4. 原初の一枚


 神秘との邂逅を終え、ふと時刻を確認すれば待ち合わせの時間が迫っていた。まだ互いに自己紹介しただけで疑問は山積み、どころか深まるばかり。


 まぁ心優しい沼津店長のことだから遅刻したって笑って許してくれる。このまま話し込んだって構わないけど、なんせここはコンクリートジャングルのど真ん中。深淵を覗く時なんとやら。混沌の住民がこの珍妙奇天烈なやり取りを聞いているかもしれない。一度、場所を変えるべきだろうが、その前に訊かなきゃいけないことがある。


「その姿、本当に見られてないんだよね?」

「そうだよ、なんなら今、下に降りてみようか」

「ごめん、ちょっとこれから人と会う約束をしていてね。悪いけど先にそっちを済ませていい?」

「ん! わかった!」


 うん、物分かりが早くて助かる。天使の感覚だと人間の用事なんて一瞬なのかもしれない。

 アキハと共に屋上から離れる。扉を閉める刹那、ここから見える景色を脳裏に焼き付けた。


 古びた雑居ビルの踊り場でテンポよく階段を踏み鳴らす女子高生と浮遊する天使。そのシュールな光景はさながら映画のワンシーン。幽霊に取り憑かれてると勘違いされても反論できなかった。


「にしてもずいぶん年季がある場所だね。いろんな感情が散りばめられてる。巡礼地とか教会ならさほど珍しくないけど街中の一角でこれほど集まってるのはボクでも初めて見る」

「わたしには薄汚れたビルにしか見えないけど」


 アキハの言葉に答える前に念の為、周囲を確認。もっともこのビルに立ち入る人間なんて沼津店長くらいだけど。


 このビルは秋葉原に数多あるビルの中でもとびきり古い。父曰く、『もんもん』が開店した当時からまったく変わっていないようだ。


「天使は色で感情を識別できる。喜びは赤、悲しみは青、怒りは鼠色ってね。特に人間は器用だから感情を複合させたり無機物に移したりできる。このビルだと桃色、橙色、床や壁……葵が掴んでるその手すりにも感情が込められてる。きっとここで長い間、たくさんの人間が感情を動かしたんだね」


 イマイチ理解できない。残念なことに人知を飛び越えた神秘に順応できるほど優れた頭脳ではない。それに感情なんてもっぱら門外漢なので適当な相槌を打ちながら三階まで降りた。


『もんもん』の玄関は閉ざされていた。中から明かりは見えないし物音も聞こえない。

 この立て付けの悪い引き戸を開けるにはコツが必要だ。ただ横にスライドさせるだけだと滑りが悪くて途中で引っかかる。だから開ける時は真上に持ち上げて動かさないといけない。慣れない頃は苦労したものだ。


 扉を開けた先から漂ってくる芳香剤の香りはあの頃から変わらない。目を閉じればタイムスリップした感覚。しかし現実と向き合うと世界は薄暗く、煌びやかに輝いていたショーケースも空っぽで、所狭しと並んでいたボードゲームは姿を消していた。床一面はダンボールや書類の束で敷き詰められていて足の踏み場もない。かつての栄華は見る影もなかった。


「だいぶ早かったね」


 店の奥の物陰からひょっこりと顔を覗かせたのは、鶏冠のように爆発した髪型が目を引く小太りの男が沼津茂。この店の長であり、わたしの父の大学時代の後輩兼わたしの恩師でもある。出先から帰ってきたばかりなのにもう片付けを始めているようだ。


 適当に座っててくれないかと云われるが、椅子があるプレイスペースまで辿り着けるだろうか。ったく、骨が折れるな。何度もよろめきながらも、なんとか腰を下ろせた。

 こんな狭いところだとアキハも歩きづらかろう……と思ったのも杞憂だった。

 そういえば天使は空を飛べるんだ。床の障害物どころか壁やショーケースも神秘に関係ない。室内でも鳥のようにスイスイと宙を飛び回っていた。こんな汚いところに嫌な顔をするどころか興味深そうに物色している。

 好奇心に満ちた顔をされると無邪気な子供にしか見えない。今現在、人間離れした力を行使しているのに。


「こんな場所に大切な娘を待たせたと知ったらカンカンに怒るだろうね。早速本題に入るとしよう」


 店奥から重厚なジュラルミンケースを抱えてやってきた。一時間ほど前の通話以上のことは知らない。沼津店長も多忙だろうに、わざわざわたしのために時間を割いてくれるとは。見せたいものはどれほどの逸品なのだろう。


 きっとわたしを驚かせたいに違いない。普通の人間ならありのままの感想を述べられるらしいが、普通でない人間にとって危険と隣り合わせ。だからわたしは事前にいくつかのリアクションを用意しなければならない。とりあえず「驚き」と「喜び」でいいかな。いつでも引き出せるように両手に二通りの感情を携えて臨んだ。


 いつの間にかアキハは戻ってきていて、わたしの真上からケースを覗き込む。天使に気づかぬまま店長は慎重な手つきで上部のアタッチを外した。


 ——不覚にも予想外だった。


 わたしの読みが外れたことなんていつ以来だろう。「驚き」も「喜び」もコレの前に晒す感情ではない。


 というより——なぜこんなものがここにあるのか、と、平凡な疑問しか頭になかった。


 眼前の疑問を処理するあまり、みんなが認識する鳥越葵とは正反対の表情、人前で無機質な一面を晒してしまった。ハッと気づいて慌てて表情を取り繕うけど、こんな時どんな表情をすればいいか心当たりがない。

 準備していたリアクションが塵と化した今、先に疑問を片付けるほかない。


「手にとってもいいですか?」

「あぁ、構わないよ。葵くんだからね」


 この場所でたくさんの経験をした。九割以上は人生で役立たない無駄な知識ばかり。まさか真偽を見極める鑑定眼を使うことになるとは夢にも思わなかった。


 今手にしているんは透明のアクリルケースに収められた一枚のカード。かつてわたしもプレイしていた「ソーサリー・スピリッツ」のカードである。


 紙に刷られたカードは外部からのあらゆる衝撃に脆い。そのため一般的にゲームで使用する時はスリーブという袋に入れられる。しかしスリーブに入れたとて最低限の保護であって、貴重なカードになれば専用のアクリルケースに入れられることが多い。衝撃から強くなる一方、ゲームに使用できなくなるのが難点だ。


 ただでさえ厳重なアクリルケースに守られているのに、さらにジュラルミンケースで保護しているのだ。カード一枚を守るには少々大袈裟だと思ってしまう。だからまさかカードが入れられているとは思っていなかった。

 生粋のゲーマーである沼津店長にとって相手の裏を掻くのは造作もないようだ。


『Before the Coronation』、日本語名『戴冠式の前日』


 これは「ソーサリー・スピリッツ」第一弾のブースターパックに収録された記念すべきカード。今でこそ英語版のみならず世界中の言語に翻訳されているが、初期に販売されたものに関しては限られた数しか出回らず、第一弾のパックは希少性が高い。加えてお世辞にも強いカードではなかったため再録の機会に恵まれなかった『戴冠式の前日』は第一弾のバージョンしか存在しない。


 スマホのライトでアクリルケース越しに表面を照らす。表、裏、念入りに透かしも確認して……うん、少なくとも偽物ではない。カードの表面には傷は一切ないから状態も悪くない。けど他の『戴冠式』と少し違う。


 たとえば四隅の裁断箇所。他と比べてこのカードは丸みがある。

 カードの効果が記されたテキストも記憶と異なる。本来のテキストなら三行だったのに、このカードは四行。どうやら文字のフォントが一回り大きいようだ。違いがあればフェイクを疑うのは当然のこと。

 しかしわたしには心当たりがある。


「ソーサリー・スピリッツ」の開発段階で刷られたテストカードの総称——プリミティブ。

 その愛称は初期の開発者の間で使用されていた、らしい。


 らしい、というのも今日まで公式はプリミティブの存在を認めていない。どこからその愛称が漏れたのかも不明で、プリミティブが公の場に姿を現われた記録もない。まさに知る人ぞ知る都市伝説。噂によれば現存しているプリミティブは一枚だけ、つまりコレだ。


「プリミティブ、ですよね。どうしてこんなものが?」

「おぉ、さすが葵くん。正解だ。記憶力の良さは健在だね。これはアメリカの友人が譲ってくれたんだ。あの事故を乗り越えて新たに歴史を積み上げていくチームに託したいってね」

「——なるほど、いいものを見させてもらいました。ありがとうございます」


 赤子を抱くような慎重な手つきで店長に渡す。再びジュラルミンケースに収めた店長はそれを抱えて店の奥に向かった。生涯二度とお目にかかれない貴重な品を見せてもらっても心は揺れ動かない。期待を超えたのは事実だったけど、これで感情を自覚できたら苦労しない。


 店長が下がっている間、もう一度店内を見まわした。あれだけ笑いと悲鳴と感嘆の声で溢れていた遊び場の影もなく、埃まみれの荷物置き場になっている。


『もんもん』は今年の三月、創業に二十年の節目に閉店した。理由は二つ。このビルの老朽化で取り壊しが決まったこと、もう一つが——


「あーおーいー、ぜっんぜんわかんない。さっきのはなに? 教えてよー」


 両頬をぱんぱんに膨らませて口を真一文字にする天使の存在をすっかり忘れてた。

 そうだったね、沼津店長との約束を済ませたんだから今度はアキハの番だね。


「すみません、用事があるのでもう帰ります。店長も頑張ってください」


 奥まで届く張り上げた声を出す。無事に届いてくれたようで「またね」とひょっこり顔を出して見送ってくれた。


 アキハの存在は気づかれていない。だから悪路を通り抜けるどさくさに、宙に浮いているアキハの手を掴んだ。軽く引っ張ってみると風船のようにふわりとついてきてくれた。重さは何も感じなかった。


 嬉しそうなアキハは店の奥にいた店長に手を振った。当然、店長には見えないのだから意味のない行動だ。

 こういうことは好きではない性分なのだが、多分これは天使なりの賛辞なのかもしれない。

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