輩にちょっと首を傾げ、ご飯をお茶碗によそって並べる。
座卓を挟んで向かい合い、一緒に両手を合せて「いただきます」。
さすがに緊張してしまう。見守る僕の前で先輩はいかにも上品な仕草でお椀と箸を取って味噌汁を一口。
「……美味しい」
呟き、今度は焼き魚を箸で切って口に運び、
「うん、これも。とても御厨君らしい、優しくて素朴な味で……あ! これは悪い意味ではなくてだね!」
「はい。よかったです、先輩の口に合って」
僕も味噌汁を一口。うん、上出来。祖父ちゃんはもうちょっと濃い味付けが好きだったけど、先輩に合せて気持ち薄味にして良かった。
生徒会室での会議が終わった後、先輩と僕はなんとなく料理部の部室にやってきた。授業も部活も休みの学校はすごく静かで、木立の中を歩いていると世界に僕たち二人だけになったみたいだった。
昼間の光に照らされた部室の畳は、寝坊した日曜日の匂い。
先輩はさっそく「何か作ろうか」って言ってくれたんだけど、今日は僕が料理したいって言ったらちょっとびっくりしてた。
初めて立つ料理部の台所は何もかもがぴかぴかで、全部の道具が使いやすい場所に置かれてて、先輩がこの場所をすごく大切にしてるんだっていうことが空気だけで分かった。
先輩から借りたエプロンを着けて、先輩がいつも使ってる包丁とまな板と鍋と菜箸とお玉で、僕は祖父ちゃんと二人でよく食べてた普通の献立を作った。
先輩は興味津々っていう感じだったけど、恥ずかしいから完成するまで隣の部屋で待っててくれるようにお願いした。
昔話の鶴女房みたいだね、って先輩は笑ってた。
「御厨君は、ご実家ではお祖父さまと毎日こんな料理を作っていたのかい?」
「そうです。……まあ、祖父ちゃんが半年前に死んでからは一人で作って一人で食べてましたけど」
菜の花のおひたしを一口。うん。苦みと旨味が程よく混ざって良い感じ。
「やっぱり、誰かと一緒に食べるともっと美味しいですね」
言ってから気付く。そういえば先輩は、初等部の時から一人きりでこの場所で料理を作って、一人で食べてたんだっけ。
生まれて初めて作った料理がひどい失敗作で、だけど、その料理を美味しいって食べてくれた人がいたって、初めてご飯をご馳走になった時に言ってた。
その人は誰だったんだろう。
わからないけど、でも、僕がその人の代わりになれたのならすごく嬉しい。
「……そういえば、御厨君。生徒会のことなんだけどね?」
なんて考えてると、先輩が急に茶碗と箸を置き、
「無理をしなくて良いんだよ? きみはまず普通の学生として覚えないといけないことがたくさんあるんだし、私は別にどんな噂が立っても……」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
僕も箸を置いてうなずく。自分がものすごく大きな問題の真ん中にいるのは分かってて、生徒会はその問題に対処してくれてるんだから、自分もその中にいた方が良いのは間違いないはずだ。
危険から逃げられないときは自分から飛び込めって、祖父ちゃんも言ってたし。
……っていう話は部室に来る途中でもしたんだけど、先輩はやっぱり浮かない顔。
そんな姿を見ているうちに、僕はピンときて、
「あの……先輩ってもしかして苦手なんですか? 押見副会長」
最初に生徒会室に行ったときもだし今日もだけど、先輩は副会長に対してだけは弱腰っていうか、上手く反論したり強気な態度に出たり出来ないように見える。
果たして、白いシャツの肩がびくっと震える。
無言で反応をうかがう僕に、先輩はなんだか気まずそうに視線を逸らして、
「……古い付き合いなんだよ。私の氷川家と押見家、それに
夜の星空みたいな瞳が、窓の向こうに広がる鎮守の森を見つめる。
先輩は、ふぅ、と息を吐き、困ったみたいに微笑んで、
「澄葉さんは天才でね。物心付くか付かないかの頃に自力でツクヨミシステムを起動してしまったんだ。かたや私の方はと言えば、いくつになっても須佐之男命の声さえ聞こえない有様で。……そんな私を可哀想に思ったんだろうね。向こうの方が一つ年上ということもあって、彼女は学園に入ってからも何かにつけては私を気にかけてくれて。……執行役員になったのも、彼女に強引に勧められたからなんだ」
それが必ずしも嬉しくはない、っていう心の声が聞こえた気がする。
同じ三名家の跡取りで、同じ三機神の依代で、小さい頃から立派に役目を果たしてきた副会長と、果たせなかった先輩。
「だけど、先輩だって──」
式神操作も符術も神卸もすごくて、みんなに天才だって尊敬されてるじゃないですか──喉まで出かかったそんな言葉を飲み込む。
きっと、そういうことじゃないんだろう。
だから代わりに身を乗り出して、先輩の艶やかな黒髪にそっと手のひらを乗せる。
「御厨君……?」
「僕、がんばります」
ちょっと失礼かも、なんて思いつつ柔らかい髪をほわほわと撫で、
「上手く言えないですけど……でも、先輩と一緒に頑張りますから」
かすかに息を呑む音。瞬きした先輩が、なんだか泣きそうな顔で笑う。
と、細い体が急にしゃきっと背筋を伸ばし、
「御厨君、今からすごく大事な話をするよ?」
「な、なんですか?」
慌てて手を引っ込め、僕も姿勢を正してしまう。
と、先輩は急に視線を逸らして、
「実はね……私は殿方と付き合うというのがどういうことか、よく分からないんだ」
膝の上で両手をもじもじさせ、すごく恥ずかしそうに、
「初等部の頃から色々な男子生徒に告白はされたのだけど、何をどうしたら良いのか分からないから全部断ってしまってね。……だから彩葉君に聞かれたときも笑い飛ばしてしまったのだけれど、もしそれで御厨君の気持ちを傷つけたのなら……」
「え! い、いや、そんな!」
慌ててぶんぶんと首を振る。
だけど、同時にちょっと安心。
そっか。僕だけじゃなくて、先輩にもわからないんだ。
「実は……僕もそういうのあんまり詳しくなくて。漫画とかアニメとかでは時々出てきますけど、うちの村って子供が僕一人しかいなくて」
「そうなのかい?」
きょとんと目を丸くする先輩。
その顔が見る間に花が咲くみたいな笑顔に変わり、
「なんだ。それじゃあ同じだね。私と御厨君は」
「はい、同じです」
二人で顔を見合わせて、どちらからともなくあははと笑い声。
先輩はふんわりと柔らかい笑顔のまま、
「ねえ御厨君。……提案なのだけど、私たちはまず『お友達』から始めるべきだと思うんだ」
「『お友達』、ですか?」
「うん。以前に読んだ小説でそういう記述があった。男女が交際を始める時の、一番最初の段階だって」
「あ、僕も見たことあります。そういうの」
だろう?って笑った先輩がそっと右手を差し出す。
僕も同じように右手をのばしかけ、学生服のズボンでこすってからあらためて差し出す。
触れ合った先輩の手のひらは、すべすべで柔らかくて、ちょっとひんやりした感触。
「あらためて、今日からよろしくお願いするよ。御厨宗一郎君」
「こちらこそよろしくお願いします。……氷川夏乃先輩」
*
擦ったばかりの墨の良い匂いが、昼下がりの料理部に漂う。
片付けを終えた座卓の上には
「さて、それじゃあ始めようか」
「お願いします」
先輩と並んで正座し、頭を下げる。
うなずいた先輩が流れるような手つきで筆を手に取り、穂先に墨を含ませて部員名簿の上に運ぶ。
上等な半紙の名簿には「高天原学園料理部」の文字と、「氷川夏乃」の名前。
その隣に、見事な達筆で「御厨宗一郎」の名前が書き記される。
筆を置いた先輩が神符を一枚取り出し、名簿の上に置いて柏手を打つ。神符が光に溶けて僕と先輩の名前の上に紋様を描き、すぐに消える。
「ちょっとしたおまじないだよ。料理部が末永く、安泰に続きますように、ってね」
まっすぐ僕に向き直り、照れたみたいに視線を逸らして、
「なんだか恥ずかしいね。あらたまってこういうことをすると」
「僕もです」
顔がちょっと熱くなった気がして、部室の天井を見上げてしまう。
と、頬にちょんと柔らかい感触。
驚いて顔を向けると、唇を離した先輩が照れた顔で笑う。
「……これ、友達の挨拶ですか?」
「そうだよ。前にも教えてあげただろう?」
なぜか自信満々の顔で胸を張った先輩が窓の外に視線を向け、
「さて、競技祭も終わったし、次は中間試験だね」
「……うげ」
忘れてた。田舎の学校は生徒が僕一人でテストなんてあってないような物だったけど、高天原の試験ってものすごく厳しいんじゃ……
「おや、どうしたんだい? 御厨君。急に自信がなくなったっていう顔だね」
「はい……実は……」
顔が自然にうつむき加減になってしまう。
と、頭にほわりと柔らかい感触。
先輩がものすごく嬉しそうな顔で僕の髪を撫で、
「それじゃあ、今日からまた特訓だね」
「はい!」
先輩がするすると正座のまま近づいて、僕にぴたっと体をくっつける。そうするとなんとなく、僕の方が先輩の肩に頭をあずける格好になる。
いつか逆になると良いな、なんて思いながら、先輩と一緒に視線を上に向ける。
窓の外にはうららかな春の日差し。
柔らかな風に吹かれて、生い茂る木々の梢がざわめいた。
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