第44話『湖に沈んだ女のキス』

支笏湖──北海道でも有数の透明度を誇るこの湖は、吸い込まれそうなほど青く澄んでいる。だが、その静けさと美しさの底には、数え切れないほどの哀しい物語が眠っているという噂もある。


俺は、ある夏の日に訪れた支笏湖で、思いもよらぬ体験をした。


観光ボートを借り、ゆっくりと湖上を漂っていた。青空が映り込んだ湖面を眺めていると、あまりの水の透明度に誘われるようにして靴を脱ぎ、素足を水に浸した。


足を垂らすと、冷たい水の感触が心地良かった。あまりの気持ちよさに目を閉じた瞬間──足の甲に何か柔らかな感触が触れた気がした。


(魚かな?)


そう思ったが、魚にしては妙に柔らかく、ふっくらした感触だった。しかも、その感触は徐々に足首からふくらはぎへと、まるで誰かの唇のように這い上がってくる。


「……っ!?」


驚いて湖面を覗き込んだが、水中にはただ深い青が広がっているだけで、何も見えなかった。なのにその感触は消えず、ひざ下まで唇が這うような柔らかな刺激が続く。


鳥肌が立った。慌てて足を引き上げたが、肌にはまだ冷たく濡れた唇の感触が残っていた。


早々に岸へ戻り、宿に向かったが、嫌な予感は消えなかった。


宿で夕食を済ませ、温泉で疲れを癒やした後、俺は寝床に就いた。


夜更け。突然、水音で目を覚ました。最初は風呂場の蛇口が開いているのかと思ったが、違った。音は徐々に近づき、俺の布団の足元で止まった。


そして、濡れた何かが布団をめくり、ゆっくりと這い上がってきた。


「……誰だ?」


声を絞り出すが、身体は凍りついたように動かない。ひんやりと冷たい肌が俺の体に密着してくる。


湖で感じたあの唇が、今度は俺の腹部から胸元へと這い上がり、首筋へと到達する。


耳元で、かすかな囁きが聞こえた。


「一人は寂しいから……ずっと、一緒にいて……」


それは確かに女の声だった。俺が見えない存在の感触に混乱する中、唇が胸をなぞり、舌が肌を舐め回す。


抗えず、俺はその冷たく濡れた舌と唇の感触に囚われ、気がつけば生々しい快楽に身体が震えていた。


翌朝、目が覚めると布団がじっとり濡れていた。汗ではない。まるで誰かが濡れた身体で横たわっていたかのようだった。


恐怖を感じ、急いで宿をチェックアウトした。その際、年配の宿主が俺の顔色を見て言った。


「あんた、夜中に水音を聞いたか?」


「ああ、何かあったんですか?」


「あそこは昔、支笏湖に身を投げた女の幽霊が出るって噂でな。水音がするときは、その女が誰かを求めて来るんだそうだ……」


宿主の言葉を聞き、身体中に悪寒が走った。俺があの夜感じた冷たく濡れた肌の正体は、支笏湖に沈んだ女の霊だったのだろうか──。


それ以来、俺は異常な体質になった。


水のある場所──風呂場やシャワールーム、プールや湖畔──で自慰しようとすると、必ずあの冷たい唇が俺の下半身に吸いついてくるようになったのだ。


たとえ一人きりであっても、水音が聞こえ、誰かが這い寄り、俺を執拗に求める。


ある夜、シャワー室で水を浴びていると、耳元であの囁きが響いた。


「もう、逃げられないよ……水の中には、いつも私がいるから……」


それから俺は、水に触れるたびにその感覚を思い出し、震えるようになった。恐怖と快感が入り混じった、その奇妙な体験に心までが縛られてしまった。


もう、あの湖で受けたキスからは逃れられない。水の中にいる女は、俺を永遠に離してはくれないのだから──。

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