9. 明鏡止水



「盗撮したね」

「急に帰りやがって」

「盗撮したよね?」

「悪戯で……」

「あ?」

「……はい。申し訳ありませんでした」

「もう二度としない?」

「しないって」

「言葉がなってないのでは?」

「しませんしません」

「盗撮かつ拡散。非常識だって小学生でもわかる」

「でもさぁ、あんな写真撮れちゃったら誰かに見せたくなる」

「おや、姿勢を崩したね? あと十分追加ね」

「んなバカな!」




 昨日と同じく人気のない廊下に連れてきて約束どおり謝罪させる。誠意ある謝罪なら土下座が当たり前。彼氏が土下座させられる姿なんて面白くないだろうに、なぜか四谷もついてきた。どころか額を地べたにくっつける姿を恍惚と眺めている。


「困ってる肇くんも可愛いですから」


 きっと冗談だろう。そう思うことにした。

 けれど、どうしたものか。現実は何一つ好転しない。


 聞くところすでにあの写真が学校中に広まっていて、今更肇が削除したところでなんの解決にもならない。この二人を言い包めたところで周囲が納得してくれない。


 朝からずっと荒波立てない方法を考えたものの至った結論は不可能。あの写真を目撃した全員を納得させる術はない。時間が解決してくれるのを待とうなら、どれだけの平穏が犠牲になることか。


 あの写真がフェイクだったと認めてくれれば鎮圧も早いだろう。が、それには二人の協力が必要。正直に打ち開ければ協力してくれるかもしれない——天使は存在します。名前はアキハって云ってすごくおしゃべりな子で、なぜかわたしだけが天使を認識できるみたい。その原因を突き止めるために協力してくれてる、と。


 面倒を考えればこれが最善。でも天使の肯定だけは本能が許さなかった。

 これは感情を表現できない人間が混沌で出会ったからこそ受け入れられたのであって、普通の人間に伝えたら混乱を引き起こす引き金となる。この秘密だけは墓場まで持っていかなければならない。


「ふふん、お困りのようだね。ボクにいい作戦があるんだけど」


 興味津々で土下座を観察していたアキハがようやく口を開く。得意げに語る天使の声は二人に届かない。二人の前で大っぴらに反応できないわたしはアキハの策を黙って聞いた。


 ——大丈夫か、それ。不安しかない。一か八かのギャンブルにしては分が悪い。失敗すれば世界に天使の居場所を知らせる羽目になる。


 だけどそれしか手立てがなかった。全てをアキハに委ねるしかない。

 この平穏を守るために世界の命運を賭けるなんて横暴、七つの大罪より罪深いことかもしれない。もしも失敗して地上がめちゃくちゃになってしまったら神様は「ごめん」で許してくれるだろうか。


 でも成功すれば眼前に散らばっている問題を一掃できる。コイントスの裏表だと思えば楽に息を吐けた。


「なにが起きても絶対に反応しないでね」


 お安いご用だ。そう云い残したアキハはするりと壁をすり抜けてどこかに飛んでいった。

 この作戦の鍵はわたし。表情を出さないのはわたしの十八番。そしてプレッシャーを感じにいくいのも折り紙付き。不安はない。


「もう正座は飽きたから崩していいよ。そろそろ食堂行こう」

「ちょっと待て。足痺れたから休ませろ」

「しょうがないな」


 両足を伸ばして姿勢を楽にする肇と、お腹が減ったと腹をさする四谷。この子、さっき教室でパン食べてなかった? 思わず記憶を疑うが真偽を明らかにするのは絶対によろしくない。特に女子高生相手には。時には購買部のパンで満足できない日もあるだろう。


 しかし作戦に支障なし。どころかこの流れは完璧だ。


 足の痺れが落ち着いた肇は四谷の肩を借りてゆっくりと立ち上がる。合法的に女の子に触れられる口実ができて嬉しいのかニタっと笑う肇が気味悪い。

 わたしが何も云わずとも、二人は先陣を切って食堂に進む。よほどお腹が空いていたのだろう。もしくは……二人きりの極秘会談を邪魔されたくないのかも。


「どうした?」

「いえ、その、葵さんの隣に天使さんがいないかと」


 頭脳明晰に加えて勘もいいとはなかなか。ま、今はいないのだけど。


「けどよ、あんなに可愛い子が葵なんかを守るなんて酷だよな」

「まだそんな軽口叩けるんだ」

「撤回します」


 たんたんたんと上履きが弾む音が響く。口裏を合わせたわけでもないのに誰一人喋らなくなる。二人はきっとわたしが不機嫌になったと思うはず。これでおそらくお腹がいっぱいになった隙を狙ってくるだろう。


「——あれ」


 急に立ち止まる肇。不可解なものでも見るように防火扉を見つめた。


「今、こっから物音聞こえなかった?」


 ぶんぶんとかぶりを振る四谷。隣にいた彼女が懸命に否定しているのに肇は信用せず、扉の前から微動だにしなかった。


「も、ものが落ちただけですよ。それか誰か、中で作業してるとか」

「……泥棒かな。ちょっと覗いてみよう」


 やめてよと静止する四谷を振り切り扉に手を伸ばす肇。冷静になれば真昼間に幽霊とか泥棒とかありえないのに、不可解な現実が秀才を惑わせた。

 ドアノブまであと数センチ、というところで急にギィと不快な音を立てながら扉が開く。

 不意の出来事に二人は飛び上がる。普通に考えれば中にいた人が扉を開けただけなのだけど、足音さえ反響する静かな空間でなにかが動けば人は驚く。

 二人はすぐさま後退り。けど足一歩分、肇が前に出ている。身を挺して女の子を庇うところは好感が持てた。


「え」


 場が固まった。部屋から現れた人物に二人は硬直している。

 わたしより頭一個分背丈が小さく、目がぱっちりとした西洋人形のような少女。空色の髪を振り撒きながら扉を静かに閉めるその様は異国のご令嬢。制服姿の少女は硬直した二人に頭を下げるとスタスタとわたしの方に向かってくる。

 後ろの二人には顔を見られないとはいえ、すれ違い様に可愛らしいウィンクを飛ばしてくるのはいかがなものか。

 わたしは視線を合わせず瞬きもせず、少女がどこかに去るまでいつも通りの無感情を貫く。去った頃を見計らって呆然と立ち尽くす二人に声をかける。


「どうしたの? 二人とも揃って固まって」

「……は、はぁ? 今の見てたろ。お前と一緒にいた天使が倉庫から出てきたんだ」

「冗談云わないで。なにも見てない」

「ふざけるな。お前の横を通ったろ。騙そうたってこっちには証人がいるんだ」


 肇にこくこくと頷く四谷。


「い、いえ、本当にあの天使様が現れたんですよ」

「あれは肇が加工した写真でしょう。ったく、わたしの迷惑も考えろ」


 ただでさえ不思議なことが起きた直後だ。焚き付けるように否定すれば癇に障るのも無理はない。


「あれは正真正銘本物だ。日奈ちゃんが証人だ」

「一応弁明するけど身に覚えがない」

「だろうな。面倒くさがりのお前がベラベラ話すとも思えない」

「うーん、ならこの場に嘘つきはいない、と」

「どういうことですか?」


 思ったとおり、先に言葉を返してくれたのが四谷だった。興奮する肇を制するような冷静な声だ。肇が四谷の声に怯んだ隙に一気に畳み掛ける。


「わたしは天使なんて知らない。でもなぜか写真には天使が写っていた。あなたたちが嘘をついていないとすると、天使はカメラを通して認識できる。そう思ってた」

「意味がわからないな」

「たった今、天使を目撃したんでしょう? もちろんわたしは見てない。とすると、天使を目撃したのは肇と四谷さんだけなんだよね。あまりにも突拍子もないから信じてもらえないと思って云わなかったんだけどさ——肇たちが見たのって幽霊なんじゃない?」

「……幽霊?」


 嘘で塗り固めた理論を正面からぶつける。

 信じられないのも当然だ。幽霊とか心霊とかオカルトなんて所詮は創作。真昼間の幽霊ほど当てにならないものもない。真実に嘘をぶつけるなんて趣味が悪いと思う一方、盗撮魔にはお灸を据えねば気が済まない。土下座はゲームの分。平穏を壊したツケはきっちり払ってもらわないとね。


「お前もバカだなぁ。俺たちを嵌めようとドッキリを仕掛けるなんて」

「ドッキリだとするなら——急いでその子を追いかければ?」


 その言葉で聡明な彼女は大きく目を見開いた。そして肇を置き去りにしてバタバタと少女が進んだ方向へ駆け出す。しかし肇はすぐに追おうとはせず、力強い眼差しで睨んでくる。


「お前のこと、信じていいんだよな。これでもし捕まえたら」

「当然だ。だってわたしは相棒なんでしょう?」



    ◇



 これで窮地は脱しただろうか。天使が写った原因がわたしではなく淀橋肇と四谷日奈子となれば、少なくともわたしの周りの面倒は根絶する。

 あの写真に写ってしまったアキハを肯定も否定もせず、尚且つ真実から遠ざけた。


「ふふん、どんなもんだい。我ながらクレバーで惚れ惚れしちゃう」


 罪悪感を抱くほど器用な性格ではない。嘘を展開したことより無事に面倒を手放せて安堵する自分は悪なのだろうか。

 ま、今この瞬間はアキハと成功を祝おう。

 日奈子を追って肇がいなくなると悪どい作戦の立案者が悪魔のような笑みを浮かべてふわふわと戻ってきた。二人がどんなに学校中を探し回ろうと空色の髪の少女は絶対に見つけられない。これも天使の特性と人間になれる力を最大限に利用した、常識を逸脱した奇策のおかげ。


「クレバーというかアグレッシブというかオーバーキルだ」

「むぅ、仕方ないじゃないか。他に作戦がなかったんだから。それよりさ、葵に確かめたいことがあるの」

「確かめたいこと? あぁ、さっきのゲームのルール?」

「ううん、それよりもっと大切なこと」


 その声はどこか重い。ふと初めて会った時の横顔を思い出す。同じ景色を見ているはずなのにまったく違うものを見つめているような謎めいた表情。ひょっとして手がかりでも見つけたのだろうか。ならここで教えてほしい。


「ダーメっ。家に帰ってから二人きりで話そう。それよりボク、早く学食とやらに行ってみたい。美味しいものがたくさんあるんだろう?」


 話してくれるなら構わないけど。でも行ったところでアキハが食べられるわけでもあるまいし。それとも指名手配中なのに人間化して問題ないと思ってる? せっかく人を騙して手に入れた安寧を放棄しろと?



    ◇



 カレーライスをちょうど半分食べ終えた頃、ぜぇぜぇと息を荒げたカップルが学食にやってきた。ぐったりとした様子で空いている椅子に腰掛け、二人して紙パックのジュースを勢いよく飲んでいる。肇に至ってはもはや握り潰している。


「わたしの分は?」


 先日の取引にあたってジュースを奢ると云ったのは肇本人である。報酬をすっぽかされたと思ったが、肇はポケットから生ぬるい飲み物を差し出した。ジュースじゃなくて牛乳なのはなにかの当てつけだろうか。


「で、見つかった?」


 力なく首を振る肇。そりゃそうだ。だって二人が目撃した少女ならわたしの隣で指を咥えて物欲しそうにカレーライスを見つめているのだから。


「次の授業ふける。もしかしたら隠れてるのかも」


 相変わらず諦めが悪い。彼が口にした以上は本気なのだろう。でも四谷はそれを許さない。


「ダメです。ただでさえ成績が悪くて目をつけられているのに」


 おぉ、あの肇がたじろいでいる。むぅと唸ったが四谷の気迫に根負けして渋々諦めた。

 それ以降、学食では言葉を交わさなかった。というより八つ当たりといわんばかりにカツカレーを掻き込む二人にどんな言葉をかけたらいいかわからなかった。一足先に食べ終えたわたしは二人を食堂に置いて教室に戻った。


 授業が終わってすぐ飛び出したから机の上はごちゃごちゃ。気づけば昼休みも残り五分。残りの時間は片付けと次の授業の準備に充てた。


 周囲の視線は今朝から変わらない。幸か不幸か好奇心を向けられるのも慣れてしまった。あの嘘がどれだけ通じるかわたしにもわからないけど、昨夜の拡散力を踏まえれば効果は明日にも現れるだろう。


「おぉい、大変だ」


 なにやら廊下が騒がしい。昼休みも終わり間際なのに元気なやつらだ、と他人事のように聞き流した。


「幽霊が現れたぞ!」


 息を切らした生徒が教室に向かって声を張り上げる。賑やかな教室を鎮めるには十分な声量。興味を惹きつけるには十分な内容だった。



    *



 昼休み、四階の廊下で淀橋肇と四谷日奈子が天使と思しき少女と遭遇した。だが写真のような光輪や翼はなく、学校の制服を纏っていた。すぐに後を追うも見失い、現在も捜索中のことだが手がかりすらない。目撃したのはあの写真を撮影した二人だけ。

 つまりあの天使は——幽霊。

 不運な事故で命を落とした女子生徒が青春を打ち切られた未練を宿して今なお登校している。悪戯好きの彼女は毎年一人のカップルを選んで憑依し三人で青春を謳歌する。それが『空色幽霊騒動』の真相。



    *



 よくもまぁ、こんな短時間で物語を作れたものだ。小学生が考えそうなオカルトを信じる高校生なんているわけがない。最初に幽霊説を提唱したのは他ならぬわたしだけど、改めて他人の口から幽霊と語られても滑稽としか思えない。

 あの場の雰囲気で押し通せた詭弁も教室ならただの戯言……


「幽霊? ……なにそれ、面白そう!」

「おい、早く見た場所に連れてけ」

「最初から天使なんてどうも嘘くさいと思ったんだ。まだ幽霊の方が信憑性がある」


 いつの間にか教室はがらんどう。……どうやらわたしはこの学校の生徒をみくびっていたようだ。


 天使だの幽霊だの、幼稚なフィクションを鵜呑みにする連中を常識人と認識していたわたしは猛省しなければならない。程よくいえば純粋、悪くいえば子供心を忘れない変人。同じ衣装を纏った数少ない常識人から云わせてもらうと、同類と思われるのは甚だ以て遺憾である。

 せめてわたしのように混沌で天使と遭遇しても動じない心を見習ってもらいたい。

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